トルストイとナポレオンのモスクワ侵攻
すでにご案内のごとく、1923年、聖師さまがエスペラント語を大本に導入されましてより、本年で100周年を迎えます。その記念の祭典・行事が9月に聖地で催されます。この行事にはザメンホフ博士の曾孫であらせられるマーガレット・ザレスキ・ザメンホフさんもご出席くださいます。また、綾部、ブラジリアにつづき三度目のエスペラントによる歌祭りも行われます。時もとき、ロシア・ウクライナの戦争など不安な情勢が世界を支配しております。平和の言葉・エスペラントによる歌祭りで平和を祈る大切な機会となります。献詠歌もすでに500首集まっていると聞き及びます。
さて、本日は、テーマがテーマですので、少し暗いお話からさせていただくことになると思いますがお許しください。
ロシアの文豪、トルストイの小説に「戦争と平和」という作品があることは皆様もご存知のことと思います。ハリウッド映画にもなり、オードリーヘップバーンと、ヘンリーフォンだが主演しています。
この映画は、1800年代のヨーロッパを舞台にストーリーが展開してゆきます。ナポレオンのフランス連合軍77万1500の軍隊がモスクワに侵攻してアレキサンドロ率いるロシア軍と戦います。物語はこの戦争を背景に三人の貴族の若者の愛を描いてゆきます。民間も含めて両者あわせて100万人に及ぶ犠牲者がでた歴史上最も悲惨な戦争といわれています。
ヘンリーフォンダが演じている主人公のピエールは戦争には参加せず、ナポレオン軍とロシアの戦闘を見たいと言って戦場に行き、「こんな無意味なものはない、ナポレオンが憎い」と言い、ナポレオン暗殺を企てます。
トルストイ自身、1853年からちょうどザメンホフ博士が誕生する3年前まで続いた「クリミア戦争」に従軍しており、この中のピエールの言葉は、トルストイ自身の思いであるかもしれません。
ナポレオンの部隊は、侵略地で食料など部隊に必要なものを強奪して間に合わせてきたため、もぬけの殻で火で町は焼かれたモスクワでは何も得られず退却を余儀なくされます。冬将軍にも襲われ、べレジナ川にたどり着いたころには、77万の軍隊は、5000人にまで減っていました。マイナス40度の雪の中をべレジナ川まで退却するナポレオン軍の何処までもつづく長い隊列が印象的な場面でした。
ヨーロッパでは、紀元前500年くらいから第二次世界大戦まで大小700に及ぶ戦争が起きています、その都度地図が塗り替えられていますので、今、現在のものしか役に立たないと言えます。もちろん歴史に言及する場合は、その時代の地図が必要ということになります。
とにかく、ロシアだけが横に一万キロに及ぶ広大な国土を有しており、あとの国ぐには、さほど広くない面積の中で常に戦々恐々として何千年すごしてきたわけです。それぞれの国が不可侵条約と同盟を繰り返してきました。
事実、すでにお話いたしましたトルストイの小説にある「ナポレオンのモスクワ侵攻」の1800年代は、この露仏戦争のほかに、イタリア独立戦争、フランス・オーストリア戦争、また、この1800年代の後半には、帝国ロシアによるユダヤ人迫害、つまりポグロムが今のウクライナで起こっています。
ザメンホフはこのとき22歳の青年でしたが、ポグロムを避けて地下で生活したと言われています。
現在のヨーロッパは、総人口7億4400万人、ゲルマン・スラブ・ラテンの三大民族が約54カ国に分かれて生活しており、24の公用語が話されています。
こうしたヨーロッパの状況と四周海に囲まれ一つの言語のみを話す日本とはあまりにも大きな違いがあります。ヨーロッパや中東、アフリカの国ぐにと比べて、終戦から78年日本には内戦も戦争もなく比較的穏やかな日々を過ごしてきました。
第一次世界大戦の原因
私は、1945年、昭和20年愛知県岡崎市のお城の付近、正確には当時は城跡で生まれました。この年の8月が終戦ですから、私の生まれた1月9日はまだ戦争中で、毎日、アメリカのB29戦闘機が岡崎の空を襲い、爆撃が繰り返されておりました。
ちょうど空襲警報が鳴り始めたとき母が産気づきまして、私が誕生しました。したがって、私はそのときの事を当然覚えておりませんので、戦争を知らない世代といえます。ただ生まれてきておりますので、まったく関係ないというわけでもないわけです。
そうして、この第二次世界大戦も元はといえばヨーロッパに端を発した第一次世界大戦の続きでありました。もっと遡れば、1488年、15世紀のポルトガル・スペインの大航海時代が関係しているのであります。ヨーロッパの二大列強でありましたこの二国及びこれにならった国々が世界各国で植民地を作って周り、この植民地がその所有国をアメリカの経済恐慌から救ったのであります。逆に、第一次世界大戦で戦争の負債国となり莫大な罰則金を科せられ植民地を持たないドイツなどがこの経済恐慌の煽りを諸に受けてしまいました。やがて、ゲルマン民族だけが優秀であると思い込んでいるヒットラーが台頭してきて、ヨーロッパを恐怖のどん底に陥れる結果となります。
第一次世界大戦は、1914年、ボスニア・ヘルツ・ゴビナの首都サラエボにオーストリア皇太子夫妻が訪問、そのおり、セルビアの青年が銃で夫妻を暗殺したのがきっかけになったのです。
エスペラント語が誕生した環境
少し戻って、トルストイが「戦争と平和」を書いた1800年代、このヨーロッパの情勢の中、1859年、現在ロシアとウクライナの戦争がつづいていますが、そのウクライナの隣のポーランドのビアウイストックという森と大河の流れのある美しい町でザメンホフ博士は生まれました。ナポレオンのモスクワ侵攻のあった約50年後のことです。この静かな原始的地にやがて四方から文明が流れ込んできます。14世紀にラトビア、16世紀にポーランド、18世紀にプロシア(ドイツ)、その後、ロシア帝国が支配します。18紀から19世紀にイギリスをはじめヨーロッパ各地で起こった「産業革命」の影響もあってか、やがて流浪の民と言われたユダヤ人が移り住んでまいります。ザメンホフ博士の生まれたころには、ビアウイストックの住民の70パーセントがユダヤ人、20パーセントがポーランド人、あとの10パーセントがドイツ人とロシア人という構成でした。1906年、ジュネーブで開かれた第二回世界エスペラント大会のあいさつで、ザメンホフ博士はこのころの恐ろしい体験を次のように語っています。
「幼いころ、ビヤウイストックの同じ町で生まれ育った人たちが互いに憎しみあいながら生活しているという阻害性を見て心を痛めていました。そのとき、私が夢見ていたのは、そのうち年月がたって、すべてが変わりよくなるだろうということでした。実際にその年月が過ぎたと言うのに、私は美しい夢どころか、恐ろしい現実を見ることになったのです。生まれ育った故郷の町では野蛮な人々が斧や鉄棒を持っておとなしい住民に野獣のように襲い掛かって
いました。その原因といえば、お互いに違う言葉を話し、異なった宗教を信じていたということだけなのです。そのために脳天を打ち砕かれ、目をくりぬかれ、男も女も老人も無力な子供たちも例外ではありませんでした。私は、ビアウイストックのこんな残酷なシーンの詳細をお話したくありません。エスペランティストの皆様には次のようにだけ申し上げたいのです。私たちが戦っている民族間の壁はまだまだ恐ろしく厚い、と」
幼いザメンホフ博士にとって、宗教の壁は高すぎてどうにもならないけれど、国や宗教の違いはあっても共通の言語があれば、今よりもっともっと不幸なことは少なくなるに違いない、とまず物理的に共通言語の創造を夢みるようになります。そして、1887年、博士28歳のとき、D-ro Esperanto のペンネームでエスペラント語を発表するにいたります。
国際語としてのエスペラント
ここで国際語について少々お話しておきます。国際語には、自然国際と人工国際語と二種類に分けることができます。ギリシャ語、ラテン語、フランス語、英語などのように一国語が共通語の役割をしているものを自然国際語と呼んでいます。エスペラント語のように人工的に創られたものを人工国際語と言います。人工国際語でも何もないところから作り上げるものとエスペラントのようにある言語を基礎として作りあげるものと二種類あります。よくエスペラント語は文化や歴史がないからだめだという意見を述べる人がいますが、これは大きな間違いであります。列強の言語が公用語になるということは、他の民族にその言語を強いたりその民族の風習や文化まで押し付けることになり、不公平ということになります。反対にエスペラントは特定の民族の文化・歴史・宗教・政治などを持ちません。つまり、あるのはエスペラントそのものの文学や中立的文化だけであります。不公平も差別もありません。どんな場合でも中立であります。エスペラントにあるものは使用する両者を中立・平等の立場に置くということだけです。
人工国際語案は紀元前からはじまっており、現在までに800近い案が発表されています。現在までの2000年ほどの間にすべて消えていきました。一番長くもったのがボラピュクで一ヶ月ほどです。そうした中で、エスペラントは136年生き続けています。人類はこの奇跡的事実をもう少し真剣に考えるべきであります。
エスペラント語の長寿を支えている要因の一つに言語としての優秀性があります。エスペラントの初期の時代にザメンホフ博士自身が旧約聖書を翻訳、また、様々な世界文学がエスペラント語に翻訳されています、ダンテの新曲、アンデルセンやグリム童話集、日本文学で言えば、川端康成、芥川龍之介など、現在までに25000冊のエスペラントの本が出版されています。
フランシスコ・バルドミール・ロレンズ
さて、ここでもう一度 1800年代に話を戻します。
1872年、ザメンホフ博士生誕の12年後、ヨーロッパのチェコでバルドミール・ロレンズという偉大なエスペランチストが誕生します。15歳のとき、ザメンホフ博士がエスペラント博士のペンネームで人工国際語を発表したことを知ったロレンズは、すぐにザメンホフと連絡をとり、文通をはじめます。そして、ザメンホフが発表した「第一書」をチェコ語に訳し発表します。ただ、ロレンズは1891年19歳のおり、政治運動に参画したことがチェコ政府から咎められ国外追放となり、ブラジルに移住することになります。ブラジル移住後はエスペランチストとして、またスピリティストとして活躍いたします。ロレンズは著名なスピリティストでもあり、霊媒として活躍するときは104カ国語を駆使して、霊界からのメッセージを受けたと言われております。驚くべきは、生前、ロレンズはエスペラント語を含む36の言語で40冊の著書を出版しているということであります。これらの著書は、現在もブラジルの各書店、あるいはアマゾンなどネットで購入することができます。
このロレンズの生前の著書の中には、ザメンホフ博士やグラボウスキーの精霊の霊界からのメッセージやポエムを纏めた「詩人の声」という著書は有名で、世界のエスペランティストからもよく読まれている作品でございます。
1957年、ロレンズは85歳で他界しますが、その二年後、霊媒・シコシャビエルを通じて「神の啓示・エスペラント」と題する霊界通信を送ってまいります。その中には次のような内容のメッセージがありますのでご紹介いたします。
「私が霊界に帰り知った事実をお伝えします。それは、ザメンホフ博士が地上でエスペラントを創造する以前に、霊界において、半世紀(50年)を費やして、ザメンホフ博士の精霊を中心に幾人かの精霊が補助をして、完成させていたという事実であります。その完成の二年後、ザメンホフ博士は地上に降誕することになったわけであります」
また、ロレンズの精霊は「エスペラントは大切な言葉で、霊界の精霊と人間を結ぶのになくてはならない言語であります」とも伝えております。つまり、エスペラントは、ザメンホフ博士が生まれる以前に、霊界において50年を費やして、すでに研究され創造されていたということであります。
この精霊・ロレンズの霊界メッセージは、この地球という星において、ザメンホフ博士が語学の天才として生を受け、若くして国際語創造という偉業をなしとげるにいたった十分な動機を提供してくれていると思うのであります。そして、私たちのこの現界という世界だけではなく、現界霊界を通じて、大本で言います弥勒の世を打ち立てる神さまのお仕組みの枠の中で、ザメンホフ博士の精霊を中心としたエスペラントにまつわる活動が行われている、そういったことをも強く感じることができるのであります。
カミーロ・カステロ・ブランコ
「リカディーナの恋人」「破滅の恋」などでよく知られるポルトガルのロマン主義文学を代表する小説家でカミーロ・カステロ・ブランコという人がいますが、このブランコも霊界におけるエスペラント事情に関して興味深いことを伝えてきております。
ブランコは1825年、ポルトガルのリスポンで生まれ、小説家として輝かしい業績を残していますが、65歳のとき視力を失い悲観して自殺してしまいます。その後、霊界でどのような体験をしたかを霊媒に語り「自殺者の思い出」というタイトルでブラジル・スピリティズム協会が出版しています。400ページに渡る膨大なものです。エスペランティストのアマウラ・テーラ氏がエス訳しましたが、その補助をしたのが大本信徒のベネディクト・シルバ先生であります。
ブランコは自殺したあと地獄に落ち、苦しみに耐えることができず、神様に助けを求めます。そのとき、上級霊界の精霊が救いにまいりまして、ブランコを「矯正コロニー・ナザレのマリア」という霊界の病院へ入院させます。そこでブランコは3年の間,自殺によって傷ついた幽体の磁気治療を受けます。ここは、自殺した精霊を専門的に治療する病院で、ブランコのほかにも沢山の精霊が入院していました。その後、ブランコは上級精霊にエスペランサという町に連れて行かれ、そこで10年間住むことになります。この町にエスペランティスタ・アンバサード(エスペラント大使館)という名前の学校がありまして、ここで、「クリスチャン・ユニバーサル・サイエンス」という学問を学ぶことになります。日本語で言いますと「キリスト教的宇宙科学」ということになりましょうか。そして、10年間この学問を学んだあと、上級精霊から「霊界の精霊と地上の人間との心の距離を縮める言語があるから、それを学ぶコース」を受けることをすすめられます。この言語がすなわちエスペラント語であります。
ブランコは、後に霊媒として地上に生まれ変わる運命を持っていましたので、エスペラントを専攻したと本人は言っています。そして、エスペラント学習コース終了後、どこかの国に再生することがすでに決まっていると、彼はこの本の中で伝えております。
ブラジルでの宣教活動
私は2004年から約10年にわたって、パリのヨーロッパ本部から引き継ぐというコンセプトでブラジルの首都ブラジリアで宣教活動に従事させていただきました。その中で多くの宗教や精神団体と提携してまいりましたが、今お話させていただきましたブラジル・スピリティズム連盟もその中の一つで、親しくお付合いさせていただきました。
先ほど、バルドミール・ロレンズのところで名前を挙げました、霊媒・シコシャビエルの「われらの住処」は、今は亡きえすみのりや先生の翻訳で天声社から出版されました。このポルトガル版は「ノース・ラー(Nosso Lar)、”エスペラント語でNia hejmo”」は、ブラジリアの映画館では何処も満員御礼になるほどブラジルの人々に愛される人気のある作品です。驚いたのは、ブラジリアの一般の本屋さんにまいりますと、何処の本屋さんにも、スピリティズム関係の本が普通に並べられています。日本で言えば、大本のご神書が普通の本屋さんに並べられているようなものです。スピリティズムのお話をさせていただきましたので、ついでにご紹介させていただきました。
またブラジルも大航海時代にポルトガルの植民地になった大陸であります。バヒア州のサルバドールでは世界ではじめて奴隷売買が行われたところで、今でもサルバドール市内には、奴隷の拷問場所が地下のあちらこちらに残っており、私も案内されたことがございます。また、ポルトガルが持ち込んだヨーロッパの風習や文化、そして町並みにいたるまで、いろいろな場所に色濃く残されております。考えますに、大航海時代にヨーロッパが世界に広がり、国家や民族同士の争いも世界的になったと言えるのではないでしょうか。
ホマラニスモ
さて、霊界と現界にまたがるエスペラントの世界について少々お話させていただきましたが、ホマラニスモと言う言葉を皆様も何度も耳にされたことと思います。このホマラニスモに関しては誤解されている向きも多く見られますのではっきりさせておきたいと思います。ホマラニスモ宣言十条に関しては、全文あらためて翻訳して、みろくの世誌に前編・後編と2回に渡って掲載いたしますので、そちらのほうをご覧いただきたいと思います。
この十か条のホマラニスモ宣言は、1913年にスペインの「homaro」と言う機関誌に掲載されましたが、この「まえがき」にザメンホフ博士自身が明確に説明していますので、ご紹介します。
「ここにあげる宣言は私の政治的・宗教的信条である。私はエスペラントの創始者として知られているため、多くの人はホマラニスモを多分エスペラントまたはエスペランティスモ(エスペラント主義)の「内在精神」と同一視するかも知れない。が、多分それは間違いである。エスペラントの本質は完全な中立性であり、エスペラント主義の精神が提供してくれるのは、中立言語を基礎とした出会いによって自然に生み出される、エスペランティストなら誰でも好きなように解釈できる、普通に受け入れても受け入れなくても良い、ただぼんやりした兄弟愛的な感覚や希望である。一方、ホマラニスモは、私の純粋に私的な信条を表明したものであり、特別な、しっかり定められた政治的宗教的綱領である。他のエスペランティストには、全く関係ないものである。
エスペラントの敵対者は、私のホマラニスモ宣言をエスペラントに対する武器として用い、私の純粋に個人的な信条をエスペランティストの義務的原則として世界に発表することは目に見えている。このことは、私が、自分の信条を全く発表しないでおこうか、あるいは匿名で発表しようかなどと長い間思い悩んだ原因だった。しかし、少し臆病すぎるのではないかと思ったので、この考えは捨て去ることにした。とはいえ、私個人の政治的宗教的確信に関するあらゆる疑問からエスペランティストを開放するために、私は、第8回世界エスペラント大会開催中にエスペラントに関する全ての役割から公式に辞退することにした。
私は今エスペラントの普及のために私の信仰を公表するのではなく、いろいろな政治的宗教的問題と私との関わりに友人たちが驚かないように、私の信条をただ知って欲しいだけであり、また、私と同じ信条をもつ人たちには、私たちは同じ信条をもつ仲間であることを伝えたいだけである」
ザメンホフ博士は、紀元前110年バビロンで生まれたユダヤ教のラビで律法学者のヒレルを幼いころから敬愛していたと言います。ヒレルは、「神の愛」「隣人の愛」を説き、「自分がして欲しくないことを他人にしてはならない」というのが信条でした。そして、ザメンホフは宗教に関してはホマラニスモ宣言の10条の中で次のように言っております。「真の宗教的命令の本質は、各人の心の中に”良心”という形で存在している。すなわち、あなたが他の人々に対してして欲しいと思うことを他の人々にしてあげなさい。これが、すべての人にとっての宗教的命令の主たる原則である」と。
さて、人類の歴史と世界に大きく影響を与えてきたヨーロッパ、特に「われよし強いものがち」すなわち利己主義と覇権主義で何千年も戦いの歴史を刻んできたヨーロッパ、このヨーロッパを精神的に変革できるのは、国際共通語・エスペラントであり、エペランティモであり、ホマラニスモであります。ヨーロッパという特別な環境に育ち、その苦しみも喜びも、善も悪も、そして戦争も平和も身にしみて知っているザメンホフだからこそ人類に平和と安寧の道を示すことができたのだと思います。
ザメンホフがホマラニスモで望んだものは、大本のご神諭にある「われよしつよいものがち」の心を無くし、「神の愛」「隣人の愛」「誰の心の中にもある良心」を大切にすることであります。私は、エスペラントで平和が紡がれてゆくものと強く信じております。
EPA常務理事 前田茂樹