「万教同根」とは
「万教同根」とは、大正12(1923)年に大本教祖出口王仁三郎聖師が提唱した理念で大本の宗際活動(宗教間対話・協力活動)の根拠となっています。
すべての宗教(いわゆるカルトと呼ばれる反社会的な教団は除く)は「教え」の表現や「説き方」に違いはありますが、その教えの内容を根源までさかのぼれば、すべて宇宙の大元霊である主神に帰一します。つまり、すべての宗教の「根」は同じであるというものです。
こうした神観にもとづき、出口王仁三郎聖師は「万教同根」の理念を提唱しました。
一神即多神即汎神
「万教同根」の理念の礎のひとつに「一神即多神即汎神」という神観があります。大本の神観は、キリスト教のような「一神教」でも、仏教のような「汎神教」でも、ヒンズー教や神道のような「多神教」でもなく、この三つの神観を包含しています。
主神は唯一絶対の存在ですが、同時に無数の(主神の)分霊(多神)に相応の役割を分担させ、神業を展開しています。
主神の働きを総括するときは「一神」ですが、その働きをさまざまに区分するときは「多神」となり、全大宇宙すべてに主神の霊が遍満するという観点からは「汎神」となります。この「一神」、「多神」、「汎神」は本質において同根であり同一体です。
ひとりの人間を例にあげると、戸籍名で呼ばれることもあれば、通称名、愛称、最近ではハンドルネームで呼ばれることもあります。子どもからは父母と呼ばれ、妻からは夫、夫からは妻、会社では役職名で呼ばれることもあります。同じ人間であっても、立場や場所、働きによって、さまざまな呼び名が使われています。
これを、人体の働きに例えると、手の働き、足の働き、頭の働き、耳、目、などと、それぞれが別個の役割をもっています。そこで、仮にそれぞれの働きに名前を付けてみると、「手の神」「足の神」「頭の神」など多くの神の名前で一人の人間を呼ぶことができます。髪の毛や細胞まで名前をつけると、一人の人間は無数の神さまの集まりであるということができます。
その集まりである人間を俯瞰でみると一人の人間になります。その一人の人間にも主神の霊が宿っています。
人類愛善
唯一絶対神である主神は、全大宇宙の万有を創造し、同時に生育する根源神であり、地上でいえば人類、禽獣虫魚、山川草木など一切の創造者です。
創造者と被創造者との間には本質的繋がりがあり、創造者である主神の心(「愛」「善」)は、濃淡の差こそあれ、人類、禽獣虫魚、山川草木などすべてのものに宿っています。
こうした考えのもと、出口王仁三郎聖師は大正14(1925)年、大本の外郭団体として「人類愛善会」を創立しました。
この名称中の「人類」とは人類のことだけを指すのではなく、禽獣虫魚、山川草木など一切(人群万類)を指します。
大本のみ教え
主の神は、宇宙一切の事物を済度すべく、天地間を昇降遊ばして、その御魂を分け、あるいは釈迦と現はれ、あるいは基督となり、マホメツトと化り、その他種々雑多に神身を変じたまひて、天地神人の救済に尽させたまふ仁慈無限の大神であります。(『霊界物語』第四七巻 出口王仁三郎著)
天地万物をつかさどるために八百万の神を生みたまいて、みなそれぞれの役目を仰せつけ、ひろい世界を守り開かせたもうのである。
天帝の御力徳の活動、これを巻いてみれば、ただひとりの神様なれど、その御力徳の活動によって一々御名をとなえるときは、天津神八百万、国津神八百万となる。
ひとりの神よりほかに神はないといって、片意地はる教があれど、それは神の御事をかたより見たるものの意見である。
神様は、すべて唱えまつるときは世界にただ一柱の誠の神様、天之御中主の神となるのである。その働きによりて区別をたてて称えまつるときは、すなわち八百万の天使(かみ)となるのである。(『道の栞』 出口王仁三郎著)
世界の統一は武力や権力でやつた場合は、先に力が出た時はまた一方を圧倒して、争乱の絶間なく永久の平和を招来する事は望まれない。だから如何しても統一は精神的、宗教的、道義的に経綸を進めなくてはならないのである。大本の呼号する世界宗教統一は、大抵の人は世界中が大本の教にならねば、世界宗教の統一でないやうに思つてゐるが、各々意志想念が異うてゐるに相応して、各宗教も異つてゐるのであるから、大きな目で観た場合、名称は神であらうが、仏だらうが、基督であらうが何でもよい。総ての宗教団体なり思想界が、大本の意志通になつたら、それが大本の世界宗教統一が実現したのである。回教でも基督教でも、大本の分所支部位に見做して居ればよいのである。一寸見ると鵺式(ぬえしき)のやうに見えるが、それは皮相の観察であつて、形式はどうでも、精神と精神との統一結合を主眼として、今後活躍するのであるから、誤解のないやうにしてほしいものであります。惟神霊幸倍坐世(『出口王仁三郎全集』第二巻第三篇「宗教統一」第三章「世界宗教統一」)
いろいろの宗派はあれど、詮ずるところはみな一に帰するなり。
大本の教なるものも、決して新しきものにあらず。むかしの釈迦、キリスト、孔子などの言いしことをくり返しおるにすぎず。しかし、現代諸派の宗教と異なるところは、神霊ながく大本に降下して神の意志のままに人の世の経綸を開始されしことの一事なり。
他の諸派の宗教は、その最初こそ、それぞれの教祖に尊く有難き神がかりはありたれ、それ以後は、いわば人為的に作りそだてしまでにして、その外形こそ整いたれ、内容はいたく昔におとり来たれるなり。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)
宇宙の本体たる神性は、すでにすでに完全無欠なのであって、われらは、その完全無欠の一部分にしか面しておらぬから、あたかも不完全のように感ずるまでである。われらが無限と永遠とを獲得しえた時こそ、すなわち、この世界は完全無欠と感ずるであろう。
そして、そうした時が、われらに来る可能性があるかと尋ねるならば、私は「ある」と答える。なんとなれば、われらの最高目的は神に帰することにあるからである。神に帰すということは、自我をうしなわずに神と一つになることである。
物質的にいえば、部分はどこまでも部分であって、ついに全体でありえないかの如くであるが、これは部分を動かぬもの、伸びぬものとしての論である。無限に永遠に、この部分が伸びふくれていったならば、ついに全体に均しくなることは明らかである。
人の肉体的拡充は有限であるが、霊的拡充は無限である。ゆえに、最後には神に達しうるものである。しからば、多くの全能の神ができ上がるように思うかも知れぬが、そんな心配はいらない。なんとなれば、まったく同一になれば一に帰すのであって、まったく同一のものが二つ以上ありうるわけにはゆかぬからである」(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)
つぎに人間からのまつりの対象は大宇宙のいちばん元の力、統率している意志、大元霊、日本の皇典でいえば天之御中主之大神、それがほんとうの対象でありますが、それと同時にいろいろな対象がある、八百万ある。天祖があり、また国祖がある。またその地方地方の国魂の神があり氏神さまがあり、また各家には先祖の霊というものがある。つづめれば一神に帰するのでありますが、ひろげれば八百万である。しかもそれには区別がある、階級がある。稲荷さんを拝むよりは伊勢の大神宮さまを拝むには、拝む気持ちを変え形式を変えねばならぬ。それだけやはり位が違う。その差別を誤ると迷信になりやすい。が、直接の対象がつぎつぎに変わってもかまわない。(究極にゆけば無論一つであるが)特にはじめのあいだは、独一真神大元霊、そういうような絶対の中心の神さまを拝もうとしても漠然として、なかなかどういう気持ちで、どうしたら通ずるかわからぬ、頼りない。それよりも目の前にある氏神さまか、その地方の神さま、国の親さま、直接親しみやすい神霊に対した方が、案外、すすんでゆく上において得るところが多いこともあるのであります。が、しかし、それで止まってはいけない。またその順序を間違ったり、石とか木とかを一生懸命拝んで、天祖、国祖を拝むことを忘れていては本末顚倒であります」
(『信仰叢話』 出口日出麿著)
全大宇宙の創造者にして主宰神たる独一真神(皇典に称する天之御中主之大神にして、天帝、上帝、阿弥陀、ゴッド、エホバ、天主、主等と称する、みな同じ)は時と処と人とに応じ、いわゆる応病施薬、見人説法の理により、先聖をして飢えかわける地上人類の心霊をうるおし満たし、真の幸福をあたえんがために、一見、多種多様なるがごとき教を開かしめたもうたのであって、飯となりパンとなり団子となり、形体と風味とはかわっても、その人体をやしなうの原質と効果とにおいては変りはないのである。(『信仰雑話』 出口日出麿著)
宗教本来の目的は、これを現界的にいえば、地上天国建設にあるのである。すなわち、すべての人類がたがいに愛し愛されつつ神を讃美し、その業を楽しみ、争闘や嫉視反目の影もない真に住み心地のよい世界を造るにある。
各教が個々に完全であることは喜ぶべきではあるが、これをもって満足すべきではない。さらに、他教と親和し協力して、宗教本来の使命を成就するものでなければ、真に完全とはいえないのである。この大なる目的を忘れてしまって、個人救済の方便や教理の末節、外形の相違を論争して、貴重なる人生を徒費するのみか、さらに、宗教あるがために争論の種をまき、平地に波瀾をおこし、相和し相したしめる無垢の人々を駆って修羅のちまたに投ずるがごとき教派は、ただに幼稚未熟なるのみならず、人類共同の敵といっても過言ではないと思う。(『信仰雑話』 出口日出麿著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太