「鎮魂」の法
古来、日本には、雑念などで四散五裂している自分の霊魂を臍下丹田にしずめ、天授の神性をめざめさせる「鎮魂の法」と呼ばれる秘法があります。現在でも古神道などにいろいろな方法が伝えられています。
大本の草創期には「鎮魂帰神」と呼ばれる「鎮魂の法」が盛んに行われていましたが、正しい審神者(※注1)がいなければ、修行者の憑霊が発動し、かえってその人の霊魂を汚してしまうおそれがあったため、大正9年、出口王仁三郎聖師はこの方法を禁じ、以来、大本では「鎮魂帰神」は行なっておりません。
ただし、出口王仁三郎聖師はすべての鎮魂法を禁じたわけではなく鎮魂法の中でも「幽祭」、すなわち霊をもって霊に対する方法については積極的に行うようにとすすめています。この鎮魂法は「鎮魂帰神」とは全く違うもので、「自修・鎮魂」といわれるものです。大本祝詞の「感謝祈願詞(みやびのことば)」にある「鎮魂帰神(みたましずめ)の神術(みわざ)」とは、今日ではこの方法を指すものと考えられます。
現在、主に行われている「自修・鎮魂」方法は、次のとおりです。
宣伝歌(※注3)を奉唱(あるいは八雲琴が奏じられる)なか、修業者は鎮魂の姿勢をとり、四散している自分の霊魂を臍下丹田にしずめる(「大道場修行」(※注2)で講話をはじめる前に行われる)。先達者が「神文(しんもん)」(『霊界物語』第五十四巻 付録)を唱読し、修業者は鎮魂の姿勢をとり、四散している自分の霊魂を臍下丹田にしずめる。単に瞑目静座して行う。
こうした鎮魂法は決して特別なものではありません。日常生活において心がけしだいで誰でもできるものです。注意すべきことは、この鎮魂法は、霊的現象を体験するためでも、奇跡的な霊験を求めるものでもありません。雑念にわずらわされていたり、散漫になっていたりする精神を鎮めて臍下丹田に自身の精神、魂を集中し、集中力を高めるための具体的方法の一つです。
何かをはじめる前に、「鎮魂」で精神を鎮めてから取り掛かることで集中力が高まり、より高い効果を生み出すことができます。
「鎮魂」は一人ひとりが神さまから与えられている神性を開発し、心魂を鍛えるためにも有効な方法です。
(※注1)審神者(さにわ)とは、古代の神道の祭祀において神託を受け、神意を解釈して伝える者。
(※注2)「大道場修行」は講座(座学)を通して、大本の歴史、神観、宇宙観、霊界観、人生観などを学ぶ。年間を通じて開講されている。詳しくはこちら
(※注3)『霊界物語』から抜粋されたもので大本信徒が朝夕拝などで奉唱している。詳しくはこちら
大本のみ教え
鎮魂帰神の修行をするのは、決して神がかりになるといふ目的ではない。元来は至純至粋の真霊魂が臍下丹田に隠れ、他の憑依物が肉体及び良心を犯して了うて居るのを駆除し払拭して、清浄無垢の大本(たいほん)の神霊(所謂(いはゆる)本守護神)の進路を開拓し、各人天賦の使命を自覚遂行せしむる大目的である。病気直しや神占を施行するのが目的ではない。病気直しや神占位は、狐狸でも蛇でも亡霊でも少々腕のある霊は行(や)るものである。神占が的中し病気を直すから、真正の神と思うたら大なる誤解である。大神は左様な事の為に、不潔な人間の曇つた霊体に神がかりさるるものではない。神占をしたり病気直しは、人間界で言うても易者や医師や按摩の職業である。高等官が易者をしたり、按摩をしないと同様に、高級な真正の神は左様な事を為さる暇が無い。モツト他に重大なる御任務を有(も)つて居らせられるのである。(『出口王仁三郎全集』第五巻)
神人合一とか、霊肉一致とか、精神統一とか云うて、種々の霊的研究が行はれて居るが、要するに吾人の霊魂も肉体も、天地の神霊から応分に賦与されたものであるから、開祖の御神諭に現はれてある通り、生れ赤子の心に帰れば、夫れで真の神人合一である、天地合体である、霊肉一致である、精神統一である。一升の桝に一升の酒が容れてあれば、それで良いのである。肉体は一升の桝でも霊魂が五六合しか無い。後の四五合は不純な泥水や異物が補充して居るとすれば、清らかな酒の味も、力も、香(にほひ)も無いやうに、他の邪霊と云ふ泥水や異物が混入して居る霊体は、人としての味も、力も、香も、徳も無い。之を大本では体主霊従、悪霊の宿と云ふのである。此の悪霊の宿を清めて大神の御在所と改造するのが鎮魂の大目的である。生れ赤子は今と云ふ瞬間の事より何も考へて居ない。過去を恨(うら)みず畏れず、未来を遠慮せず、今と云ふ瞬間に自己の使命を惟神に遂行して行くのである。人間は各自一定の目的がある以上は、士農工商何れにしても、一度其目的に向うて進む以上は、過去を思はず未来を遠慮せず、其目的に向つて最善と思惟する所を、時間と共に水の流れに任すが如く、易々として進めば良いのである。今といふ瞬間には神も悪魔もある善悪正邪の分水嶺である。其刻々に善を思ひ、善を言ひ、善を行ひ、過去と未来に超越する。是が所謂(いはゆる)生れ赤児の心で神人合一、天地合体精神統一の真の状態である。鎮魂法で無理に精神の統一を為さむと思ふ其心が、既に統一を欠いて居る。太霊道や静坐法や其他神霊法で統一しようと思ふのは大なる誤解である。鎮魂の必要は是以外に在るのである。(『出口王仁三郎全集』第五巻)
何事にも鎮魂が必要である。
ある事をなさんとせば、まずその始めに当たって、いわゆる鎮魂をなさねばならぬ。すなわち四散している霊を、その点へ集中することが必要なのである。もしこのことなしに事に着手しても、決して成しとげられるものではない。
手を組み正坐瞑目するは、真の鎮魂に入るための一つの形式的修練であって、決してこれだけが鎮魂そのものではない。
レンズで集中すれば、太陽の光線もよく家を焼くことができる。われわれの意念でも、これを一点に集めえたならば、けだし思いもおよばざる大偉力を奏すのである。
吾人の生活の常住坐臥、これ鎮魂の姿勢でなくてはならぬ。鎮魂のできない人は、一生涯なに一つできようはずがない。吾人の活動の準備としては、まず何よりも第一に、鎮魂の修業をなすべきである。
鎮魂の極致は時処を超絶しうるのである。しかして、心身が健全でなくては真の鎮魂はできない。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)
教信徒の間には、幽斎と鎮魂法とを混同して、鎮魂は可成(なるべく)了解の上で執行し、妄(みだ)りに行なはない様にと、警告致しましたら、幽斎までも中止された方々が在るさうですが、是は少し間違ひであります。
斎(さい)には幽顕の二法があり、そして顕斎に属して居るのは、鎮魂法であると云ふ事は、前記の文意と祝詞に由つて明瞭であります。そこで幽斎は、霊を以て霊に対し、天下国家の安全を祈願する神法でありますから、皇道大本にては、ドシドシと幽斎の研究を為し、且つ教授も致しますから、各地の支部も会合所の方々も、鎮魂帰神は、可成(なるべく)了解の充分に出来ない間は、妄(みだ)りに執行せない様にして、幽斎は怠らず研究されむ事を希望致して置きます。幽斎であれば、霊界に対する霊的の神法であつて、現界の法規には何等の抵触する点も無いのでありますから、安神(あんしん)して、充分に勉強して貰ひたい事を附言しておきます。
私は茲に幽斎研究者の唱へて各自の神霊に宣り聞すべき、神言(しんごん)を発表して置きます。併し是は導師の読唱すべき※神文(しんもん)であります。導師はこの神文を唱読して後、幽斎研究者の霊の動静を調査するために二三十分間の正座を導被両者とも要するのであります。(後略)(『出口王仁三郎全集』第一巻)
霊気をもっともよく感ずる肉体的場所は、首から上では額であります。それから、胴体では腹部であります。人間は非常に窮した場合、何かおがむ場合、下腹がグッとふくれるという情態があります。そうなると一種知らぬ力が湧くものであります。この情態にはいる体験を得たいという人があれば、誰が見ても名刀という刀を抜いて見ると、下腹がふくれるということがある。それはどういうわけでなるかというと、刀は緻密でありますから霊気がこもりやすい。天地のほんとうのものは霊気であり、気であります。また刀というものは、打つ時に霊魂をこめて潔斎して打っております。その人の気がはいっております。
気がはいる、ということを俗にいいますが、これは事実であります。おなじ食物でも、心をこめた料理はなんとなしに食べたくなる。ところが喧嘩しながら、あるいは、いやいや料理した食物はまずいです。これは実験ができます。料理人でも最後にゆけば腕の冴えではない。その時の気持ちを尊ばねばならん。俗にわさびとかしょうがなどでも、それを摩(す)る人の気性をあらわすといいます。これも事実であります。柿や蜜柑のようなものに対してでも、非常にいやな気持ちで取りあつかった場合は味がわるくなる。人にすすめるのでも、ほんとうにあげようという気持ちで出したものは味がよくなる。
人間の気持ちというものは実体であります。決して形容でもなんでもなしに、すべてへ流れ込むものである。すべてを作用するものである。そろそろとして、しかも確実にものを動かすものは気持ちであります。気であります。この気の凝るということが一番おそろしい。
刀には打つ人の気がこもる。持つ人も大事にして持つ。よい気がこもっているならば、また天地のよい気をそれに集める、吸い込む。人間でも類をもって集まる。同気相求めるといいまして、同じような者が、なんとなしに集まって来るものであります。そのほうが遊びやすい、話しやすい。犬でも猫でもそうであります。馬は気の合う同士は、顔を合わしてなつかしそうにする。俗にうまが合うということを申しますが、馬というものは、仲がよかったら傍へ来て顔を突き合わしている。うまが合わんと、尻でどっちも蹴り合いをしている。これは、馬をすこし扱った人はご存じのことと思う。それで人間の方でも、うまが合うとか合わんとかいう俗言が出たのであります。あれと同じであります。
良い気があれば、必然的に良い気を呼んでくる。それでその刀には、ますます良い気が充実してくる、目に見えん良いものが、そこに集まっている。そういうものを抜いて見るときは、それに触れるのです。自分は少々けがれておっても良い気持ちになります。昔から名刀を持てば良い気持ちになると申しますが、どうして良い気持ちになるかというと、こしらえがよいとか、よく磨いてあるとかいうのは少しも第一義じゃない、そんなことは問題じゃない。目をつぶっても良い刀は気持ちが良い――目をつぶってもわかります。どこでわかるかというと、額が一番よくわかります。目の不自由な人も物をさがすのにはよく額でさがす。鼻筋の上のちょっと引っ込んだところ、そこが霊気の窓で、そこから気が出入します。
仏画などにはここに目が描いてあります。古い仏画には三つ目がある。俗言に一つ目小僧というのは、この目が光るので、三つ目小僧は、肉体の目とこの目とが光るので、一つ目小僧、三つ目小僧というのは、事実そういうものを霊的に見たのだと思います。
むかし、侍などは眉間を割られるということを、いのち以上に嫌った。それは物質以上、精神的に大事なものでありますから、何となしに本能的に怒ったものであります。人が懸命にものを考えている時には、知らず知らずここに気をあつめております。仕事に屈託した時や気が散ってならぬ時などにも、意識してここに気を集注するようにするとよろしい。――自然、半眼になります。昔から静坐半眼といって、自然にそうなります。
霊的な物を見るということはできなくても、額でその気を感ずるということは、十人が十人できることであります。これはむつかしいことではありません。少しく実修して、静坐でも五分間ぐらい、それも平面的な静坐でなしに、より以上の光を受ける気持ち、拝む気持ち、仰ぐ気持ちがなければいけませんが、そうすればかならず体験することができます。
根底(そこ)に私欲や悪意があっての精神統一であれば、そこへそんな邪(わる)い方の霊がよって来て、余計わるい方へ引きずり込まれる結果になります。
眉間を上田(じょうでん)、それからみぞおちを中田(ちゅうでん)、中田はまた心臓であるという説もありますが、私は、霊気があつまるのは、みぞおちであると断言しておきます。腹が立つとき、悲しいとき、ビクビクするとき、――そうした時には、かならずみぞおち辺の交感神経叢に異常がある。昔から、下腹を練るということをよくいいますが、みぞおちを練るということをいっておりません。それではまだ徹底していない。飯を食うところは口であり、糞を出すところは尻であるにきまっているごとく、霊気でも、はいって来やすい局所(つぼ)、滞っていやすい局所(つぼ)があるのです。そしてみぞおちに来るのは悪い霊気が多い。それには自分でいろいろな場所にあたって考えてみればわかります。また医学的に、怨んでいる人とか、悔んでいるとかいう人を捕まえて実験しても、みぞおちのところの不随意筋がいちばんうろたえておる、興奮しているということは、実験して見ることができます。
次に下田(かでん)とは、いわゆる臍下丹田のことであります。これは臍の下約一寸ぐらいからの、あの辺を中心にした部分であります。仏教の方では福田(ふくでん)を開くというようなことも申します。ここが人間のいちばん中心であります。非常に力がこもるとき、油の乗るときは下腹に力がはいる。何かグングン行く時には、かならず下腹がふくれる――その所であります。ここには太陽叢といって交感神経の末梢がたくさんあります。ここに比較的よい霊気を宿すのであります。恋愛関係とか男女の情について感ずるのは、臍から上の方に一種の電流、暖かみ、ひびきを感ずるのが普通であります。
とにかく、下田、丹田あるいは福田の気というものは、人間のいちばん力になるものである。これを練らねばいかん。これも、さっき申しましたとおり、自分で練ろうとしたところでなかなかむつかしい。そこで、いわゆる信仰です。より以上のものとの繋がりを念じ、信じ、会得してゆき、その気持ちを正しく強くしてゆくというより仕方がない。そうすればそこへ、そういう霊気が余計に来だす。たとえば、国家の大事とかいう時には、何となしに犠牲的な気になり、超人的な崇高な気分になる。そういう時には善霊の加護がある。自覚する、せぬにかかわらず、自分以外から或る霊気が加わってきて、直覚的に決断力ができるのである。
要するにこの三つの田(でん)に意識して、しじゅう気をつけてこれを耕すということは、人生向上の上においてもっとも肝腎なことだと存じます。(『信仰叢話』 出口日出麿著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太