竜宮島
沓島(めしま)・冠島(おしま)は、日本海の若狭湾国定公園に浮かぶ無人島で、舞鶴湾から北に約30キロ、綾部の梅松苑からは艮(東北)の方向に位置しています。
冠島は別名「竜宮島」とも呼ばれ、古事記などに記載されている彦火々出見尊が塩土の翁に教えられて釣針を探しに渡った「海神(わだつみ)の宮」や、浦島太郎が乙姫さまに玉手箱を授かって持ち帰ったと伝えられる竜宮島ともされています。
この島にある老人島(おいとじま)大明神社は、古くから若狭湾沿岸一帯の人々に漁業や養蚕の神として崇敬されてきました。成人した男子は「男は一生に一度は必ず参れ」と言われていますが、女性の渡島は竜宮の乙姫さまの怒りに触れるとして、明治初期までは禁止されていました。
島に上陸する際は、少しでも島が大きくなるようにと願いを込めて石を置いて帰る風習が現在も続いています。また、この島は京都府の天然記念物である「オオミズナギドリ」の繁殖地としても知られ、産卵期には上陸が禁止されています。
沓島は冠島から北東へ3.6キロ離れた断崖絶壁の孤島で、冠島よりも狭く、漁船も近づけない岩の切り立った小島です。ここには「ウミネコ」が生息しています。
大本では、この沓島に大地を創った国祖・国常立尊さまが神界三千年の永い歳月をご退隠し、世界を陰から守護してきたとされています。また、冠島・沓島両島の間の海を「竜宮海」と呼びます。出口なお開祖のお筆先によると、竜宮の乙姫・玉依姫尊さまのお住まいであり、国祖の大神さまとともに多くの善神が押し込められていたことが示されています。
この冠島・沓島を含む竜宮海を総称して「竜宮」または「竜宮島」と呼び、冠島がその入口であると教えられています。
沓島おこもり「戦勝祈願」について
明治38年(1905年)5月14日から25日にかけて、出口なお開祖は日本海の孤島・沓島におこもりになりました。この十日余りの間、戦争を好まない出口なお開祖でしたが、ご神示に従って日露戦争の「戦勝祈願」を行われました。
日露戦争の発端はロシアの南下政策にあり、当時の深刻な世界情勢が背景にありました。日本とロシアの間には10倍から15倍の国力差があり、ロシアが圧倒的に有利でした。世界各国の多くは、この戦争を無謀と見ていました。しかし、開祖さまは沓島での「戦勝祈願」によって日本の勝利を確信し、次のような言葉を残されています。
「バルチック艦隊も近日の中に対馬沖にて全滅するから安心じゃ、お前さまも村へ帰って村の人に知らせて安心させるがよい」
出口なお開祖の言葉通り、日本の勝利で戦争は終結しました。太平洋戦争時の日本とアメリカよりも大きな国力差がある中での日本の勝利は、欧米列強や植民地各国に大きな衝撃を与えました。
神さまは戦争そのものをよしとされるわけではありませんが、この戦争には重要な意味がありました。有色人国家が白人国家を倒した近代史上初の例であり、植民地支配で苦しむ各国に独立への希望と勇気を与え、アジア各国の近代化を加速させました。
沓島・冠島現地参拝についてのお示し
「三十三年の初発には、冠島へ参れと申したでありたが、三十三年の六月の八日に、出口直、王仁三郎、澄子、四方平蔵、木下慶太郎二人の御供でありたなり、沓島を開いて貰うたのが七月の八日、四年の六月の八日にも、船の都合で十日に成りたが、其の折には京都方々から御供が多数ありたなれど、思念が皆違うて居りたから、沓島へ参拝を致してから違うた事がありたら、綾部の大本へは寄り付かれん様になると申して、即座に筆先で気がつけてあるが、世界の大本と成る大望な所が、余り粗末な所にしてあるから、皆これ迄には取り違いを為て居るぞよ。」(『おほもとしんゆ』第四巻「明治四十年旧七月十一日」)
「今度、沓島へ落とされて居りたという事を、世界へ発表わすのであるから、沓島は貴い所であるから、向後で沓島へ行に参りてから、綾部の大本の御筆先に成らんという事を犯したら、向後では大本の高天原へは上がらせんから、何彼の事があらわれて、悄々(しおしお)として、去(い)なな成らん事が出来るという事が、筆先に書かしてある。」(『おほもとしんゆ』第四巻「明治四十一年旧六月八日」)
「昔の生粋の神の、世に落ちて居る尊い処へ、陽気参りの様に思うて、直に神徳を貰うように思うて行って貰うと、漸々(だんだん)参れんように成るぞよ。
沓島へ参るのも此の先は心得んと、沓島は大神の行場であるから、外へ参る様に思うて行くと、却りて不礼に成るから、出口直は控え目ながら一言申して知らすぞよ。昔の生神を世に上げるのに、此の曇りた世の中に、我も私もと申して、如何(どんな)人民も修行も致さずに、彼(あ)れだけ烈しい処へは、ズット参られん肉体が沢山あるぞよ。
此の先は此の方から申すように致さんと、却りて気障りに成るぞよ。申すように致したら宜いなれど、今の人民は心が反対で、神の申す事を聞かんから思うように行かんのであるぞよ。
素直な人民、此の方は好くぞよ」(『おほもとしんゆ』第一巻「大正五年旧七月二十三日」)
「沓島に御礼に参るのも、人民は思いが皆違うから、沓島のような淋しき所に、三千年余りも押し込められておいで遊ばした御心は、どういうもので在りたという事を、汲み感得(と)れる精神の人で在りたら結構なれど、其処までの事がなかなか汲み取れんぞよ。今度神島へ参るのも、同じ事で在るぞよ。
何も判らずに、参りさえすれば直ぐにお蔭が有るように思うて、我も私もと申して参りても、量見が違うから、あの淋しい所へ永くおちて居れた御心の判明る身魂で無いと、誠の神徳は頂けんぞよ。」(『おほもとしんゆ』第七巻「大正五年旧九月五日」)
東海教区特派宣伝使 前田 茂太