「七社参り」~弥仙山岩戸ごもりから弥仙山岩戸開き~

弥仙山於成神社

七社参りとは

草創期の大本では、出雲火の御用、元伊勢お水の御用、沓島・冠島開き等、出口なお開祖による“出修の神事”が次々と行われ、明治34年の弥仙山岩戸ごもり、同36年の弥仙山岩戸開きの神事へと続きました。

“七社参り”は、弥仙山岩戸開きに続く草創期の大本の重要な神事のひとつです。

 

弥仙山岩戸ごもり

明治34年当時は明治政府の宗教政策により、政府公認でなければ布教活動も許されないという状況下で、警察からの干渉も厳しく、それを嫌って参拝に来ない信徒も現れるという状態でした。そこで出口王仁三郎聖師は教団公認化のために、大本を法人組織に改めようと、出口なお開祖に相談しました。

相談を受けた出口なお開祖は神さまにおうかがいをたてられ、

「たとえ警察からなんといってこようともかまわぬから、そのままに打ち捨てておけ」

と、その申し出を退けました。

警察からの干渉はますます激しくなり、そのまま見過ごすことのできなくなった出口王仁三郎聖師は、出口なお開祖に無断で教団公認化を進めようとしました。
このことを聞かれた出口なお開祖は非常に立腹し、明治34年10月19日(旧9月8日)、弥仙山の中腹にある彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)の社殿(弥仙山中の宮)にこもりました。

大本では、このおこもりを“弥仙山岩戸ごもり”と呼んでいます。

お筆先には、

「綾部の大本は世界の大本になるところであるから、どこの下にもならん、この綾部の大本を下にいたして、稲荷講社でやろうとは、えらい間違いできた。小松林(素盞嗚尊の分霊)のやり方では最初にはうまいやり方結構なげなが、尻すぼまりとなるぞよ」(明治35・旧4・7)とあり、
さらに、「昔の岩戸をしめたのも素盞嗚尊でありたなり、二度目の岩戸をしめたのも同じ身魂、こんどは小松林と名をこしらえて、敵対役でありたなり」(明治36・旧5・21)と示されています。

出口なお開祖は、出口王仁三郎聖師の行いは神命にそむく行いであり、神代の須佐之男命(すさのおのみこと)の行跡に等しいと戒めました。

このような出口なお開祖と出口王仁三郎聖師の対立には、深い神的意義がありました。
神代からのご因縁にもとづく神霊的たたかいと※贖(あがな)いのご用であり、世界に鑑(かがみ)を出すと示されている大本の中から「善悪の鏡」を出すための“実地の型”でした。(※一切の罪を清め救うため、身代わりとなって罪を背負われる意)

 

お筆先では、次のように示されています。

「綾部の大本は、錦の機の経論(しぐみ)であるから、経(たて)は変性男子なり、緯(よこ)は女子で、経と緯との戦いで、世界の事が判るように致して、善悪の鏡を出す大本であるから、此の大本から善一つに致して、悪の身魂も善ヘ立ち復(かえ)るぞよ」(明治36・旧12・29)

また出口すみこ二代教主は『おさながたり』の中で、次のように述べています。

「この大宇宙界には経(たて)の厳の御霊の御系統と、緯(よこ)の瑞の御霊の御系統の二大系統があるのでありますが、出雲参り(明治34年7月、「出雲火のご用」)の帰り道に、弥仙山籠(ごもり)へとつながる厳の御霊の教祖さま(開祖さま)と、瑞の御霊の先生(聖師さま)の霊的なたたかいがはじまったのであります。と言いましても、四六時中喧嘩をされるというのではありません。神懸(かみがか)りの時だけであります。先生のことを『このかたは三千世界にかけがえのない方であるから、大事にしてくれ』と神さまは教祖さまに申されておられたのですが、それが教祖さまはてんしょうこうたいじんぐう様、先生はすさのおのみこと様の帰神となりまして、ここにお二人の激しい荒れようとなられたのであります。それで平常のときは、教祖さまは、『これではかないません』と神様にお願いされるのですが、『なおよ、三千年の因縁ごとであるから、もうしばらく辛抱をしてくだされよ』と説き諭すように、また頼むように申されるのが常でありました。……そうこうしているうちに、明治34年(旧)9月、『瑞の御霊の変性女子が敵対(てきた)う』と大変怒られ、弥仙山という山にこもられました。これが天の岩戸がくれと言われるお仕組であります」

 

弥仙山岩戸開き

出口なお開祖が岩戸にこもられている間に、大本教主は永遠に女系であることが神定されました。

 

出口すみこ二代教主は『おさながたり』の中で次のように述べています。

「丁度そのころ私は五カ月の身重でした。教祖さまのところへ位田(いでん)のおすみさん達が御用聞きに時たま行きまして、開祖さまから、「この世がすっかり暗闇(くらやみ)になって水晶の種がなくなってしまったから、このままでおいたら此の世は泥海になるより外はない。今度水晶の種を地の高天原に授ける。それは木花咲耶姫命(このはななさくやひめみこと)の御霊である。大本では代々女のお世継、末代女のお世継とする。男を世継にしておくと目的を立てる者が現われて仕組の邪魔をするから、七柱の大神が代わるがわる女と生まれて世を持つのである」とおおせられ、「このたびの帯の祝いは機嫌よく清らかに祝うてくれるよう。女の子が生まれる。それも、変わりものが出来る」とのことでありました。私はこれを聞いて、神様のお言葉は結構とは思いながらも、全部素直には聞けませんでした。一度は必ず反対したものですが、今度のことも半信半疑でおりますと、明治35年旧1月28日、予言どおり女の子が生まれました。その子が直日であります」

お筆先では次のように示されています。

「三代の御用いたすのが、出口すみの総領の直霊(なおひ)に渡る経綸(しぐみ)に定まりてあるぞよ。この三代の直霊が世の元の水晶の胤(たね)であるぞよ。綾部の大本の御世継は末代肉体が婦女(おんな)であるぞよ」 (明治43・旧4・18)

 

翌明治36年「これからは男子と女子とが和合ができて、四魂そろうてのご用となりて、一つの道へ帰りて、このなか楽にご用がでけるぞよ」(明治36・旧4・27)とのお筆先が出ました。

お筆先が出たその翌日の5月24日(旧4月28日)、出口なお開祖、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主、出口直日三代教主、四魂そろっての “二度目の岩戸開き”の神事が弥仙山頂上の金峰山(きんぷせん)神社で行われました。

出口王仁三郎聖師と出口すみこ二代教主にはあらかじめ3週間の水行が命じられるほど、二度目の岩戸開きの神事は重要視されました。
出口なお開祖の一行は5月24日(旧4月28日)丑(うし)の刻(こく)に綾部の竜宮館(大本)を出発し、午前3時に大石の木下慶太郎氏宅に到着、その後、八幡社に参拝、三十八社に拝礼したのち弥仙山に向かいました。
一行はなかほどにある不動の滝で水行をしてから、山頂のお宮に到着しました。

お筆先には、その前々年の明治34年10月19日(旧9月8日)、出口なお開祖が弥仙山にこもられたときに岩戸が閉まり、それからは“暗がりの守護”であったのが、四魂そろっての弥仙山参りによって岩戸が開き、“明けの烏の日の出の守護”となる、というお示しがあります。

そのため、深夜綾部ご出立時から持参されていた提燈(ちょうちん)は、夜が明けても火がともされたままにされ、24日の正午を合図に火が消されました。頂上のお宮では、ご神前に神饌物が供えられ、岩戸開きの神事がおごそかに行われました。
そのお宮の祭神は木花咲耶姫命(このはなさくやひめみこと)で、お筆先には「こんどは木の花咲耶姫どのが、世に出ておいでる神さんと、世に落ちておりた神との和合をさせる御役を、神界から仰せつけがありたのざぞよ」(明治36・旧1・30)とあり、この時の和合の神事は木花咲耶姫命のご用であったとされています。

 

「天地和合」木花咲耶姫命のお働き

 

木花咲耶姫命のご用について、大本神諭では「世に出ておいでる神サンと、世に落ちて居りた神との和合を為せる御役」と示されています。

「弥仙山岩戸開き」の神事では和合の中心的なお働きをされ、木花咲耶姫命の仲立ちで厳瑞二霊(開祖・聖師)が和合し、そのとき神界の岩戸が開かれたとされています。

この神事は、天と地、霊と体、神界と現界、神と人とが一致和合し、それまでの人間中心の世界から神さまを中心とする世界へと移行することを象徴する神事でもあったといわれます。

木花咲耶姫命のご用について、次のように示されています。

艮の金神大国常立尊の三千年の経綸は、根本の世の立替え立直しであるから、日本へ上がりて居る悪の霊魂を往生さして、万古末代善一つの世に致すのであるから、日の本に只の一輪咲いた誠の梅の花の仕組で、兄の花咲哉姫の霊魂の御加護(おてつだい)で、彦火々出見の命とが、守護を遊ばす時節が参りたから、モウ大丈夫であるぞよ。梅で開いて松で治める、竹はがいこくの守護であるぞよ。此の経綸を間違わしたら、モウ此の先はどうしても、世は立ちては行かんから、神が執念深う気を付けて置くぞよ。(明治三十二年旧七月一日)

神国の松の神代が近寄りて、一の艮めは国の宮、御国を守る八重垣の神の社に鎮まりし、豊国主の大神と神素盞嗚の二柱、禁闕要(きんかつかね)の大神も、大地の底から現れて、木花咲耶姫神の天地和合の御守護で、弥々明かき火々出見(ほほでみ)の神の御言の世となれば、五日の風や十日の雨も揃いて賑わしく、人の心も清瀧(きよたき)の水の流れも美わしく、治まる神代の目出度さは、我が神国に天照り徹(とお)り、助け幸い生国と、上下揃うて梅の花、一度に開く楽もしき、永き神代を松が枝に、月冴え渡り天津日の影も豊かに茜さす、内外の国の神人が、心の鬼も打ち和め、世界一つに治まりて、天津日嗣の御稜威を仰ぎ敬い歓びつ、千歳の鶴も万世の亀も舞いつつ丹波路の、綾の高天に参集う、神の経綸ぞ尊けれ。(大正八年新一月一日「旧大正七年十一月二十九日」瑞の御魂)

ここにおいて天上にまします至仁至愛の大神は、このままにては神界、現界、幽界も、共に破滅淪亡の外はないと観察したまひ、再び国常立尊をお召出し遊ばされ、神界および現界の建替を委任し給ふことになった。さうして坤之金神をはじめ、金勝要神、竜宮乙姫、日の出神が、大神業を補佐し奉ることになり、のこらずの金神すなはち天狗たちは、おのおの分担に従って御活動申し上げ、白狐は下郎の役としてそれぞれ神務に参加することになった。ここにおいて天津神の嫡流におかせられても、木花咲耶姫命と彦火々出見命は、事態容易ならずと見たまひ、国常立命の神業を御手伝い遊ばすこととなり、正神界の御経綸は着々その歩を進め給ひつつあるのである。それと共にそれぞれ因縁ある身魂は、すべて地の高天原に集まり、神界の修行に参加し、御経綸の端なりとも奉仕さるることになってをるのである。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著)

 

七社参り

その後、明治36年7月31日(旧6月8日)、出口なお開祖は、出口王仁三郎聖師、出口すみこ二代教主、出口直日三代教主、一部の信徒を引き連れて綾部の氏神七社に岩戸開きのお礼参拝しました。これが“七社参り”です。

七社参りは夜参りで、「齋神社」「笠原神社」「二宮神社」「三宮神社」「八幡宮神社」「若宮神社」「熊野新宮神社」の順に参拝しました。(現在は当時と逆の順路で参拝しています。また二宮神社と三宮神社は現在合祀されています)

お筆先には、次のように記されています。

「……今度の七社参拝(まいり)のお供は我も私(わし)もと申して参拝(まいり)致すのは結構ではあれども、変性男子と変性女子と竜宮の音霊女(おとひめ)殿と、金勝要(きんかつかね)殿の四魂揃うた御礼やら、三代教主さまの世継を授けて貰うた御礼やら結構に神界の経綸(しぐみ)の成就いたした大望な事の御礼やら、弥仙山で神界の岩戸を開いた御礼やら産土(うぶすな)氏神(うじがみ)さまに国々所々の氏子と構うて貰ふ願ひやら大望なことばかりであるから……」(明治36・旧6・8)

 

 

神社の階段と赤い灯篭

綾部七社のひとつ若宮神社

 

熊野新宮神社

綾部七社のひとつ熊野新宮神社

 

 

東海教区 特派宣伝使 前田茂太