私たちができること
私たち人間の現在の科学技術で自然をコントロールすることはできません。人間の力では自然災害を防ぐことも、起きてしまった災害を止めることもできません。
現在の科学技術でできることは、減災、防災、耐震対策、治水対策などの対処療法で、自然災害自体をくい止めることはできません。
しかし、大本のみ教えには、自然災害を未然に防ぐ方法が示されています。神さまは、はっきりと、自然災害の原因は人の心にあると示されています。
私たちは、心の中にある地獄的な想念、恨み、妬み、嫉み、憎しみといったものを絶えず祓い清め、常に清らかな気持ちで日々過ごせているでしょうか。
それがうまくできていないと、その心の反映として大きな災いが起こります。
すべての災害は、そうした人の心が生み出した邪気に原因があると示されています。その邪気がたまると天災地変、また争闘となって、私たちの身に降り掛かってきます。
人の欠点を責め、上げ足を取ることで自らを正当化し、自分に都合の悪い事は全て社会や他人の〝せい〟とする心の乾いた利己的で身勝手な考え方や行動などの、われよしの心を神さまが一番戒められています。
私たちは、自然災害を未然に防ぐために、常に自らの心のあり方を正し、神意を理解し、神意にかなった行動をする必要があります。
大本のみ教え
現代の賢き人間は、天災地妖と人事とには、少しも関係なしといふもの多けれど、地上神人の精神の悪化は、地上一面に妖邪の気を発生し、宇宙を混濁せしめ、天地の霊気を腐穢し、かつ空気を変乱せしめたるより、自然に天変地妖を発生するに至るものなり。
すべて宇宙の変事は、宇宙の縮図たる人心の悪化によりて宇宙一切の悪化するは、あたかも時計の竜頭破損して、時計全体のその用を為さざると同じごときものなり。ゆゑに大神の神諭には、
『神の形に造られて、神に代つて御用をいたす人民の、一日も早く、一人でも多く、心の立替へ立直しをして、誠の神心になつてくれよ』と示したまうたのは、この理に基くものなり。また、
『人民くらゐ結構な尊いものはないぞよ。神よりも人民は結構であるぞよ』と示されあるも、人間は万物普遍の元霊たる神に代りて、天地経綸の主宰者たるべき天職を、惟神に賦与されてゐるからなり。
古今未曽有のかくのごとき天変地妖の襲来したるも、全く地上の人類が、鬼や大蛇や金狐の邪霊に憑依されて、神人たるの天職を忘れ、体主霊従の行動を敢へてし、天地の神恩を忘却したる自然的の結果なり。
神はもとより至仁至愛にましまして、ただ一介の昆虫といへども、最愛の寵児としてこれを保護し給ひつつあるがゆゑに、地上の人類をはじめ動植物一切が、日に月に繁殖して天国の生活を送ることを、最大の本願となしたまふなり。また、
『神を恨めてくれるな。神は人民その他の万物を、一つなりとも多く助けたいのが神は胸一杯であるぞよ。神の心を推量して万物の長といはるる人民は、早く改心いたしてくれ。神急けるぞよ。後で取返しのならぬことがありては、神の役が済まぬから、神はあくまでも気をつけたが、もう気の付けやうがないぞよ。神は残念なぞよ』との神諭を、我々はよく味ははねばらぬ。(『霊界物語』第六巻 出口王仁三郎著)
現代のごとく世界の隅々まで面白からぬ思想が勃興し、人心は日に月に悪化し、暴動や爆弾騒ぎが相次いで起り、天下は実に乱麻のごとき状態である(『霊界物語』第一〇巻 出口王仁三郎著)
全体わが国の文化そのものは、全く地震から咲き出した花のようにも思われる。(中略)人間が堕落して奢侈隠逸(しゃしいんいんつ)に流れたとき、自然なる母は、その覚醒をうながすために、諸種の災害を降したもうのであって、しかも地震はその極罰である。(『月鏡』 出口王仁三郎著)
お互いに恨み合ったり、叩き合ったり、そういう気が凝ればそれが社会全体へ影響して災害を起こす。またそういう塵埃(じんあい)がながい間たまってくれば、それがある引火点に達して急に大いなる禍を起こすことがある。つまり、すべての災害は邪気に原因がある(『信仰叢話』 出口日出麿著)
一家にとっても誰か一人腐敗分子があり、非常な重病人があったとすれば、一家はやはりその苦しみを感ずるのであります。また社会にしても同じことである。社会に争闘があるのは、争闘を起こすような原因がある。邪気が発生しているならば、その社会全体はその気を感ずる。ゆえに心身の清潔法は社会共同の責任であります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)
自然災害を人体の浄化作用に例えると
人体の構造や働きをみると、体内では常に浄化作用が行われていることが分かります。消化器系の場合は食物が口腔を経て胃腸で消化され、体内に必要な栄養分が吸収されると、残った部分は体外へ排泄されます。血液の循環も、胃腸で吸収した栄養分、呼吸器で取り込んだ酸素などを末端組織まで運び、使用された不要物を体外へ運び出して新陳代謝を行っています。
このように、体内では新しい栄養素を組織へ運び、古くなった老廃物を体外へ運び出して、絶えず浄化作用が行われています。
この体内での浄化作用のいずれか一つが障害を起こすと、体のバランスを崩し、健康を損なう原因となります。また体内の通常の浄化作用能力を超えた場合、より大きな浄化作用、が必要となります。風邪を引くと熱が出る、食べ過ぎると下痢をするといった作用は、通常の浄化作用では処理し切れないために起こったやや大きな浄化作用です。
これを環境汚染の浄化作用に例えてみます。
人間は日々の生産活動や消費活動の過程で多くの排出物や廃棄物を生み出していますが、排出量が少なかった時代には自然の浄化作用によって十分に処理されてきました。
しかし近年、経済社会活動の拡大により、多量の排出物や廃棄物や放射性廃棄物などを生み出し、自然の浄化能力では処理できない事態が発生しています。
こうした状況下で、自然界の環境汚染がすすみ生態系は破壊され、大気汚染をはじめとする公害問題が発生し人間の健康にも被害が生じるようになりました。
また、環境汚染が引き金となり、大型台風などの自然災害も増加し、人間社会に大きな被害をもたらしています。
これらの原因を突き詰めていくと、便利な生活を追い求めた人間の活動、人間の欲(心)の問題にたどり着きます。
大本のみ教え
いつも天地は絶えず清潔を行っております。雨が降るのも一面、清潔法であり、風が吹くのも火事がいくのも清潔法であり、そこに邪気がたまれば、それが何かによって散じて、自然の清潔法はいつも行われているのであります(『信仰叢話』 出口日出麿)
とにかく、動きがあれば必然的にそこに犠牲がはらわれる。一種の残滓(ざんし)ができる。それが正当に行われているときは小さい潔斎ですむ。汗が出たら拭うとか、また水を飲むとか、新陳代謝で大きな潔斎でない範囲ですむのでありますが、食い過ぎて下痢をする、あるいは脳をこわして病気になる。これは少々大きな念のいった潔斎を要する。これがやはり国家社会にもあり、天地六合にもある(『信仰叢話』 出口日出麿著)
少しずつの潔斎であれば、目に見えぬ小さいことであるが「こり」が溜って大きなことになる。天災地変というものは、そういうものである。ふつう雨が降ったり日が照ったり、新陳代謝が簡単に行われる。秩序立って行われておりますが、それがそういうような大きい「こり」が爆発するという状態も世の中にはあるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)
「禊」について
禊の起源は、古事記によると、伊邪那岐命(イザナギノミコト)が死者の国である黄泉の国から帰ってきたときに、死者の国の穢れを祓うために筑紫日向橘小戸の阿波岐原で禊祓を行ったことにあるとされています。天照大神、須佐之男命、月読命の三柱の神は、この禊により生まれた神さまといわれています。神社などの境内地に入る前に手水舎で手と口を清めるのは、イザナギノミコトの禊の追体験であるといわれています。
民俗学者の折口信夫は禊について「神事に当る為の用意として、予め、心身を清めておくことである。家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊である」と述べています。禊は、神事に先立つ潔斎としても実践され、現在でも、両聖地の神殿はじめ、神社などの境内地に行くと、まず手水舍で手と口を清め、世俗の穢れを落とします。しかし、現在の手水舎の儀式は、参拝者への負担を軽減するためにかなり簡略化したものであるといわれています。本来は、川や海の流れに入り、全身から穢れを落とすというものでした。
潔斎がいかに重要な儀式であるかを裏付ける証拠として、出口なお開祖の水行があります。出口なお開祖開祖は、お筆先を記す前に欠かすことなく水行をしていました。
真冬では浴びた水がすぐに凍り、氷の層が幾重にもかさなり、その氷の輪を見て何回ご水行をされたか分かったということです。
大本のみ教え
本年(昭和九年)も大分流行性感冒がはやるやうであるが、戦争と流行性感冒とはつきものである。あれは霊の仕業である。近年満洲事変、上海事件等で多くの戦死者を出したが、それに対して、禊の行事が行はれてゐない。禊の行事の大切なる事は霊界物語に詳しく示して置いたが、昔は此行事が厳格に行はれたから、戦争などで沢山の死者があつても地上は時々に清められて、流行性感冒の如き惨害から免がるる事を得たのであるが、今の人達は霊界の事が一切分らず、禊の行事などのある事をすら知らぬ人達のみなるが故に、邪気充満して地上は曇りに曇り、濁りに濁り、爛れに爛れて、目を開けて見て居られぬ惨状を呈して居るのである。気の毒にもかうした事情を知らぬ世間の人々は、医師や薬にのみ重きを置いて焦心焦慮して居るのであるが、霊より来る病気を体的にのみ解せむとするは愚である。禊の行事の偉大なる効果を知る人は凶事あるごとに常に之を行ふべきである。さすれば一家は常に朗かで滅多に病気などには罹らぬものである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太