単なる宗教の教典ではない
出口なお開祖のお筆先(※大本神諭)は単なる宗教の教典でなく、神さまの約束を書きのこされたものであり、法則を定められたものであると教えられています。(※「大本神諭」は、大正時代に出口王仁三郎聖師がひらがなのお筆先に、漢字をまじえてその真意を発表したもの。)
お筆先(大本神諭)の拝読、浄写は霊魂の浄化向上につながります。大本信徒は朝夕の神前礼拝とともに、これを1日も怠らず行うよう教えられています。
出口日出麿尊師は、お筆先(大本神諭)について、「お筆先の真筆を拝読していると、からだが温かくなってくる。霊気が墨にしみ込んでいるからである。今になってみれば、まったくお筆先どおりの世の中である。」「神があるとか無いとかいう連中も、一度、大本神諭の懇切なる大予言とその的中に気づく時は、文句はいえなくなるはずだ。絶大なる大本神諭の権威に、今さらながら驚嘆する。」(『信仰覚書』)と示しており、お筆先に示されたことは、すべてその通りになってきました。
また、出口王仁三郎聖師は「大本神諭」の解釈について、「顕界に生れて顕界の悟り得ざる人間の分際として、肉眼を以て見る能はざる、幽界の消息の解るべき筈がない。況んや神を無視し物質界のみに心酔累惑せる浅学者輩に於ておやだ。幽界の神示たる大本の神諭が、俗人輩に分って堪(たま)るものでない。御神諭に『神のことは、人間の智慧学問の力では到底分るもので無いと云ふ事が判ったなれば、それが本当に判ったのであるぞよ』と示されてある。故に肝腎の大本の幹部でさへも、真相を握るに非常な苦心をする。況(まして圏外者の解る可き筈は無い事を一同に覚って貰ひたい。)」(『出口王仁三郎全集』第二巻)と示しています。
このように「大本神諭」を学問的態度で理解しようとすることを戒められています。「大本神諭」は人間の智慧学問の力では理解できるものではないということを心得ておくことが肝要です。
『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』より
大本教(正式には大本)の開祖である出口なおの「お筆先」が京都府亀岡市の教団本部にあります。
美術館みたいな感じで展示してあるわけですが、それを見た時は驚きました。読み書きのできないなおがわずか二七年の間に、新聞紙程度の大きさの半紙に二〇万枚、書いたわけです。ずーっと、二七年間。
これが後の『大本神諭(教典)』ですが、あれを目にすると、人間のやることじゃないとわかります。
ある意味で常識を超えています。常識を超えると普通は見えません。そこにあっても。多分あれは、そういう感覚なのかなと思います。
出口なおの娘婿・出口王仁三郎が書いた『霊界物語』も、実に八三冊もあるのですが、その執筆スピードを例えて言えば、一日で三〇〇頁分の書籍を仕上げ、それを毎日毎日、こうワーツと書く形式です。それも自動書記で、ぶ厚い本八三冊分。人間業ではありません。
その事実を論理思考でどう考えても、これは人のやっていることではないなという結論に向かうわけです。
出口なおに至っては、字を書けない人だったわけですから。
そういう事実が日本中に、世界中にあるわけですから、それらをより精査することで、「この世」には人類科学の範疇を飛び超える出来事があるのだという「共有知識」が明確になるのだと思います。(矢作直樹)(『死ぬことが怖くなくなるなったひとつの方法』矢作直樹・坂本政道「徳間書店」)
「お筆先(大本神諭)」についてのみ教え
畏れ多くも口述者が開祖を、審神者として永年間、ここに注目し、ついに大神の聖霊に充みたされたまう地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)
教祖国照姫命(開祖さま)に懸かからせたもうた神様は、宇宙の創造者、天地の祖神大国常立尊でありまして、明治二十五年正月元旦、心身ともに浄化したる教祖は稚姫君命の精霊を宿され、前後未曾有の聖教を、一切の衆生に向かって伝達されたのは、吾々人類のためには、実に無限絶大の賜物であります。(『霊界物語』特別篇 出口王仁三郎著)
大本開祖さまのお筆先を拝誦(はいしょう)さしていただきますと、いつの日も、新しく心にビシビシと、神さまじきじきのお示しがひびいてきて、体のすみずみまで、お言葉の権威に充たされる思いがいたします。
明治三十四年旧二月二十四日
……いまの人民、表面(うえ)からは立派だが、憑いておる守護神が悪いぞよ。どんなエラい人間でも、この綾部の大橋を渡りて来んと、実地のことが分からんので、わるく言うておりても、頭を下げて来ねばならんようになるぞよ。よほど神徳のある者でないと、綾部の大本は取りちがいを致すぞよ。みがけん身魂は、テンで分りかけが致さんぞよ。むかしから無いことを致すのであるから、艮の金神が三千年地下(よ)に落ちて仕組みいたしたこと、早速には人民からは、見当のとれん仕組であるぞよ。……
昔の劔(つるぎ)、今の菜刀、表面(うえ)ばかり良くても、真からの光りでないと、教(よ)は永(なご)うはつづかん、みな思いがサッパリまちごうておるぞよ。
この大本の行(ぎょう)は、食物を大切にまつべて、家のうちをキチンと清らかにいたすが一の行じゃ。ズンダラなことは、神は嫌うぞよ。
とくに、右の御神諭の前にむかいます時、いちじるしく感じさせていただくのは、まことに直截に人の世の道の歩み方をお示し下さっていることであります。
このお示しに接して、自分の胸のうちに、何の反応も感じないというのであれば、それは不仕合わせなことでありましょう。なぜなれば、その方は、いつのまにか、精神の問題から縁遠くなられているのではないかと思われるからであります。それはまた、信仰上の危機でもありますから、ことさら努めて、み言葉に自らを照らし、自分自身を反省していただきたいのであります。
ところで、お筆先に接した始めは感動させられても、そのうち不感症になりやすいものが、ともすると、私たちを訪れやすいのであります。その原因は、人間というもののもっているかなしい性にあるようです。
初めて、このお道に入った頃は、誰でも、お筆先のお言葉に、非常な感動をおぼえるもので、それとともに、信仰の道においても、非常な感激をもって歩み始めることができます。それが、日が経つにつれ、お筆先の言葉に耳なれて、始めにうけたような感動が、いつしか、うつっていきます。
昔の人が〈喉もとすぐれば熱さ忘れる〉とは、よく言ったもので、それが、人間の悲しみへのかくれた救いの御手であるとともに、その故に、ふみ違えると救い難い性ともなりましょう。人間は、この人間のもたされている性を、よくよく心得て、常に初心忘るべからずのきびしい心がけをもってかかる時、また頂きがたいお力をもいただくことができるのであると思います。
お筆先は、文学者の作った文章ではありません。文を作るなど思いもよらないといった田舎の人の普通の言葉で綴られたものであります。その表現の形式は、聖賢の言葉のもっているようなひびきではありません。けれども、お言葉の一つ一つを、ゆっくりと、胸に手をあてて考えながらいただいてみますと、まことに、味わい深い、高い境地の言葉であり、超越者のみ言葉であることを、悟らしてもらうことができるのであります。
さきのお筆先は、かくべつの言葉はなくとも、心をおちつけて頂きますと、やさしいお言葉をとおして、人間の性格に救いがたいものがあることを、人間とは、度し難い、そういうものであるということを、痛切に感じさせられるのであります。
大本のお筆先は、他の宗教の教えのように、文体に学問的な臭いがあるとか、韻文で飾られてあるとかいうものではありません。開祖さまが、ご日常、お暮らしの上でおつかいになっていた言葉のままでお諭しになったものであります。それは、生きた、開祖さまのお血を通わせていてくださる、そのままに尊いお言葉が示してくださっているものであります。
それだけに、心して聞かしていただく時には、そのお言葉をとおして、いつもそこに新しく、生きどおしのままの開祖さまのみ声で、神さまじきじきのみ諭しをきくことができるのであります。
大本は、やさしい言葉で御神諭が示されていますが、ほんとうは奥深くて、むずかしいところであります。それに、宗教のいっぱん的な言葉で言いますと大乗と小乗がこんとんとして存在していたと言えます。
信仰者には、宗教的概念の中で甘やかされて、自分の心に鍵をかけることも知らないでいる人があります。ただ頭の上で、神さまの言葉を受けとっているだけの信仰で、何の苦労もなく、自分が出来上がったつもりで思い上がっていることもありましょう。それでは、〝鵜ノ真似ヲスル鳥〟の童話のように、まさかの時には、自己暴露をしてうろたえなければなりません。
これは、何も他人事(よそごと)に言っているのではなく、私自身が、さいきんになって、あまりにも意外な事実を見せられたことによるのであります。ほんとに自分ができておれば、こんな結果にはならず、笑うて済まされれたことが、そうはいかなかった苦いショックを体験したことによるのであります。
それは、頭の上だけの信仰とは言いましたが、頭の上の信仰そのものでも、なかなか大へんなものがありましょう。世には、比較にならない低い信仰もありましょうが、偉大な教理をもつ宗教では、それが言えるでしょう。これからは、偉大なみ教えを、頭の上だけでなく、心身のすみずみまでしみわたらせることに、極力、つとめたいと思うのであります。それには、何よりも、しめされた教えを身をもって実践させていただくために、日々の修行にはいらなければなりません。やはり、修行の荒波をくぐって、そこに始めて、与えられる世界というものを、身をもって発見するのでありたいと思います。
私は過日、禅宗のある僧堂を訪れて、そこに修行をつんでいられる老師やその周辺の僧の態度から、宗教家の故郷に近いものがあるような気持をうけてハッとさせられたのであります。
ここは、開祖さま、聖師さまが、そのご生涯をとおしてお示しくださり、また、のこして下さったきびしくて、明るい、まことにけっこうな環境をいただいているのでありますが、この環境の高さに幻惑され、あるいは、自由に伸ばされていることに甘えてしまい、この環境の尊さを、いまだに充分に知らないでいます。こうした環境にあれば、それだけ、本真剣の修行にはいるのでなければ、けっこうなところの、こわいところになるということを忘れてはなりません。
開祖さま、聖師さまの、どちらが小乗で、どちらが大乗などという区別はないわけでありますが、いっぱん的に、聖師さまの大乗的なお示しが、まるのみにされて、自分がそれに酔わされ甘えさせられて、修行をおろそかにしているところがあります。
聖師さまは、大乗的な世界の存在であられたということを、よくよく心得ておかねばなりません。私たちいっぱんは、修行を重ねて、導いてくれるものがあってこそ、ずんずんと向上さしていただけるものであります。それが、私たちにとって、いちばん、あぶなげのない歩み方であるという、けじめのついた考えが必要であります。
私たちの中には、修行をつんだ立派な方もおられましょう、頭だけは進んでいても精神上の年令は中学生ぐらいの人もおり、中には、保育園に通う幼時にも似た精神年令の方、あるいは、それ以下のよちよち歩の方もまざっていて、それらの階層の方が今日まで、雑然とおかれています。こうした雑然たる中で、それぞれが、ただ身魂相応に受けとってゆくということに放任されていては、どうしても耳学問ばかりが発達します。頭ばかりが大きく、顔は大人になっても、首から下は保育園にもゆけないのでは、重心を失いましょう。
何の順序もなく身魂相応にうけとってゆけばよい、というような悪自由に自分をつっ放しておいてはなりません。やはり、道を歩ましていただく上の秩序というものを、お互いに尊重して、お示しいただいておりますお言葉を踏み行なわさしていただくことに、生命(いのち)がけになるのでなければ、前へはすすまして頂けないのであります。
まず、朝の礼拝にはじまり、正しい食事をいただき、つづいてお道のお示しをきかしていただくというふうに、お道をふましていただく初歩の稽古から、熱心に始め、しょっちゅう、それによって自分を練ってゆく実際の行が必要であり、その行を楽しみとして歩ましていただくまで、つみあげるのでなければ、ほんとうでないと思うのであります。
そうして、ともかく、自分の責任のある業務に精進し、夜になれば、また修座をして、一日の感謝をし、反省に反省を重ねて、祈りに祈り修行に修行を重ねて、その行く手によろこびのあふれてくる日々を、お互いが、統制を守って、ともにすすませていただきたいものであります。
たとえ、人間として善意に充ちた人でありましても、一日に一度は、げんしゅくに反省するところがなければ、前へすすむことは許されません。反省がなければ、真に和合ある統一は生じるはずがありません。反省もなく、行ないもないところへは、みろくの世も素通りしてしまって、ついに待望のみろくの世に運(めぐ)り会うことができないで終わりましょう。(『聴雪記』 出口直日著)
祖母が、お筆先に示されましたことは、すべてその通りになってきました。お筆先は単なる宗教の教典でなく、神さまの約束を書きのこされたものであり、法則を定められたものであるとおもいます。お筆先がしっかりとお腹に治まりさえすれば、人の行為は、しぜんと、奥山のようにしずかなものになってきます。
そこに平和の礎がしっかりときずかれて来るものです。お筆先をいただくたびに、わたしは、開祖さまのしずかな、おやさしいお姿をなつかしむものです。(『私の手帖』出口直日著)
神諭を勝手に解釈することは、神様から、許してないのであるから、もしも之を解釈すれば、神を冒涜する事になるのである。(『出口王仁三郎全集』第二巻)
前巻にも言つた通り、天人は、現界人の数百言を費やさねばその意味を通ずることの出来ない言葉をも、わづかに一、二言にて、その意味を通達し得るものである。ゆゑに開祖すなはち予言者によつて示されたる聖言は、天人には直ちにその意味が通ずるものなれども、中有に迷へる現界人の暗き知識や、うとき眼や、半ば塞がれる耳には容易に通じ得ない。それゆゑに、その聖言を細かく説いて、世人に諭す伝達者として、瑞の御霊の大神の神格に充たされたる精霊が、相応の理によつて変性女子の肉体に来り、その手を通じ、その口を通じて、一、二言の言葉を数千言に砕き、一頁の文章を数百頁に微細に分割して、世人の耳目を通じて、その内分に流入せしめむために、地上の天人として、神業に参加せしめられたのである。
ゆゑに開祖の『神諭』を、そのまま真解し得らるる者は、すでに天人の団体に籍をおける精霊であり、また中有界に迷へる精霊は、瑞の御霊の詳細なる説明によつて、間接諒解を得なくてはならぬのである。しかして、この詳細なる説明さへも首肯し得ず、疑念を差しはさみ、研究的態度に出でむとする者は、いはゆる暗愚無智の徒にして、学で智慧のできた途中の鼻高、似而非学者の徒である。かくのごとき人間は、已にすでに地獄界に籍をおいてゐる者なることは、相応の理によつて明らかである。
かくのごとき人は、容易に済度し難きものである。何故ならば、その人間の内分は全く閉塞して、上方に向つて閉ぢ、外分のみ開け、その想念は神を背にし、脚底の地獄にのみ向つてゐるからである。しかしてその知識はくらみ、霊的聴覚は鈍り、霊的視覚は眩み、いかなる光明も、いかなる音響も、容易にその内分に到達せないからである。されど、神は至仁至愛にましませば、かくのごとき難物をも、いろいろに身を変じたまひて、その地獄的精霊を救はむと、昼夜御心を悩ませたまひつつあるのである。あゝ惟神霊幸倍坐世。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太