大本歌祭りの由来
大本歌祭りは、大本の聖地・天恩郷(京都府亀岡市)で毎年開催されている、大本特有の神事です。この祭りは、出口王仁三郎聖師の生誕を祝う瑞生大祭の前夜(8月6日)に行われます。
歌祭りは、古代から中世にかけて日本各地で広く行われていたと伝えられています。出口王仁三郎聖師は青年時代にその歴史を学び、日本の国風を取り戻すために歌祭りを復興させたいと願っていました。こうした聖師の念願に基づき、昭和10年(1935)10月31日、亀岡天恩郷の明光殿において、古式に則り大本歌祭りが復活・再現されました。
第一回の大本歌祭りの後、11月17日には当時の北陸別院(現在の北陸本苑)、続いて12月8日には当時の島根別院でも開催されました。しかし、島根別院での歌祭り当日の未明に第二次大本事件が発生し、出口王仁三郎聖師は滞在先の島根別院から警官に連行されました。このため、島根別院での歌祭りは、出口王仁三郎聖師が事件前に行った最後の神事といわれています。
第二次大本事件後、大本歌祭りは一時中断しましたが、二代教主・出口すみ子が聖師の意志を継ぎ、昭和25年(1950)の瑞生大祭で復活させました。それ以来、70年以上にわたり、大本の重要な神事として今日まで継承されています。
八雲神歌(やくもしんか)
歌祭りでは、和歌の祖神である素盞鳴尊(すさのおのみこと)の「八雲神歌」をご神体としてお祭りします。また、素盞鳴尊の妃・櫛稲田姫(くしなだひめ)が鳴らしたとされる「弓太鼓」の荘重な音色に合わせて、献詠歌が「夷振調(ひなぶりちょう)」というおおらかで力強い調子で朗詠されます。さらに、能衣裳をまとった舞姫が「大和御歌(やまとみうた)の舞」「須賀(すが)の宮の舞」を素盞鳴尊の御前で舞い納めます。
歌祭りの御神体である
「八雲(やくも)立つ出雲(いずも)八重垣(やえがき)妻ごみに八重垣つくるその八重垣を」
という素盞鳴尊の御神歌について、出口王仁三郎聖師は次のように語っています。
「八岐大蛇(やまたのおろち)は退治したものの、世界各国にはなお八重垣が築かれ、八雲すなわち『いやくも』が立ちのぼっている。それゆえ、この『いやくも』や八重垣をすべて払わなければならない。」
今日も「八重垣」は多く存在します。たとえば、日本の品物を海外へ持ち出そうとすれば、「税関」という八重垣が立ちはだかります。「つまごみに」とは、古代日本において、妻を迎え入れる際に八重垣を築いたことに由来し、日本が「秀妻の国」と称されることを指しています。つまり、日本自体が八重垣を築き、内外の境界を設けていることを意味しています。
この八重垣は、世界の人々が一つとなり、国際社会が協調し合い、共通の理念や秩序のもとで安定した体制を築かない限り、取り払われることはありません。「八雲」を晴らし、「八重垣」を取り除くことで初めて、真の統一が実現されます。
もう一つの意味として、神々が鎮座する中心に「八重垣」を築くことが挙げられます。この場合の「八重垣」は「瑞垣」となり、外部からの悪しきものを遮断する神聖な結界となります。「八雲」もまた、紫の雲が幾重にもたなびく様子は神秘的な吉兆を表し、一方で黒雲が重なり合い包囲する様子は災厄や封鎖を意味するとも解釈されます。
この歌においては、「八重垣作るその八重垣を」で区切られており、後半の部分が省略されています。その意図として、内外の悪しきものを排除し、理想の世界を実現するために「その八重垣を」取り払うべきであるという意味が込められています。「を」の一字で留めることで、強い意志を示しています。
三代教主・出口直日は、歌祭りの意義について次のように述べています。
「歌祭りは、現代においても消えやらぬ世の中の有形無形の障害を取り除き、感情的なしがらみを解きほぐして和合し、さらに神さまの理想を実現することを誓う行事です。私は、この神事を節分大祭で行われる人型行事と並ぶ重要なものと考えています。」
平和な世界を築くために、四方のむら雲を払い、心の八重垣を祓い、それぞれの真心を大神さまに捧げる歌祭りは、現代においてますます重要な神事といえます。その意義を深く理解し、真摯な気持ちで臨むことが求められます。
綾の聖地エルサレム大本歌祭
歌祭りは、瑞生大祭に限らず、大本の綾部の聖地をはじめ、全国各地の因縁深い聖地でも重要な節目に開催されています。
特に近年では、平成13年に出雲大社、14年に瑞雲郷別院で歌祭が行われ、15年には青森、16年には岡山、17年には北陸、18年には京都で開催されました。さらに、19年には綾部でエスペラントによる大本歌祭が、平成20年には東京で多言語による大本歌祭が執り行われました。
その後も、全国各地で歌祭が続けられ、平成20年には北海道、21年には鳥取、23年には島根・出雲、24年には三重・香良洲神社、26年には大阪・住吉大社、27年には奈良・橿原神宮、28年には兵庫・高砂神社で開催されました。また、平成22年には、ブラジルの首都ブラジリアとジャンジーラでも歌祭が執り行われています。
そして、本年は人類愛善会創立100周年を迎える節目の年となります。
それを記念し、大本の教典で”地の高天原”(エルサレム)と称される「綾機平」において、「綾の聖地エルサレム大本歌祭」が執行されます。
大本のお示し
歌祭りということについて一言申しあげます。日本の和歌の道、すなわち敷島の道のはじまりというのは、素盞嗚尊が出雲の簸の川の川上で八岐の大蛇を退治されて、ほつと一息おつきなされた。その時に、お祝いとして詠まれた歌が「八雲立つ出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を」の歌であります。このお歌の意味は、言霊によつて解釈すると、「出雲八重垣」の「出雲」というのは「いづくも」のこと、「どこの国も」ということでありますが、つまり、大蛇は退治したけれども、まだ世界各国には八重垣が築かれ、そして八雲が立ち昇つている。「八雲」というのは「いやくも」ということである──。それで、この「いやくも」をすつかりはらわねばならぬし、また、この垣もはらわねばならぬ。今日も「八重垣」はたくさんあります。日本の物を外国に持つてゆこうと思えば、「税関」という八重垣ができている。「つまごみに」というのは、──日本の国は「秀妻の国」というのである──日本の国もまたいつしよになつて八重垣をつくつているということであつて、これは世界万民が一つになつて、一天、一地、一君の政治にならなくては、この八重垣はとりはらわれないのであり、「八雲」をはらい、「八重垣」をとりはらつて、はじめて一天、一地、一君の世界になるのであります。これが一つの意味でありますが、もう一つの意味があります。神さまがお鎮まりになつているその神さまを中心として「八重垣」を築く。その「八重垣」は「瑞垣」という意味になり、外から悪魔がはいれない。ここでは神さまを守る「ひもろぎ」となるのであります。八重雲(八雲)も、幾重にも紫雲がたなびいている意味にもなるし、また、真つ黒な雲が二重にも三重にも包囲しているという意味にもなるのであります。
それで、この歌は、「八重垣作るその八重垣を」で切れていて、あとがまだのこつているのであります。内外をとわず悪い、「その八重垣を」今度はとりはらわねばならぬということをのこして、「を」の字でおさまつているのであります。
そこで、仁徳天皇の御宇までの古典を調べますと、「歌垣に立つ」ということが、時々みあたるのであります。「何々の皇子歌垣に立たせ給うて詠い給わく……」とある。「歌垣」というのは、歌を書いて、それを垣にしてあるもので、今日のこれ(歌垣を示され)がそれであります。それで歌祭りというのは、この歌垣を中心として、自分の村々で年にいつぺんずつ行なつたのであります。そうして、平素からの村人間の怨み、妬み、または一家のもめごと、夫婦喧嘩とか、そうした村内における今までのいざこざを、この歌祭りによつて、神さまの御心をなごめるとともに、村人の心もちをも和め、いつさいの罪悪をはらうてしまう、つまり八重雲をはらうてしまうという平和な祭りであります。その祭りによつてすべてが流れ、河で尻を洗うたように綺麗になるのであります。
また、若き男女にいたしましても、昔は自由結婚でありました。それで、歌祭りの時に、一方の男から思う女に歌いかける。それが嫌だつたら女は歌いかえさない、この人と思つたら歌いかえすのであります。この言霊ということは、「真言」とも書くのであつて、真言ということは、言うたことはいつさい違えないということであります。つまりいつさい嘘は言わないことが真言であり、言霊であります。
──一言いえば、それは違えさせられない。それで、一度、歌によつて歌をかえしたならば、その女は一生涯、その人の妻になつたことになつたのであります。その場所で一言いうたら、それでいつさいは決まつたものであります。また今までのいざこざも、歌祭りに列して歌を献上した以上は、それですつくりと流れたのであります。
しかしながら、この歌祭りも、源頼朝が鎌倉に幕府を開き武家の世になつてからは、絶えてしまつて、宮中に歌会がのこつていたくらいなものであつたのであります。
それから、あの定家卿が、はじめて小倉山の二尊院という処で歌祭りをされた。その時には、故人の歌も新しい人の歌も集めて、そのなかから百首えらんだのが百人一首となつたのであります。
しかし、定家卿のやられたのは、山城の国の小倉山という小暗い山であつたが、今日の歌祭りは、明光殿という、明らかに光つている御殿で、処も花明山という明らかな山であります。この花明山の明光殿において歌祭りが行なわれたのでありますから、すべて会員および皇大神を奉斎する諸氏は、今日かぎり、いかなるもつれがあつても、何があつても、この祭りに列した以上は、すつかり河に流さんと、神さまのご神罰があたることになつているのであります。
私は、古典のなかに「歌垣の中に立たせ給う」とたくさんあることについて、どこの国学者に聞いても判らなかつたのでありますが、その時に、今日はもう故人になられましたけれども、私の二十三歳の時に、歌をはじめて教えてくれました岡田惟平翁という国学者があつたのであります。その人に、歌垣の作り方から、つぶさに、こういうぐあいにして祭り、また、こういう歴史があるものだと聞かされたのであります。
その後いつぺん、どうかして歌祭りをしたいと思つておりましたが、本日ここにめでたく行なうことができました。この集まつた歌のなかから、百人一首をこしらえる考えであります。一回ではとても百人一首はできないから、年を重ねて百人一首をつくり、後世にのこる、小倉山百人一首ではなくて花明山百人一首をこしらえたいと思つているのであります。
それから今、弓太鼓をとんとんとたたきましたが、これは、素盞嗚尊が須賀宮にお入りになつて、この大海原、すなわち地上世界を全部治めらるる処の責任を伊邪那岐尊からお任せになられたについて、非常にご心労あそばしたのであります。
朝鮮や、出雲の方は平定したが、さらに八十国の雲霧をはらい、八重垣をとりはらうには、どうしたらよかろう、たいていのことではないと心配に沈んで、腕を組んで、うつむいておられる時に、櫛稲田姫が、弓を桶にくくりつけて、それをぼんぼんとたたかれた。それが弓太鼓の濫觴である。その音を聞いて、素盞嗚尊は心を和めて、そうして「八雲立つ……」の御歌ができたのであります。その音を聞いて非常に勇ましい御心になり、お喜びになられた時に、「八雲立つ……」とでたのであります。
それが、のちには一絃琴になり、二絃琴になり、八雲琴になり、今日のたくさん絃のある琴ができたのであります。さらに、右と左に侍女神がおりましたが、これは手撫槌と足撫槌になぞらえて、両傍に二人おつたのであります。しかしほんとうの手撫槌、足撫槌は、こんな若い人ではない。ほんとうはお爺さんとお婆さんであるけれども、われわれは更生せねばならぬので、爺さん婆さんではいかんから若い人に坐つてもらうたのであります。弓をぼんぼん鳴らしたのは櫛稲田姫の代わりであります。(「明光」昭和10年12月)(『出口王仁三郎著作集』第三巻)
東海教区特派宣伝使 前田茂太