芸術から生まれた宗教
芸術は日々の暮らしに潤いを与えてくれます。芸術には、人の心を癒す力があります。
芸術に触れることによって心と身体を癒し、鬱などの精神疾患の症状を緩和するほか、身体の健康維持にもプラスの効果があることが近年の研究で明らかになっています。
大本では、「宗教」と「芸術」は密接なつながりがあると教えられています。出口王仁三郎聖師は、「洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大芸術者でなければならぬ。
天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である。」と示しており、洪大無辺の大宇宙を創造した神さまは大芸術家であると説いています。
出口王仁三郎聖師が説く芸術とは、神さまの造化の力によって創造された天地間の森羅万象を指します。
また、「芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む」とも示しており、宗教は、神さまの創造力や無限の意思の一端を、人の手や口を通じて現したものに過ぎず、神さまの芸術から生まれたものであると説いています。
芸術と宗教
芸術と宗教とは、兄弟姉妹の如く、親子の如く、夫婦の如きもので、二つながら人心の至情に根底を固め、共に霊最深の要求を充たしつつ、人をして神の温懐に立ち遷(うつ)らしむる、人生の大導師である。地獄的苦悶の生活より、天国浄土の生活に旅立たしむる嚮導者(きょうどうしゃ)である。ゆゑに吾々は左手(ゆんで)を芸術に曳かせ、右手(めて)を宗教に委ねて、人生の逆旅(げきりょ)を楽しく幸多く、辿り行かしめむと欲するのである。矛盾多く憂患(ゆうかん)繁き人生の旅路をして、さながら鳥謳(うた)ひ花笑ふ楽園の観あらしむるものは、実にこの美しき姉妹、即ち芸術と宗教の好伴侶を有するがゆゑである。もしもこの二つのものがなかつたならば、いかに淋しく味気なき憂き世なるか、想像出来がたきものであらうと思ふ。人生に離れ難き趣味を抱かしむるものは、ただこの二つの姉妹の存在するがゆゑである。
そもそもこの二つのものは、共に人生の導師たる点においては、相一致してゐる。しかしながら芸術はひたすらに美の門より、人間を天国に導かむとするもの、宗教は真と善との門より、人間を神の御許に到らしめむとする点において、少しくその立場に相異があるのである。形、色、声、香などいふ自然美の媒介を用ゐて、吾人をして天国の得ならぬ風光を偲ばしむるものは芸術である。(中略)
瑞月(※出口王仁三郎)はかつて芸術は宗教の母なりと謂つたことがある。しかしその芸術とは、今日の社会に行はるる如きものを謂(い)つたのではない。造化の偉大なる力によりて造られたる、天地間の森羅万象は、何れも皆神の芸術的産物である。この大芸術者、即ち造物主の内面的真態に触れ、神と共に悦楽し、神と共に生き、神と共に動かむとするのが、真の宗教でなければならぬ。瑞月が霊界物語を口述したのも、真の芸術と宗教とを一致せしめ、以て両者共に完全なる生命を与へて、以て天下の同胞をして、真の天国に永久に楽しく遊ばしめんとするの微意より出でたものである。そして宗教と芸術とは、双方一致すべき運命の途にあることを覚り、本書(※『霊界物語』)を出版するに至つたのである。(『霊界物語』第六十五巻 出口王仁三郎著)
大芸術の萌芽
現代の学者は、「宗教は芸術の母なり」とか、「宗教が芸術を生むのだ」といつてゐるさうである。私はそれと反対に「芸術は宗教の母なり、芸術は宗教を生む」と主張するものである。
洪大無辺の大宇宙を創造したる神は、大芸術者でなければならぬ。天地創造の原動力、これ大芸術の萌芽である。
宗教なるものは神の創造力や、その無限の意志のわづかに一端を、具体的に人の手を通し口を徹して現はされたものに過ぎない。さうでなくては、宗教が神や仏を仮想の下に描いたことになつてしまふ。ソンナ根拠の薄弱なる神または仏なりとすれば、吾々は朝夕これに礼拝し奉仕する心がどうしても湧いてこない道理だ。しかるに天地の間には、何物か絶対力の存在する如く心中深く思惟(しい)さるるのは、要するにこの宇宙に、人間以上の霊力者の厳存するものたることを、おぼろげながらも感知し得らるるからである。いかなる無神論者でも、地震、雷鳴、大洪水等の災厄に遭遇した時は、不知不識の間に合掌し、何ものかの救ひを求むるのは自然の人情である。(中略)
どうしても宇宙には大芸術者たる神が厳存し玉ひて、万有一切を保護し給ふことは争はれぬ事実である。現代の人は神と言ふのを愧(は)ぢて、自然とか天然力とかの雅号にかくれて、神と唱ふることを避けようとしてゐるものが多いのは、実に残念なことである。(『霊界物語』第三十六巻 出口王仁三郎著)
神の作品
宇宙万有を造られた真神の作品のうちで、もっとも繊細緻密霊妙をきわめた最上乗のものは人間である。人間においても、脳髄と肉体の曲線美とはその代表点ともいうべきものであって、万物これに比すべきものは無いのである。(中略)いかなる芸術家といえども、完全に神の作品を描出または模塑(もそ)することの不可能であることは言うまでもない。たとえば技神に入った画家が人物や動植物などを描くにしても、ただその視得(みう)る部分と動作の刹那のすがたを平面的にしか写すことができないのである。これを思うと画を描くことがいやになってしまう。それで自分は、せめて霊だけなりと入れて活きた画にしようと思い、満身の霊をこめて体で描くからいわゆる一気呵成(かせい)の運筆となるのである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)
神様がわからないという人に、一本の花を見せてやれ。これでも神様がわからないのですかと……。たれがこの美しく、妙なる色香をもった花を造るのであるか。同じ土地に播いても種が違えば、千紫万紅色さまざまに咲き出でて得もいわれぬ美しさを競うではないか。いったい誰がそうするのか。花を作る人はただ世話をするに過ぎないではないか(『水鏡』 出口王仁三郎著)
宗教の母
わたしはかつて、芸術は宗教の母なりと謂(い)ったことがある。しかしその芸術というのは、今日の社会に行わるるごときものをいったのではない。造化の偉大なる力によって造られたる、天地間の森羅万象を含む神の大芸術をいうのである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)
わたしが、宗教が芸術を生むのではなく芸術が宗教の母であると喝破(かっぱ)したのは、今の人のいう芸術のことではないのである。造化の芸術をさして言うたのである。日月を師とする造化の芸術の謂(い)いである。現代人の言うている芸術ならば、宗教は芸術の母なりという言葉が適している。(『月鏡』 出口王仁三郎著)
信仰と芸術
神に通ずる門戸として三つあります。それは善とか愛とかいう方面から神を感ずる道、これは宗教あるいは道徳であります。真理、道理によって神を感ずるのは、これは学問であります。美によって神を感ずるのが、これが芸術であります。この三つがある。そしてそれぞれ特長がある。
愛とか善とかによって神を感ずるのは、これはよほどその人の心が利己的でなしに、高尚であり進んだ心境の人でなければ、そこまでにゆかない。ただ愛と善というても、その人自身の愛善ではだめである。宇宙の愛善、神から見た愛善でなければならない。利己的な愛善は神の目から見た愛善にならない。愛善から神を感ずる人は少ないのであります。よほど飛びはなれた修養のできた人、天稟(てんぴん)の人でなければ、そういうことはむつかしい。
つぎに、真理または道理によって神を感ずる人は――これもそう全部はゆかない。人間のうちの何割かはそういうふうにしてゆきましょう。が、一般の人全部が道理や真理によって悟ってゆき、だんだんと神へ行くというのはなかなかむつかしい。いまの世では相当の学者と称せられる人でも、魔道に陥っているから、かえって違ったところに行っておったりして、ほんとうの真理に行く道でなしに、迷い道に行っているから神を感じない人が多い。
ところが、美によって神を感ずる――これは誰でもはいれる。爺さんでも婆さんでも、子供でも学者でも、女でも共通に容易にはいれるものがこの門であります。
花が咲いている。美しいと思うのは大学者が見ても、大聖人が見ても、子供が見ても、爺さんが見ても、婆さんが見ても変わりがない。人間ばかりじゃない。犬が見ても、猫が見てもやはり美しいというのは同じである。多少違いがありますが、美しいと感ずるのは共通である。で、この世の美を感じ、神秘を感じ、その奥の奥の本体たる神霊を感ずる、神を感ずるという行き方、これがいちばん、万人共通のたやすい道である。
芸術は神さまのおつくりになっている美というものを通して本体の神のお心、お力を思わし、そこへ行かすものであります。でありますから、進歩の順序からいえば、すぐ、直接に神に触れるというものは、そこまで進んだ人でなければできがたい。ところが、子供でも犬でも猫でも、美を感じ、何となしに調和を知るという力はある。これは万物共通である。
それから娯(たのし)ませ、興味を覚えさせ、だんだん育て上げてゆけば――高尚な芸術をつぎつぎ覚えてゆけば心が高尚になる。高尚になってゆけば、ついには神にまで行かねばならないようになるのであります。それで「芸術は宗教の母なり」ということになるのであります。で、それが証拠には、古来、芸術的な人はかならず信仰にまで進んでいるのであります。
要するに信仰は霊であり、芸術は早くいえば体である。審美方面の外形的に現われたもの、また審美のにおい、輝きを感ずるものが美である。で、ほんとうに信仰の人にならねば、ほんとうに芸術的な人とはなれぬ。
ほんとうに宗教が興隆した時代、渡来した時分は、かならず芸術的な、たいへんによい物をもたらしており、残しておる。またほんとうに芸術が盛んであった時代には、かならず精神的方面の修練にも、より以上の力を注いでおったものであるということはおわかりと思うのであります。(中略)
また生活に芸術がなかったらならば楽しみというものがない、余裕というものがない。皆さんは、芸術というと、何か高級な、金でもたくさんもっておって、いろいろな物を見たり、買い込んだり、暇があって出来るものであるかのごとく思っておられると、これは間違いである。
いつも申しますように、天地自然が絶大なる芸術品であり、毎日が芸術の展覧会である。すなわち、神さまご自身が最大の芸術家であらせられるのであります。金がなければできぬとか、暇がなければできぬというようなものでない。多忙の中に芸術が織りこまれ、またそれ相応な余裕において芸術が解し得られる。
何もむずかしい道理や余計な金のいるような芸術に凝らなくても、そのへんの調度品、あり合わせのものを如何にうまく活かして使うか、美しく調和させるか、いかに自然、人事の風雅、景致を感受し観賞、享楽するかというところに芸術はあるのであります。
芸術的な人は、必ずものの調和ということに敏感である。話が宙に飛びますが、天国の美しいのは調和があるからでして、みながチャンとおくところに置かれている、使うところに使われている。不自然がない。美というものは一つ一つの美よりは、いろいろなものがたくさん集まって、それが調和しているときの総和の美の方が、より価値が多いのであります。
たとえば、この机の美しさを一とし、この盆の美価を二とし、この水差を三とし、この美の総和は数学でいえば六になるはずでありますが、調和が完全にとれている時には、実は六より以上の価値がある。八にもなれば十にもなる。
一つ一つの価値があつまった総和よりも、調和ができたときの全体の価値の方が多い。その反対に調和が破れた時には、総和よりも少ない価値しかない。これは事実としておわかりになると思います。
で、美には調和ということが大切である。皆さんでも、一人一人がいくらえらくても、またわかっておっても、それじゃ力がない。ところが、諺にも三人よれば文殊の知恵といいますが、そういうような人が五人でも十人でも寄って靄然(あいぜん)として一つの集団をつくり、仲よくしているときには、その一人一人の力を数学的に加えた和よりも、五人なら五人よった集団の力の方が大きい。「和」の美しさ、調和の力ということを近代人は知らない。利己主義的になってきて世の中がますます乱れている。真の芸術的な力が今はない。
とにかく、ものの観方を芸術的に、芸術的にと心がけてゆく人は、じかに天地の真相にふれてゆき、天地の真相にふれてゆけば神智霊覚ができてき、いきおい信仰的にならざるを得なくなるのであります。
われわれが信仰と同時に芸術方面を奨励しているのは、いわれがあり、必要があり、わけがあるのであります。芸術的な気持ちのある人は、簡単な酔生夢死の生活でなしに、非常に味わいあり、うるおいある生活ができ、世界を非常に広く旅行し、奥ふかく世界を領有したことになる。趣味のゆたかな人、美を感ずることの多い人は、そういう境地に居住し得る。また神さまの神秘とか、世の中の微妙なこととかを、美によって本能的に経験的に、すぐ自分が体得し得るようになる。
神さまのおことばの中に、
『真の生活は左右の両手に宗教と芸術とをにぎて、あくまでも世間的生涯、すなわち職業を芸術的に生かすために信仰をすすめ、楽しく、おもしろく、この世の旅をせざれば人間として生きがいなし』
と申されているのであります。
信仰的な方面を説く教はあるのでありますが、そればかりでは楽しみがない、ゆとりがない。カンカンになって一生懸命になるばかりではいけない。そこに生活に興味を覚えさし、うるおいを与えるものがなければならぬ。
信仰を一面やるとともに、また一面に、芸術的な余裕ある生活を営むことが大切であります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太