満州地域の複雑な民族情勢
日露戦争(1904年2月8日~1905年9月5日)から昭和初期までの満州地域(現在の中国東北部)は、中国本土(山海関以西の中国全土)から事実上独立しており、満州民族(女真族)をはじめ、漢人軍閥、ロシア、モンゴル人、朝鮮人、日本人など、さまざまな民族の思惑が交錯する無主の地でした。
大正時代末から昭和にかけて、馬賊の頭目である張作霖は日本の支援を受けて満州地域で勢力を拡大しました。彼は日本軍と協力し、満州全土を実質的に支配しました。しかし、1932年に列車爆破事件によって暗殺されました。その後、彼の息子である張学良が満州の支配者となりました。
張学良は張作霖爆殺事件の後、反日の立場を取り、中国の独立や抵抗の思想を持ち続け、日本の圧迫に対抗するために活動しました。この時期、日本による満州への統治や権益拡大が進む一方で、中国の利権を狙う欧米列強との関係も複雑に絡み合いました。
こうした状況下で、「懲弁国賊条例」が制定され、日本人による中国および満州での土地の貸借や売買が「売国罪」として処罰されることとなりました。この措置は、日本の商権を排除することを意図していました。その結果、激しい反日運動が展開されました。
満州政局に対する提言
1931年9月18日、満州の奉天(現在の瀋陽市)近郊の柳条湖で満洲事変の発端となる南満州鉄道爆破事件(柳条湖事件)が発生し、関東軍の軍事行動が満州全土から中国大陸に拡大しました。
満州事変勃発後、出口王仁三郎聖師はこの事件を重く受け止め、直ちに奉天駐在の日本憲兵隊に宛てて「全満州院会(道院・紅卍字会)の人々を保護してほしい、大本王仁」との電報を送りました。
さらに、全満各地の世界紅卍字会に対しては、「日華の衝突は非常に遺憾であり、各院会の安全を神に祈る、大本王仁」との電報を送り、満州の大本および人類愛善会の各支部に対しては、「神の守りがあるので安心してほしい、大本王仁」との慰問電報を発信しました。
1932年1月1日付の「中外日報」には、出口王仁三郎聖師の次の談話が掲載されています。
「東亜経綸は世人が気付かぬ間に断行し、かつ種子をまいてみたのが、八年の今日に至って芽を出したことは会心に堪えない。私の心は現に満蒙の天地に飛んでいる。(中略)今満蒙政局の表に立っている要人たちは野心家揃いで、本当に民族を統治して行ける器ではない。誰が出ても駄目だ。そこになると当たり障りなしに宣統帝(清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀)が一番よいと思う。満蒙の紳民間には宣統帝を擁立して独立国を建設しようと企ててみる。宣統帝の起ち上るのも今が潮時であらう。明光帝国の名称は事変前からしばしば要人に会ったときすすめてみた。マア私が名付親とでも言おうか。序に述べておくが、大本の立場だ。大本は武器は持たない、破壊の役目でなくてそのほうは他にある。大本は修理固成すなわち世界の立直しをするのが神から授かった大使命である。この目的の下に昭和青年会は立て直した、青年の奮起それは二、三年の後になるやも知れぬ。」
また、1931年9月24日、出口日出麿三代教主補は出口王仁三郎聖師の代理として満州に渡り、紅卍字会員らと共に、国や人種に関係なく、中国と日本の野戦病院を訪れ、傷病者の手配や援助活動に従事しました。彼らの活動は民衆の救済、不安の除去、治安の維持などを目指しました。
そして、満州から帰国した出口日出麿三代教主補は、「満蒙五ヶ月」という題名で報告講演を行いました。講演の中で次のように述べています。
「日本が軍閥を駆逐しなくとも、長年の軍閥に対する人民の憎悪が蓄積され、一度騒動が起こる状況になっていました。(中略)張学良は毎年、不換紙幣を大量に発行し、農作物を買い取り、それを上海や日本で金貨で売りさばいて、利益を追い求め続けていました。それによって一般の農民を含む人々の憎悪の念が高まり、今回の事変が必然的に発生したものと考えます。現在、一般の民衆も非常に喜んでおり、今後は日本の行動次第で状況がどう変わるかが決まるのです。この意味において、われわれ日本人の責任は重大です。(中略)われわれは日本人としての大きな使命を理解し、真に心を込めて、利権などを問題にせず、兄弟として愛と善をもって接し、指導していけば、必ず日本自体を徳のある国にすることが明白です。(中略)真の善と真の愛によって、すなわち神の御心に基づく東亜の大いなる計画を確固として打ち立てなければなりません」(「神の国」昭和7年2月号)。
この出口日出麿三代教主補による報告講演からも明らかなように、大本の満蒙問題に対する基本的な立場は、宗教や民族、利害に超越した万教同根の精神や人類愛善に基づいており、難民救済や民族の協和を実現しようとするものでした。
満蒙に平和の楽土を築くことは、アジアの安定に貢献し、さらには世界平和の実現につながるという出口王仁三郎聖師の理想に基づいた活動でした。
満州国の傀儡化と崩壊 出口王仁三郎聖師の真の目的
1932年3月、満州人の総意により、清朝最後の皇帝である溥儀が執政に迎えられ、満州国が誕生しました。
満州国は民族協和と王道楽土の建設を掲げ、初代関東軍司令官の本庄繁大将、板垣征四郎、石原莞爾などは総合的な視点から、善政を実施し、安定した人心を築き、真の日満共存共栄を目指していました。本庄は国家構築の準備中に以下の言葉を残しています。
「官吏として入る日本人は、中国人を本当に理解している者であり、少数でありながらも優秀な者を選び、表立っては現れず、影で最も重要な問題にだけ意見を述べるべきです。満州国の大多数は満洲人なので、満州系の官吏によって善政を実施するようにします。日本人官吏は常に中国服を着るなど、心構えを持つべきです」(「神の国」昭和25年9月号「真実に国境なし在満当時の思い出」三谷清氏(※)の記録から)
しかし、満州国に対する理解の薄い政府の役人や民間人が日本から次々と入ってくると、本庄の意図に反して満州国は日本の傀儡国家となってしまいました。
1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に、日中両国は戦争状態に入りました。近衛文麿内閣は当初、不拡大方針で中国との交渉に臨みましたが、再び衝突が起きたため、日本軍は総攻撃を開始し、北京や天津を占領しました。その後、南京占領が行われました。中国は首都を武漢、さらに重慶に移して抗戦を継続しました。
一方、日本は中国大陸で戦線を拡大し、戦争が長期化したため、1941年4月に「国家総動員法」を公布し、総力戦体制の確立を進めました。この法律により、国民の労働力や資源が戦争遂行に従事するために動員されました。しかし、この統制体制は戦争の遂行に歯止めをかけるメカニズムを欠いていました。
戦争の拡大により、さらなる労働力や資源の需要が生じ、その結果として太平洋戦争(大東亜戦争)に突入していきました。
1945年8月、日本が敗戦に向かう中、ソビエト連邦が日ソ中立条約を無視して満州に侵攻し、満州国は崩壊しました。その後、日本は連合国に対して無条件降伏しました。
満州国は終戦と共にわずか13年で崩壊しました。
出口王仁三郎聖師の満州国建国に対する思いは、戦後の日本や戦勝国が語るような残虐な侵略行為を肯定するものではありませんでした。
出口王仁三郎聖師の真の目的は、世界の平和と人類の福祉に貢献することであり、大本がこの地域で先駆的な宗教的精神開発を行い、日本と世界のために神の意志に基づいた奉仕をすることでした。
第一次世界大戦後の混乱した世界情勢を安定させるためには、アジアの宗教的・文化的発展と経済的な安定が不可欠でした。
※三谷 清氏:明治29年に東京都麹町区で生まれ、大正7年に大本に入信。満州事変勃発後は奉天の憲兵隊長として活躍し、その後も憲兵中佐として奉天省警務庁長を務め、東満総省の長として満州国の大臣に匹敵する地位に就いた。昭和25年には大本本部で奉仕し、本部審査院長、総務、財務部長、大道場長、参議などの責任役員を歴任。昭和39年、77歳で昇天。
国際連盟脱退
出口王仁三郎聖師は、満州事変の発展が世界の重大事となることを憂慮し、出口日出麿三代教主補を派遣しましたが、事態は聖師の意図とは相反する方向へ進展しました。
満州事変は国際連盟に取り上げられ、リットン調査団が派遣されて調査が行われ、その結果が国際連盟に報告されました。
当時のイギリスの政策を反映して、日本の満州占領については、全面的に否認されるものではなく、かなり妥協的な姿勢でしたが、日本政府はこれを激しく批判し、満州を中国の領土とみなす立場を否定しました。
1933年3月の国際連盟の総会で、対日勧告案(日本軍を南満州鉄道付属地内へ撤兵させ、中国の主権を認めたうえで、満州に自治機関をつくるよう求めた勧告)が42対1(棄権1)の大差で可決されると、日本は国際連盟を脱退することを通告しました。
これらの状況が重なり、日本は国際的な孤立化を進め、出口王仁三郎聖師の予言通りの展開となりました。
国際連盟と世界の混乱に関して、伊都能売神諭には次のように示されています。
「今度の国際連盟は、皆が何も知らずに結構だと思っているが、それによって国の魂が混乱し、世界はますます危機に直面し、金の力が覇権を握るようになる。自由や平等といった考え方は、聞けば魅力的に思えるが、それが日本の神国の祖先の道から外れることになり、自由や平和はやってくるものではない」(『いづのめしんゆ』大正8年8月11日)
東海教区特派宣伝使 前田茂太