大本聖地みろく殿
コラム

「先祖と共に歩む道」

大本の祖霊祭祀

大本の祖霊祭祀の大きな特長は神をまつることと、祖霊をまつることが一体になっているところにあります。大本が目標として掲げている‟みろくの世“の建設も、神さまのお許しのもと、霊界で迷っている祖霊を救いあげる霊界の浄化からはじまります。

大本では、祖霊のおまつりをはじめる前に、神さまに「○○が亡くなりました、どうぞ神さまのみ恵みによってお救い下さいませ」と祈り、つぎに祖霊に「祖霊さま、あなたの子孫の○○が亡くなりました、神さまにもお願いしましたけど、どうぞよりよくお導き下さい」とお願いし、最後に亡くなった人に「神さまにもお願いしました、また祖霊さまにも頼みました、どうぞ神さまのお恵みや祖霊さまのお導きを受け、想念をよりよくして、天界へいって下さい」と神さまと祖霊の筋道をはっきりと立てて祈ります。

大本で行う祖霊祭祀には、先に旅立った人たちとの絆を深め、その魂を救い、共に生きてゆくための大切な意味と意義が込められています。

大本の二大聖地のひとつ綾部梅松苑にある、みろく殿の祖霊社には、何万という家々のみたまが復祭されてます。(復祭とは仏式など他の宗教で先祖供養をされていた方が、昔からのまつりのあり方にかえすという意味です。)

 

 

祖霊祭祀がなぜ重要か

わたしたちは肉体的には遠く先祖からの血統を受け継ぎ、また霊的にはその家を継ぐべき因縁の霊統を受け継いでいます。こうした複数の要素を受け継ぎ、わたしたちはこの世に誕生します。

現世にあるわたしたち(子孫)と先祖は、住んでいる世界は異っていても、同じ血統をひくために霊線による深いつながりを持っています。先祖とわたしたちの関係を一本の樹木でたとえると、代々の先祖は幹であり根です。わたしたち子孫は先祖の根から延び育って来た枝葉です。その枝葉であるわたしたち子孫が栄えようと思えばその幹を太くするために根に肥料を与えなければなりません。根が張り幹が太ってこそ、その枝葉は茂り、立派な花を咲かせ、また子孫という実をむすぶことが出来ます。その本である幹に栄養を送らなければ、枝葉が茂るはずもなく、細い幹のままで枝葉が茂れば、その木は倒れてしまいます。

子孫の家庭が明るく栄えるのも、紛糾や悩みごとが絶えない暗い家庭であったりするのも、霊界から多大な影響を受けてのことです。祖霊を光明への道に救い上げ、子孫の繁栄、幸福をはかるために、神に祈り祖霊祭祀を行うことが子孫としての重大な責務であるといえます。

 

 

霊魂は不滅

死は、例外なくどんな人間にも平等に訪れます。人間には死ぬという事実が運命づけられていながら、普段はその日が来ることを忘れています。だからこそ、人間は日々平穏な暮らしができます。しかし、この世に生を受けたすべての者はその運命から逃れることは出来ません。自分自身や身近な人間が死に直面したとき、どのような立場の人間であっても正気を保つことはとても難しいことです。
しかし、人間はこの世を去っても、この世に存在していたときと同じ感覚や意識を持って生き続けています。霊界でもやはり衣食住は必要であり、霊界生活を安定させ向上させるには、子孫からの愛と信からなる真心の追善供養が必要です。また、霊界に帰った祖霊は向上し歓喜を極めたいと、絶えず望んでいます。子孫が、霊界の実在を固く信じて、真心をこめて祈れば、祖霊は神から一そう大きく強い光を受けることになります。

現世にいるわたしたち子孫と、霊界にいる先祖がお互い繁栄し幸せに暮らすために、わたしたち子孫は祖霊祭祀を行ない、祖霊に満足を与え向上の道をひらき、苦しんでいる祖霊がいれば、救い上げられるように祈願することが大切です。

先祖が霊界において生きていることがわかれば、切実な思いをもって祖霊祭祀を行うことができます。

 

 

大本のみ教えからみる祖霊祭祀の重要性

 

天人の歓喜なくして地上の平和なし

『子孫が孝のためにする愛善と信真の篭った正しき清き祭典が届かないと云う道理は決して無い。天国にあってもやはり衣食住の必要がある。子孫の真心よりする供物や祭典は霊界にあるものをして歓喜せしめ、且つその子孫の幸福を守らしむるものである。
………祭祀を厚くされた人の霊は霊界現界の区別なく、その供物を歓喜して受けるものである。現世に生れて居ながら猶且依然として霊祭を厳重に行うて貰ふて居る現人は日々の生活上においても、大変な幸福を味はふことになるのである。………地獄に落ちた祖霊などは子孫の祭祀の善徳に由って忽ち中有界に昇り進んで天国に上ることを得るものである。又子孫が祭祀を厚くして呉れる天人は、天国に於ても極めて安逸な生涯を送り得られ、その天人が歓喜の余波は必ず子孫に自然に伝はり子孫の繁栄を守るものである。何んとなれば愛の善と信の真は天人の神格と現人の(子孫)人格とに内流して何処迄も絶せないからである。』(『霊界物語』第五八巻第二四章「礼祭」 出口王仁三郎著)

 

 

追善供養の必要

『現界におる人の意志想念は、天国にも通ずるものである。生き残っている子が信仰を励めば、それが親に通じて、幽界にある親の意志想念もだんだん向上してゆくものである。これ追善供養が大切な理由である。供物は誰の手でしても同じであって、お寺に納めてお坊さんに供養してもらおうが、神主に頼んでお供えしてもらおうが、それはみな天国に届くのである。なぜならば、こちらの意志想念は死者に手向けるつもりであるから。ゆえに追善供養はあたかも天国へ為替を組むようなものである。』(『水鏡』「追善供養」出口王仁三郎著)

 

『また、霊が中有界に迷っているあいだは、現界との関係が非常に密接であります。しじゅう現界のことを考えて「子供はどうなっているだろう。あの事件はどうなっただろう」と思うている。何か気にかかることを残している人は、しじゅう現界に出入りしている。俗に「新霊は四十九日家の棟にいる」というのも、この辺の消息をいったものです。こちらから思うことによっても霊線が通じるから、それを通じて人に憑ってくることもある。死者の夢を見るのも、こちらからか向こうからか、あるいは相互の思いが通じるからである。それで、中有界にいる間はよくお祀つりしてあげ、拝んであげるということが大事で、一生懸命に良いところ行くように力づけてあげ、お供えしてあげるということによって、うれしい良い波が、真心の波がその人にゆくのである。本気になって、その人に向かって「早く神さまのお神徳(かげ)でいい所へ行け」といって力をつける祝詞の声などが、バーッと大きな力となってゆくからして、この人は非常にうれしい気持ちをもつことができる。いたずらに悲しむ波は、これと反対に霊界人を苦しめるのであります。
またお供えというものは、なんで必要であるかといいますれば、霊界へゆけば、物質体ではなしにガス体のような体になっているのだからして、こちらから「飯を食え、お茶を飲め」といってお供えせんでもよさそうなものだとお思いになるかもしれませんが、これは一を知って二を知らん考えである。なぜかというと、そこにきれいに飾ってくれてあり、好きなものをお供えしてあれば、そこにこもっている遺族の真心はかならず受けるのである。霊体一致たらねば、ただ念ずるだけではまだ半で、それを形式に現わしてはじめてよく通ずるのである。いわんや霊界人といえども、物質の精気、霊気というものは摂り、または喫するにおいておやである。真心をもって、米やらその他の物をお供えすれば、非常にありがたく感じる。
真心がそのご飯なり、お水なりにはいっている。想念というものがはいるから、その物質の分子電子の状態を変えて、きれいな美しいものにしてあるから非常によろこんで食べる。「勝手に食え、めんどうくさい」という気持ちで供(あ)げたものは、霊の方でも食いにくいし、食べてもあまりうまくない。そのものの精気が、霊気がきれいではない。「どうぞおあがり下さい」といって、真心をこめて供(あ)げたものは、そこから出る霊気の香りがあり、かがやかしい色があるものである。
また「そんなにたくさんお供えしても食べきれまい」とお思いになるかも知れませんが、そうではない。たとえ自分が食べきれなくとも、欲しいと思わんでも、自分のために本気で真心をこめてお供えしてくれたものは非常にうれしいし、その精気を他人にわけてやることもできる。また中には、罪によって水も飲めん、飯も食えん(霊界でも霊的飲食はある)というような苦しみの状態にあるものもいる。こういう状態の人でも、こっちから本気で供えたものは多少通じて神さまもお許しになり、少しずつでも頂けるようになるものであります。
それから、追善ということがありますが、その人が亡くなってから、その人のためにしてやることを追善というのであるが、その人になり代わって慈善をしたり、よいことをしたり、のりとの一つも神さまに奏(あ)げたりすることは、またその霊が非常によろこぶものである。』(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

『人は祖に本づき祖は神に本づく、故に人の道たる報本反始を貴ぶ。報本反始、是れ祭祀の由りて興る所なり』(『出口王仁三郎全集』第一巻 出口王仁三郎著)

 

 

顕幽の相関(※顕幽=「顕」とは現界を指し、「幽」とは霊界を指す)

霊界は想念の世界であつて、無限に広大なる精霊世界である。現実世界はすべて神霊世界の移写であり、また縮図である。霊界の真象をうつしたのが現界、即ち自然界である。ゆゑに現界を称してウツシ世といふのである。たとへば、一万三千尺の大富士山をわづか二寸四方くらゐの写真にうつしたやうなもので、その写真がいはゆる現界、即ちウツシ世である。写真の不二山はきはめて小さいものだが、その実物は世人の知るごとく、駿、甲、武三国にまたがつた大高山であるがごとく、神霊界は到底現界人の夢想だになし得ざる広大なものである。
わづか一間四方くらゐの神社の内陣でも、霊界にてはほとんど現界人の眼で見る十里四方くらゐはあるのである。すべて現実界の事物は、いづれも神霊界の移写であるからである。わづかに一尺足らずの小さい祭壇にも、八百万の神々や、または祖先の神霊があまり狭隘を感じたまはずして鎮まり給ふのは、すべて神霊は情動想念の世界なるがゆゑに、自由自在に想念の延長を為し得るがゆゑである。三尺四方くらゐの祠を建てておいて、下津岩根に大宮柱太敷立て、高天原に千木高知りて云々と祝詞を奏上するのも、少しばかりの供物を献じて、横山の如く八足の机代に置足らはして奉る云々とある祝詞の意義も、決して虚偽ではない。すべて現界はカタ、即ち形の世界であるから、その祠も供物も前に述べた不二山の写真に比すべきものであつて、神霊界にあつては極めて立派な祠が建てられ、また八百万の神々が聞し召しても不足を告げないほどの供物となつてゐるのである。(『霊界物語』第二一巻「総説」 出口王仁三郎著)

 

自分にかかってござる神霊は、通例、一定しているのである。自己とおなじ系統の神でなくては、決して、ふだんに懸ってくるはずはない。ただし、臨時には、いろんな霊がかかって来ることもある。
人々の病気なども、大抵は、自己の先祖のめぐりが現界へ映ってきているものである。現界の人々は、よく「先祖が、子孫を病気にしたりして苦しめるというのは怪しからぬ」といって立腹しているが、それは間違っている。先祖は、決して、故意に子孫の肉体を苦しめるものではない。先祖の霊自身の、霊界における悩みが、必然に、現界へ映ってくるのである。
それは、ちょうど、一枚の紙の表がよごれれば、したがって、その裏もよごれ、一本の糸の一端を強く引けば、したがって、かた一方の端も同じ方向へ引かれる理とおなじことである。
すべて、顕幽一致であって、現幽は相互に影響し合っているのである。だから、霊界における祖霊がよくなれば、したがって、現界の肉体にも、自然に、よい風が吹いてき出し、現界の肉体が神意にかなう行動をすれば、したがって、霊界の祖霊もその影響を受けずにはおられぬのである。
ゆえに、われわれ現界人は、あくまで、大神さまの思し召しにかなう行動をし、かつ、大神さま、ならびに祖霊を、できるかぎり丁重に、心からお祭りすることが必要である。現界で、心からのお祭りをたびたびすれば、したがって、霊界はお勇みになるのは知れきったことである。
ただひとつ、注意せねばならぬのは、この現幽相関の理においても、あくまでも、霊界は主、現界は従である。その関係は、ちょうど、われらが自分の身のまわりの器具や、また住家などを造りて、その造りし物のために、吾らみずからが影響をうけるのとおなじことである。
精神は物質をつくり、そのつくりし物質のために、逆に影響をうけるのである。しかし、どこまでも精神が主であるから、精神さえ変ぜば、物質はやがて変ずるのである。物質を改良して、心におよぼさんとするのは逆であって、まず心をあらためて、しかるのちに、物におよぼすべきが自然である。(『信仰覚書』第三巻「現幽相関の理」 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太