「直観を信じて大丈夫?」

新録の榎さん

最初に感じた直観はだいたい正しい

イスラエル・テルアビブ大学のMarius Usher教授の研究で、人間は意識的に理解できない時に直観を大事にすると、90%の確率で正しい選択ができるとの結果がでました。つまり、〝人間の直観〟は90%の確率で的中するということです。

「直感」で決めるとはどういうことかというと、何か物事を判断するときに、人からの印象を気にしたり、打算的に頭であれこれ考えたりせずに、最初に動いた自分の本音で、明るく前向きな感情を大切にするということです。

論理的に頭であれこれ考えていると、マイナス要素に意識が向いてしまい、自分で「直感」を否定し、自分の本音を覆い隠してしまいます。自分の本音を偽ることで、無理が生じ、結果的に物事がうまく進まなくなります。

 

ただし、すべてを「直観」で決めればいいということではありません。
病気やケガの症状、薬の効果など、科学的な実験や調査、情報収集、分析などによって答えを導く必要があるものに関しては、正しい情報を得た上で、それらの分析結果を重視しなければならない場面もあります。

 

あらゆる問題に対し、自分の心と「直観」にしたがって、判断のアプローチを使い分け、神さまのみ心にかなうように心がけて対処してゆくことが、これからの時代を生きてゆく上で必要なことだと思います。

 

大本のみ教え

どうも、一番最初にフト思い浮かんだことが正確らしい。後から、いろいろと迷って、いろいろと理智の力をかりて訂正してみるが、かえってそのために間違っている場合が多い。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

フトすることがさせられているのだ。最初に念頭にのぼってきたことが真の内流だ。ちゅうちょして人間的理智で考えたりなどしていては、却ってその内流を妨げることになってしまう。無邪気が天国だ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

フト思いついたことで、して差しつかえのないことなら、その時をすかさず為すべし。
機会というのは、かかることを指すなり。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

現界は型の世界ゆえ、ちょっとした現界的行為でも、霊的には非常なことを意味している場合が多い。
要するに現界人は、心にフト浮かび出たことを、つぎつぎに実行してゆきさえしたら、それでよいのである。
ただ、邪霊につかれている人が、もしも、思うままをなしたとすれば、非常な邪悪を行為にあらわすことになるから、ここに、大いに省みるという必要があるのである。
しかし、大して差支えのないことにまで、一々、理性をはたらかして躊躇するがために、かえって神界よりの内流を妨げることになる場合が多い。
末節の礼儀作法などに拘泥して、肝心の内流を妨げている場合が実に多い。
最大限度において、したい放題をするのが一番よい。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

フト興味をそそり、フト目につき、耳に入るのが、その時の自己の内界を外的にあらわしているのだ。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

その時、フト思い、その時、フト見つけ、その時、フト失う……などというのは、みな霊的には秩序正しき因果法則がおこなわれているまでであって、現界人には、悲しいかな、その終局しか分からぬから、偶然などと思ったりする人があるのである。
人間は、いかにしたら、最もよく神意を具体化し得るかというに、これはいつも言うように、小理屈をはたらかせずに、大した差支えないことは、フト思いついた瞬間瞬間にドシドシ実行したらよいと答えるより外はない。フト思いついたのは、いわば、霊界からベルが鳴ってきたのであるから、直ちにこれに応ずるのが、もっとも霊界に対して忠実なわけである。善じゃ悪じゃ、正守護神じゃ副守護神じゃと騒ぐのは、まだまだ末のことである。大局から見たら、守護神のままに動かされているので、副守でも理由なしに憑依し、理由なしに脱離して行くものではなく、みな、それぞれの因果法則によらなくてはならぬ。
ゆえにまず、極悪的天性の人をのぞいた普通の人は、一切を、その日その時の気持にまかして、悪くいったら仕放題、よくいったら、偽りなき自己表現をやったら、大局から見て、人はそれぞれに、行くべき道へ落ちつかされるのだ。
この説は、ちょっと考えると、途方もない無茶苦茶な説のようにあるが、決してそうではない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

してよい時と、して悪い時とは、何によって知るかというに、守護神のかかった時、すなわち、気分のよい時にフト思いついたこと、ぜひ、こうありたいと思い込んだことはならば、かならず、その方にしたがうがよく、気持の悪い時に、自己中心に考えついたことは、なるべく、なさぬ方がよい。
それから、自己の意志にかかわらず、他人から、フト教えられたことは、ともかく、一度実行してみるに限る。赤子のような心で、自分の信ずる人から言われたように努力してみるうちに、かならずあとになってから、なるほどと、合点のゆくことがあるものである。自我をどこまでも立て通そうとあせってはいけない。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

すべて肉体的理智での善悪観からするよりは、ただなんとなしに、フト、する気になってする方が正しいのである。しかし、そうばかりはゆかぬ。無邪気な、毒気のチリほどもない人なれば、ヒョイヒョイと霊感のままに行動したらよいけれども、悪い守護神に駆られている人が、理智を超越して、その守護神の頤使(いし)するままに行動するとしたらどうであろう。いつまで経っても同じ状態を持続するばかりで、一段とその上に脱け出るという時なく、より良くなるということがない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

直観と反省――
相容れざるが如くにして相補う
ときに直観に従い、時に反省による
直観は神より出で、反省も神より出ず
直観と反省――
一を欠けば迷い、他を欠くも迷う。
(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

 

一切の行動が、ことごとく内分より出ずるようにならねば、真にまことの行動はとれぬ。とにかく、自分でいろいろとかまえ、思うのはいけないことだ。自己の心は、つねに水のごとくであって、はじめて、霊界よりの影をハッキリと映し出すことができるのだ。
白紙のごとく、水のごとき心でさえあればよいのだ。ある影が映ってきたならば、ただ純に、そのことのみに心をかたむけたらよいのだ、幼児が一事に一心になっているように。ところが今の人は、一事に全心を集中するあたわず、他方へ同時に分散しているから、魂の不経済で、なに一つほんとうのことができぬのだ。
純な心にさえなれば、最初にハッと直観したことは、たいてい、ほんとうのことだ。それを人間ごころで、いろいろと思い直したりなどしていたら、もう分からなくなってしまう。おみくじなどの方法によって神意をうかがう際にも、決して、二度三度、やり直しをすべきものではない。かならず最初の一度できめるべきものである。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

昔の人間は直感すなわち、いわゆる第六感が鋭かつた。だが今日の科学は最低の直観を基礎として立てられたものであるがために、だんだんとその第六感をもにぶらしめてきたのである。それは人類にとつてたいへんな損失であつて、どうしても今後の学問は科学的に人間の智慧を向上せしめるとともに、神より与えられた人間の直感力をいよいよ発達せしめて、両々相まつて人類の福祉に貢献せしめるよう努力せしめねばならぬ。
たとえは近代の建築家が、ただただ機械の精巧のみにたよらずして、わが国伝来の蟇目の故実を修得して、その両者を併用するようになつた暁は、おそらく全世界を驚倒せしむべき建築界の革命をもたらすことができるであろう。その他すべての方面にわたつて機械の能力とともに、わが日本人独特の直感力をますます発揮したときこそ、はじめて独自の超人的科学文明を、日本から全人類に教示することができるのである。
日本の科学者たちは、一日もはやく欧米の糟粕にあまんぜず、伝統的大精神にめざめて一大奮起すべき日にいたつていることに気がつかねはならぬ。これがすなわち吾人の称する皇道科学なのである。(「人類愛善新聞」 昭和一〇年八月二三日)(『出口王仁三郎著作集』第三巻)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太