「人を呪わば穴二つ」

大本聖地神苑

「人を呪わば穴二つ」の科学的根拠

負の感情が強い場合、自己評価を負の方向に影響させると考えられており、現代の脳科学では、負の感情が蓄積されると、無意識のうちに自己評価がマイナスになりやすくなると指摘されています。

人間の脳はネガティブバイアスという特性を持ち、ネガティブな出来事や感情に対して意識が引かれやすく、常に否定的なことに注意を向け、否定的な思考を積み重ねることで、長期間にわたって否定的な思考パターンが続く可能性が高まります。

また、誰かの悪口を言うと、やる気や快楽に関与するホルモン「ドーパミン」が放出されます。ドーパミンが出ると楽しい気分になります。
しかし、ドーパミンは一度放出されると「より大きな刺激」を求めるため、より過激な悪口を言わないと、新たにドーパミンが出ず、楽しい気分になれなくなります。

東フィンランド大学の研究によると、皮肉や批判的な態度を持つ人は認知症のリスクが3倍高く、死亡率が1.4倍高いという結果が出ました。
また、批判的な傾向が強いほど死亡率が高まる傾向がありました。悪口を言うとストレスホルモンであるコルチゾールが分泌され、快楽を得ると同時にストレスも感じることがわかりました。

人は他人と自分を比べた際に、優越感や劣等感を感じるものです。劣等感は強烈なネガティブな感情で、それを払拭しようとして悪口や中傷を発することがあります。
しかし、他人を批判することで自分の価値を高めるのは一時的であり、逆に健康や信頼を失うリスクがあります。

人の考え方は長い期間かけて蓄積された「価値観」が土台になるので、一瞬で変化することは少ないかもしれません。しかし、日々、意識的に取り組むことで、少しずつ考え方を変えることが重要です。「脚下照顧」という言葉があります。他者に対して理屈を言う前に自分 の足もとをよく見て、自己を反省しなさいという意味です。

脚下照顧の精神を心がけ、自分の過去の行動や考え方を振り返り、他人を非難する前に自分自身を律することで、他者との関係やコミュニケーションにおいてより建設的な態度を持つ手助けとなります。

大本のお示し

他人が悪い悪いと思ふて居ると、全部自分の事が鏡に写りて居るのであるから、他人が悪く見えるのは、自己に悪い処や霊魂に雲が掛りて居るからであるから、鏡を見て自己の身魂から改心いたさす様に、此世の元から変生女子の霊魂がこしらへて在りての、今度の二度目の天の岩戸開きであるから、一寸やソットには解る様な浅い経綸で無いから、改心いたして身魂を研くが一等であるぞよ。(『おほもとしんゆ』第一巻)

自己(われ)の行(ぎょう)が出来て居らんから、他(ひと)とを悪口(わるくち)言うのが、一番神は気に損(さわ)るから、悪い事は親切があるなら蔭で申さんと、当人(そのにん)に気を付けてやるのが、真正(ほんま)の親切である。」(『おほもとしんゆ』第四巻)

人間は何よりも忍耐といふことが第一であります。人を呪はず、人を審判ず、ただ人間は神の御心に任してゆけばこの世は安全です。何事も神様の御心であつて、
人間は自分の運命を左右することも、どうすることも出来ないものです。生くるも死するも、みな神様の御手の中に握られてをるのである。ただ人は己を正しうして人に善を施せば、それが神様の御心にかなひ、幸福の身となるのです。人間としてこの世にあるかぎり、どうしても神様のお目に止まるやうな善事をなすことはできませぬ。日に夜に罪悪を重ねてその罪の重みによつて種々と因縁が結ばれてくるのです。(『霊界物語』第六巻 出口王仁三郎著)

たがいに許しあい助けあって、仲よく面白く天地の大神業に参加したい。宇宙間の森羅万象、一として絶対不用とか有害とかいうものはないのです。どんなものでもみな、それぞれの時と場所とさえ得たならば、善であり美であり真であるのです。生存は事実であり、理論は遊戯であります。
何はともあれ、われわれは、仲よく暮らしてゆかなくてはなりません。いかに文化が進んでも、お互いに争い、おたがいに気まずい思いをして暮らしていては、一向、生きがいはありません。第一、文化そのものが意義をなしませぬ。
お互いに仲よくするためには、まず第一に、つねに自己を空しゅうするということが必要であります。つねに我執に充ちみちている人は、どうしても公平にものを観ることができず、また人を恨んだりそねんだり、疑ったりしがちになるのであります。これが一番悪いことです。
でき得るかぎり自己を犠牲にして、他人のためをはかるという心がなくては、とうてい、円満に社会をつくることはできません。常に自利にもとづいて行動するから、心配が絶えないのであります。一切を惟神にまかして、禍福吉凶の外に立ち、悠然と天地の公道を闊歩する覚悟が必要であります。」(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

すんだことばかりを何とかかとか餅について暮らしているのは、ちょうど、顔をうしろ向きにしながら歩いているようなものであり、前途のことばかりをくよくよ、せかせか案じているのは、上半身だけを前へかがめて、足もとを見ずに進んでいるのと同じである。
過去も未来も考えるなというのではないが、現在を忘れ、なぽざりにしていては、まるで夢遊病者のような生活になってしまう。ところが世には、いま、今のことに最善をつくす楽しみ――たとえ、それが苦しくても――を忘れて、いたずらに過去を追い、未来にあこがれて、心身を一点に集中した生活をしていない日とが実に多い。どんな境遇であり、どんな時であっても、天より自分に授けられた唯一のものなのであるから、これを積極的に享け楽しむ心がまえが必要である。そして、だんだんに、よりよき境地へと突破して進むべきである。これより外にいたし方はない。
誰もが自己の現在を呪わしきもの、悩ましく痛ましきものに、ともするとしてしまいがちである。となりのボタ餅はうまい、の諺のごとく、他人は幸福である。結構であると、他人のことばかりを羨みたがるものである。また失敗があっても、これを世間のせい、他人の罪に帰したがるものである。これではいけない。あくまでも現在を見つめ、自己を見極めたしっかりしたその日、その時でなくてはならぬ。」(『信仰覚書』七巻 出口日出麿著)

また悪魔は決して悪相をもつて顕現するものではなく、かならず善の仮面を被りて人の眼を眩ませ、悪を敢行せむとするものである。一見して至正至直の君子人と見え、温良慈悲の聖者と見ゆる人々にも、また柔順にして女のごとく淑やかに見ゆる男子の中にも、悪逆無道の行ひをなすものがあるのは、要するに悪神の憑依して、その人の身魂を自由自在に使役するからである。また一見して鬼のごとく、悪魔のごとく恐ろしく見ゆる人々の中に、かへつて誠の神の身魂活動し、善事善行をなすものも非常にたくさんあるものである。ゆゑに人間の弱き眼力にては、到底人の善悪正邪は判別し得らるるものでない。人を裁くは到底人の力のよくし能はざるところ、これを裁く権力を享有し給ふものは、ただ神様ばかりである。ゆゑに三五教の宣伝歌にも、神が表に現はれて善と悪とを立別ける」云々と宣示されてあるのである。みだりに人の善悪正邪を裁くは、いはゆる神の権限を冒すものであつて、正しき神の御目よりは由々しき大罪人である。また心魂の清く行ひの正しき人が一見してその心のままが現はれ、至善至美至直の善人と見ゆることもある。また心の中の曲り汚れて悪事をなす人の肉体が、一見して悪に見え卑劣に見えることもある。(『霊界物語』第三十六巻 出口王仁三郎著)

人間といふものは、ずいぶん知らず識らずの間に罪を作つてをるものだ。人を殺し火を放ち、あるいは強盗、詐欺等の罪悪を犯す者は、実に天下のために憎むべき者であります。しかしながら、その罪を憎んで人を憎まずといふことがある。
公平無私の神様は、肉体を罰し給ふやうな事はありますまい。キツとその罪のために苦しめられてゐるのでせう。罪さへとれれば原彦さまも間もなく本復するでせう。世の中には人間の目に見えぬ罪人がたくさんある。(『霊界物語』第二十巻 出口王仁三郎著)

到底不完全な人間が善悪ぢやとか、功罪だとかいふことは判断のつくものぢやありませぬ。それだから、神が表に現はれて善と悪とを立別け遊ばすので、人間はただ何事でも善意に解釈し、直霊の神にお願ひし、神直日大直日に罪を見直し聞直し、宣直してもらふより仕方がありませぬよ。吾々は日々一生懸命に国家のため、お道のため、社会のためと思つてやつてることに、大変な罪悪を包含してゐることが知らず識らずにできてゐるものです。
それだといつて、善だと信じたことはどこまでも敢行せねば、天地経綸の司宰者としての天職が務まらず、罪悪になつてはならぬといつて、ジツとしてをれば怠惰者の大罪を犯すものですから、最善と信じた事はあくまでも決行し、朝夕に祝詞を奏上し、神様に見直し聞直しを願ふより仕方はありませぬ』(『霊界物語』第二十巻 出口王仁三郎著)

吾は三五教の宣伝使である。何事も見直し聞き直し、過ちを宣り直すのが吾々の主旨であるから、決して汝らを憎しとは思はぬ。いづれも皆神様の最愛の御子である。吾々もまた神の愛したまふ御子である以上は、汝らと吾らは同一の神の御子であつて、いはば兄弟である。吾々はどうして兄弟を虐げることができるであらうか。神は広く万物を愛したまふ。吾らは尊き神の御子なれば、たがひに相愛し相助けねばならぬ。人間に差別をつけるといふことは、もつとも神の嫌はせ給ふところである。汝らも今までの心を改め、本心に立ち帰り、神の尊き御子として、善をおこなひ人を助け、神様の大御心に副ふ至善の行ひをするが人間の本分である』(『霊界物語』第六巻 出口王仁三郎著)

ただただ人は吾が身の悪を改め、善に遷ることのみを考へ、決して他人の審判を為すべき資格のなきものなることを考ふべきなり。吾を愛するもの必ずしも善人に非ず、吾を苦しむるもの必ずしも悪人ならずとせば、ただただ吾人は、善悪愛憎の外に超然として、惟神の道を遵奉するより外なしと知るべし。(『霊界物語』第六巻 出口王仁三郎著)

世界の兄弟をそしるなかれ、その善悪を分ちさばくことなかれ。兄弟をそしるものは神の仇なり。兄弟をさばくものは罪なり。人を生かし、また殺す力ある誠の独り神より外に、人の善悪をさばく権利なし。それよりも、わが身を省みてその足らざるを悲しむべし。(『道の栞』 出口王仁三郎著)

神いまして、罪をにくみたまえば、人たるものは、人の罪をにくむべき権利なきものなればなり。人たるものは、たれもみな罪とけがれに充てるものなれば、たがいにその罪をにくむべき資格なきものなり。よろしくその罪をあわれみて、善に導くことを努むべし。(『道の栞』 出口王仁三郎著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太