「冥界の審判」

大本神教殿正面

審判の三過程

大本のみ教えでは、人は死後、ほとんどの人(極善、極悪の人をのぞき)は天国と地獄の中間に位置する中界に進むと、最初に第一の“外分の情態”に入り、第二に“内分の情態”、第三に“準備の情態”を経過すると示されています。

 

大本のみ教え

人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途(さんと)ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。この状態を経過する境域は、天の八衢(中有界)である(『霊界物語』第十六巻 出口王仁三郎著)

 

「内分」と「外分」

内分外分の図

‟内分(魂)”とは、精霊の主体で人間の本体と呼べるものです。内分の本質は神さまから与えられた意志・智性、愛と信です。
‟外分(魄)”とは肉体と同じ形につくられた半霊半物質的なもので、内分を覆う形で肉体と魂を結びつけています。外分の本質は、物質的な記憶や知識、教養、体的感覚、動作、表情などで、現界(物質界)と接触しています。

人間が死を迎え、精霊が肉体から離脱すると、現界に対する遺恨等、外分(魄)の一部を現実世界に残し、外分をまとったまま中有界に入ります。時間の経過とともにこの外分(魄)が次第に薄らぎ剃落すると同時に、精霊そのままの姿(内分)が露呈します。

また、精霊が肉体を離脱した後も、肉体にあったときと同様の感覚(視・聴・嗅・味・触の五感)や感受性を持っています。
それは、人間の五感は肉体に属するのではなく精霊に属する感覚だからです。

 

第一の情態「外分の情態」

人間が死を迎え、第一の情態(外分の情態)に入ったとき、精霊は生前の姿とまったく同一の状態で中界に進みます。つまり、幼児は幼児、青年は青年、老人は老人と、現界で生きていたころとまったく同じ容姿です。また中界は、精霊の容姿だけではなく風景も現界と変わるところがないので、死去したことに気づかない精霊も多いと示されています。
中界で、精霊がこの外分情態(現界と同じ姿)でいる期間は一定していません。それは、精霊のなかで内分と外分が早く分離するか否かで決まるからです。しかし、精霊が、この中界で外分の情態でいる期間は、1年(現界の年数に換算して)を越えることは稀と示されています。

 

大本のみ教え

精霊が肉体を脱離して、精霊界の関所に来つた時、その初めの間の容貌は、彼がなほ現界にゐた時同様の面貌を有し、その音声や動作および背の長短など少しも違はない。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

人間の死後における第一の外面的情態は、あるいは一日、あるいは数日、あるいは数ケ月、あるいは一年に渉ることがあります。されど一年を越ゆるものは極めて稀有のことであります。かくのごとく各自の精霊が外面状態に長短の差ある所以は、内外両面の一致不一致によるものです。(『霊界物語』第六十三巻 出口王仁三郎著)

 

第二の情態「内分の情態」

精霊が第一の情態から第二の情態(内分の状態)に移行するとき、精霊の外分(現界と同じ姿)は消失し内分が表面に露呈してきます。このとき精霊の容姿は内分の情動・想念に応じて変化し、現界にいた時の姿とはまったく異なる形相となります。

この第二の情態では、内分の善悪はその容姿にそのまま現れます。どのようにしても覆い隠すことができません。また、現界で肉体的に障害をもっていた人は、内分が正しければ霊界では健全な容姿に変わり、現界で健全な肉体の持ち主も、内分に欠陥があれば霊界ではすっかり変化してしまいます。

霊界では精霊の内分が主体となります。肉体は、精霊が現界で活動するために神さまからお借りしているものなので、死期に際しては感謝して元の姿のまま返さなくてはなりません。
神さまからお借りしている肉体を私有物とみなし臓器を提供した人は、たとえ他者の幸福のための善意からの行為とはいえ、ご神意と神恩を無視した誤れる行為となってしまいます。

霊界ではその誤れる意思は具象化し相応の霊姿となってしまいます。

 

大本のみ教え

すべて精霊の内分はたちまち外分に現はれるものである。外分とは概していへば身体、動作、面貌、言語等を指すのである。内分とは善愛の想念や情動である。(『霊界物語』第五十六巻 出口王仁三郎著)

 

ややあつてその面貌、言語などは追々と転化して、遂には全く以前の姿と相異するにいたる。何故かかる変化があるかといふなれば、かれ精霊が現界にあつた時、その心の内分において、最も主となりたる愛すなはち情動のいかんによつて、その面貌は転化し、その情動に相応するがゆゑである。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

吾々の霊肉ともに決して私有物ではありませぬ、みな神様のあづかり物です。(『霊界物語』第十四巻 出口王仁三郎著)

 

信徒 「病人の中には医学に貢献するとて死後解剖をしてくれと遺言するものがありますがそんな人は霊界に於いてどうなるので御座いませうか」

聖師 「解剖をすると霊界でもやはり鬼に同様の事をされるものであります。自分即ち心が承知したのであるから、霊界でも解剖されるは当然の理であります」

信徒 「死後、眼の不自由な人のために角膜を提供をした場合、その人は霊界でどうなるでしょうか」

聖師 「霊界では目が見えなくなる」(桜井八洲男 元大本本部長聴取)

 

死刑について

人間の肉体は、滅ぼすことができますが、その魂を殺すことはできません。なぜなら、人間の魂は死ぬことがないからです。
霊的に何の準備もできていない魂を死刑によって霊界へ送り込んでも、その霊を進化させることにはなりません。逆に、その魂を堕落させ、復讐心の激情に巻き込みます。
現界に取り残された復讐心の部分が、心に隙のある別の人間にひょう依して前以上の力を発揮してしまいます。

このような理由から、現在でも似たような事件が後を絶ちません。
霊魂不滅の観点に立ち、現世における過ちを、現界にいる間に改め善にかえす霊魂的救済こそが、犯罪被害者を無くすために必要なことです。

死刑制度では、世の中に真の平和をもたらすことはできません。
こうした理由から大本では死刑制度に反対しています。

 

大本のみ教え

死刑に処すると、その人の霊がまた人にかかって人を殺さしめ、死刑になるようなことを仕出かすので、こういうことを繰りかえしおっては仕方がない。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

第三の情態「準備の情態」

第三の情態は“準備の情態”といわれ、この時期に精霊は神的教育を受けることができます。神さまは精霊が“第二の情態”を経過したのちも、多くの精霊を救おうと、見込のある精霊には神の真知識を教え、善美の情動を心に浸透させるなど、あらゆる救いの道を開いておられます。

こうした神さまの仁慈の努力の結果、各精霊は最終的に現世における善悪の程度に応じそれぞれの天界、幽界へ導かれて行きます。
また、中界でしばらく神的教育を受け、再び現界に修行のために生れる精霊もいます。

 

大本のみ教え

その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。(『霊界物語』第六十三巻 出口王仁三郎著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太