
「祝詞奏上と祈り」
祝詞とは
祝詞は、神さまに奏上する祈りの※言霊(ことたま)で、神道では古来よりとても大切にされてきました。
中でも大祓祝詞は中臣の祓ともいい、私たち日本人が昔から持つ考え方に基づくもので、自らの心身の穢れ、災厄の原因となる諸々の罪穢れ・過ちなどを祓う祝詞です。
※日本人が古来より信じてきた言葉に宿る霊的な力。
大本のみ教え
宇宙にはアオウエイの五大父音が間断なくなり響いているが、人々が発する正しからざる言霊によって之が濁るのであるから、常に天津祝詞を奏上して、音律の調節を行なうのである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)
今日の牧師に一番惜しむべきは、ヨハネ伝福音書の第一章が真解できぬところである。「大初に道(ことば)あり、道は神と偕(とも)にあり、道(ことば)は即ち神なり」とあるが、言葉すなわち道は充ち満つるの意味で高天原のことである。この天地は言霊の幸う国で言葉はすなわち神である。祝詞や祈りの言霊によって、よい神が現われるのである。声の澄んだ人ほど魂はよい。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)
天地も家もわが身も人の身も清めきよむる神の祝詞(ほぎごと)(『大本の道』 出口王仁三郎著)
大祓の祝詞は世に存在しても、その意義すら分らず、従つてその実行が少しも出来てゐなかつた。その大実行着手が国祖 国常立尊の御出動である。神国人の責務は重いが上にも重い。天地の神々の御奮発と御加勢とをもつて、首尾克(よ)くこの大経綸の衝(しょう)に当り神業に奉仕するといふのが、これが大祓奏上者の覚悟であらねばならぬ。(『霊界物語』第三九巻付録「大祓祝詞解」 出口王仁三郎著)
すべての祓は、大本の妙(たえ)なる御業(みわざ)にして、第一に神を和(なご)め奉り、心の罪穢(けがれ)、身体の悪を清め、罪科(とが)、過失(あやまち)、疾病(やみ)、曲事(まがごと)、祟(たた)りを祓う大神法(おおみのり)である。人たるもの軽々しくみのがし、うち捨ておいてはならぬ。(『道の光』 出口王仁三郎著)
われわれが始終にご神前に奏上する大祓祝詞は天孫降臨の次第でもあり、また今の世を祓い給え、清め給え、という言葉でもあります。すなわち言霊の大麻(おおぬさ)であり、塩であります。
つぎに、病者、弱者の身代りになって千座(ちくら)の置戸(おきど)を負う人、これは人の大麻であり塩であります。そういう意味で神柱(かんばしら)というのは、みんなのめぐりを取って、だんだん世を浄(きよ)めていくというご用をしているのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)
祈りとは
祈りは、「世界の安寧や、他者への想いを願い込めること。利他の精神。自分の中の神と繋がること。神など神格化されたものに対して、何かの実現を願うこと」と定義されており、宗教や信仰において最も基本的な行為のひとつと言われています。
自分の力ではどうすることもできない局面に立たされたとき、人間には祈ることしかできません。そんな時、祈るという行為は心を平静に保ってくれます。
出口なお開祖の祈り
開祖さまは、日々御礼なさるには、とにかく自分のことや一家のことを願うようなことは少しもなく、こんどのことは世界の難渋(なんじゅう)であるから、世界の大難を小難にして、少しでもみなを助けていただくようとのお願いばっかりでありました。(二代教主さま 昭和七年二月六日みろく殿にて)(『おほもとしんゆの栞』第四号)
祈りより来る体験
人間は、何にすがって生きていけばよいのでしょうか。よく考えてみれば、たのむべからざるものを頼りにしていることもありましょう。わたくしはかつて、世間的にたよりとするすべてを失ったおもいの日々がありました。人間の力では、どうにもならない苦境におとされたことがありました。そんなとき、おたのみするのは神さまだけでした。巨大(おおき)な壁にぶつかって、自分にはどうする力もないことが分かると、ただ、拝むだけでした。
その後、自分の気持ちが神さまの近くにいるおもいの日もあり、神さまからはなれているような日もありますが、気持ちの根底においては、安心して、いつも神さまといしょに歩ましていただいていると思えるようになったのは、そうした絶体絶命のところに追いこまれて、真剣にお祈りさしていただくことができ、神秘というものにふれさしていただいたからです。
苦境にあって切実に祈り求めた時、与えられるものが太い綱とばかり思ってはなりません。それは、クモの糸のようにかぼそい時もありました。それなのに糸よりも細い神さまからのものが非常なお力になっていただけるのでした。絶望の壁にとざされてみると、糸のようにか細くても、神さまからのものに頼る、それだけで安心していられました。拝むよりほかない苦境にいて、ただ拝んだということだけで、
一条の光明をいただき、それにおすがりすることができました。人の一生には、いろいろのことがあり、一度にいろんな問題がおこることもあります。そうした時は誰でも心がゆれ動くものです。さびしい気持ちになるものです。その時ほんとうの力になっていただけるのは、信仰のおかげでした。拝むことによっていただく、まことに細い糸が、なんともいえない力になりました。(『寸葉集』第一巻 出口直日著)
祈りこそ唯一の救い
祈りこそは唯一の救いであり、神さまと人の心が通い合う道でございます。しかし真剣な祈りは何かことに当たらなければなかなか湧き上がってこないものでございます。
私たちの常々の祈りも荒れ狂う嵐の中における祈りのように真剣でありますとき初めて開祖のご精神に生きることが出来て、私たちの家庭や、また広く社会や、世界の災害や不幸を最小限に止める力となり、感謝と希望と、勇気を起こさせる源となりまして、神さまの願われます、みろくの世へ近づいてゆくことを信じるのでございます。(S34・11・2)(『三代教主御教示集』 出口直日著)
祈りは希望であり念願
公(おおやけ)のために働こうとしての祈り、本分を尽そうとしての祈り、それは当然であると思います。祈りは希望であり、念願でありますから、そういう念願も希望もない人は、この世になんのために生きておるか、ただボンヤリと生きておるか、私利私欲のためにのみ生きているか、どちらかであります。
そうした念願を、より以上のものに対して述べるということは結構なことでありますが、ただそれを取り違えて、私利私欲に堕すから祈りが往々いましめられているのであります。
祈っていますと、これは人にもより、またいろいろ、その時にもよって違いますが、一種の感応というものがあります。この感応がだんだんはっきりして来るほど信仰は進んでまいります。祈りに要する時と場所は、問うところではないのですけれども、朝夕に祭壇に向かうことは外界的にも精神が統一されやすいのであります。一つの対象をおいて、それに向かうということは、精神を専一にする上において非常な補助になります。ただ何もない所で勝手に祈るよりは統一した気分になれる。そういう所、神に通ずる電話口を設けて、そこへ行くと、何となしに神さまのそばに行ったような気持になるということは、すでに通ずる条件に非常にかなっている。で、そういうことは非常に小乗的なことであり、体的なことであるようでありますが、大事なことであります。(『信仰雑話』 出口日出麿著)
東海教区特派宣伝使 前田茂太

