「『霊界物語』の拝読がなぜ必要なのか」

大本聖地御神木榎

『霊界物語』とは

『霊界物語』は、出口王仁三郎聖師が明治31年に郷里の霊山高熊山で修業の際、霊界で見聞された宇宙の真理を、23年後の大正10年10月18日から口述編纂されたもので、『おほもとしんゆ』『いづのめしんゆ』と並ぶ大本の根本教典のひとつです。

『霊界物語』は、81巻83冊にわたる大長編です。物語の基盤は古事記に基づく日本神話ですが、聖書、キリスト教、仏教、儒教、孟子、スウェーデンボルグ、九鬼文書など、さまざまな思想や宗教の要素が取り入れられています。物語の舞台は神界、霊界、現界など全大宇宙にわたります。

『霊界物語』には様々な読み方があり、予言書としても解釈できると言われています。内容は宇宙と地球の創造過程、古代の神々の支配の様子、現代社会の批判や風刺、そして未来の予言など、多岐にわたります。

登場人物の言動を通じて、宇宙の真理や神の大意志、修身斉家の活きた教訓、過去における歴史、種々雑多の警句、金言玉辞などが含まれています。

霊界物語横配置

 

 

『霊界物語』の主旨・目的

本書は王仁が明治三十一年旧如月九日より、同月十五日にいたる前後一週間の荒行を神界より命ぜられ、帰宅後また一週間床縛りの修業を命ぜられ、その間に王仁の霊魂は霊界に遊び、種々幽界神界の消息を実見せしめられたる物語であります。(中略)要は一度でも読んでいただきまして、霊界の一部の消息を窺(うかが)ひ、神々の活動を幾分なりと了解して下されば、それで私の口述の目的は達するのであります。(『霊界物語』第二巻「序文」 出口王仁三郎著)

そもそもこの物語は、現、神、幽三界に渉つた神人の活動の一部を、神示のままに述べたもので、今日の人々の耳には入り難く、また受取れない点もたくさんあらうと思ひます。また各国の神話や、歴史等に現はれたる事実は、なるべくこの物語には載せない心算です。
要するに神話に漏れたる分のみを、ここに発表することといたしました。信ずると否とは読者の自由ですから、夢物語と思つて見てもらつても結構です。しかしながら読めば読むほど面白く、精神上に一つの光明を認め得ることと信じます。(『霊界物語』第八巻「序文」  出口王仁三郎著)

善悪不二、正邪一如、顕幽一致の真諦は、この神著によつて明白になることと確信する次第であります。この物語はすべて宇宙精神の一斑(ぱん)を説示したものであります。(『霊界物語』第一三巻「モノログ」  出口王仁三郎著)

要するにこの物語は、神、幽、現、三界の状況や、神の大御心の一端や、神理の片鱗を描き出したに過ぎませぬ。読者、幸ひに諒せられむことを希望いたします。(『霊界物語』第二一巻「序文」  出口王仁三郎著)

火の洗礼とは、人間を霊的に救済することであるということは、すでにわが弟子たちの周知のことである。最後の審判は、閻魔大王が罪人を裁くと同様なる形式において行なわるると考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入りうるものと、地獄に陥落するものとの標準を示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる。そは各自の意志想念の如何によるのである。
標準とは何か、霊界物語によって示されつつある神示そのものである。ゆえに最後の審判は、大正十年十月より、すでに開かれているのである。バイブルに「また天国の、この福音を万民に、証せんために、あまねく天下に宣べ伝えられん。しかるのち末期いたるべし」とあるごとく、大正十二年より、支那(中国)、朝鮮の順序をへて、今や全世界にこの福音が宣べ伝えられつつあるではないか。(『水鏡』  出口王仁三郎著)

 

 

拝読の意義

大本の大精神は、この書によつて感得さるべきものでありますから、大本信徒にとつては最も必要な羅針盤なるのみならず、洋の東西を問はず、人種のいかんを論ぜず、修身斉家(しゅうしんせいか)の基本的教訓書ともなり、大にしては治国平天下の軌範たるべき神書たることを信ずるのであります。大本信徒諸氏よ、変性男子だとか、変性女子だとかの言句に跼蹐(きよくせき)せず、すべての心の障壁を撤廃し、虚心坦懐、もつて本書に包含するところの五味の真相を闡開(せんかい)されむことを希望する次第であります。(『霊界物語』第一三巻「モノログ」 出口王仁三郎著)

かく述ぶる時は、この物語全部を読了せなくては安心立命の域に到達せないならば、始めより読まない方が気が利いてをると思はるる方もありませうが、決してそんなものではありませぬ。ただ一巻の物語の中にも、宇宙の真理や神の大意志や、修身斉家の活きた教訓もあり、過去における歴史もあり、種々雑多の警句もあり、金言玉辞もありますから、一冊でも心読せられむことを希望いたします。(『霊界物語』第四一巻「序文」  出口王仁三郎著)

又、十方世界の諸天人民にして至心ありて天国浄土に大往生を遂げむと欲するものは譬(たと)へ諸の功徳を成す能(あた)はずと雖(いえど)も、常にこの物語を信じ無上正覚を得て一向に厳瑞二神を一意専念せば神徳いつとなく身に具足して、現幽両界共に完全十足の生涯を楽しみ送ることを得べし。この深遠なる教理を真解して歓喜し信楽して疑惑せず二心を断ち、一向に神教と神助を信じ至誠一貫以て天国に復活せむ事を願ふ時は、臨終に際し正に夢の如くに厳瑞二神即ち日月の神を見たてまつりて至美至楽の第三天国に復活すべし(※原文は句読点なし)。(『霊界物語』第五五巻「序文」  出口王仁三郎著)

私は昔から淋しいと思つた事が無い。心細く淋しいといふ感が起るのは、霊性に塞がつて居る部分があるのである。囚はれて居るからである。何物にも囚はれない自由豁達な心で居れば決して淋しいものでは無い。囚はるる心には悪霊がやがて感応して来る。例へば人間が縛られて居ると、小さな蚊に刺されても、それを打払ふ力がなくて、大なる苦痛を感ずるのと同じである。両手が空いて居れば打払ふのにも手間暇はいらぬのである。囚はれた心は一寸した悪霊にも苦しめられて、それを打払ふ事が出来ない、あまり小さい事に囚はれて居ると、人間はだんだん心が小さくなつて終りには気が変になるやうな事にもなる。囚はれない、執着しない、大きな心に淋しみなんか湧いて来るもので無い。人の悪口など恐がるやうでは駄目だ、大きなものには大きな影がさす、出る杭は打たれる、じつとしてさへ居れば人にかれこれ言はれる事は無いけれど、問題にせられる位の人でなければ駄目だ。霊性の一部が塞がつて居る人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用を承はつて居る人は、殊更物語を拝読して置かぬと霊性が塞がつてをつては、本当の御用は出来ない。(『月鏡』  出口王仁三郎著)

『それから私のところに来て今後の世界、日本はどうなるというような事を聞かせという人があるけれども、霊界物語にすべてがわかるように、特に信仰してる人にはわかるように書いてある、日本はこれからどうなる。世界の動きはどうなるという事も、ちゃんと示してある。大正十年から示してあるのに、今日においても皆に分かっていない、早く次を出して下さいと言っている人もあるが、出す必要はない。みな食傷してしまっている。物語には滑稽、諧謔(かいぎゃく)もあるけれども、それは一つの色をつけているのであって、そういうところにかえって余計書いてある。(中略)物語は決して予言書ではない、確言書である。三十万年昔の事であるが、これから先、三年、五年のうちにそれがみんな出て来る。今のうちにしっかり読んでおかぬと、まさかの時に役に立たない。』(神霊座談会 長沢雄楯・出口王仁三郎)

 

 

精神の立替え立直し

本書を信用されない方は、一つのおとぎ話か拙(つたな)い小説として読んで下さい。これを読んで幾分なりとも、精神上の立替へ立直しのできる方々があれば、王仁としては望外の幸であります。(『霊界物語』第二巻「序文」  出口王仁三郎著)

願わくはこの書をもって霊界一部の消息を探知し、霊主体従の身魂に立ちかへり、世界万国のために弥勒の神業に奉仕されむことを懇望する次第なり。(『霊界物語』第三巻「総説」  出口王仁三郎著)

現界人にして心身内に天国を建てておかねば、死後身外の天国を摂受することは到底不可能である。死後天国の歓喜を摂受し、かつ現実界の歓喜生活を送らむと思ふものは、瑞の御霊の守りを受けねばならぬ。要するに生命の清水を汲みとり、飢ゑ渇ける心霊を霑(うるお)しておかねばならぬのである。瑞の御魂の手を通し、口を通して示されたる言霊が即ち生命の清水である。霊界物語によつて人は心身ともに歓喜に咽(むせ)び、永遠の生命を保ち、死後の歓楽境を築き得るものである。(『霊界物語』第一七巻「霊の礎」  出口王仁三郎著)

ただ人間は惟神に一身を任せて、日々の業務を楽しみ、歓喜の生涯を送ることに努めねばならぬ。故にこの物語も、読者をして天国浄土の片影を覗はしめむとして、滑稽的の言語をつらねられたのも、大神様の深遠なる仁慈のこもるところであることを、口述者は感謝するのであります。(中略)読者は本書を読んで充分に笑ひかつ泣き、法悦の天界に遊ばれむことを希望いたします。
(『霊界物語』第四六巻「総説」  出口王仁三郎著)

この物語はすべて宇宙精神の一斑を説示したものであります。大病人などが枕頭にてこの物語を読み聞かされ、即座に病気の全快するくらゐは何でもない事実であります。これを見ても人間の頭脳の栄養物たることが判ります。(『霊界物語』第一三巻「モノログ」  出口王仁三郎著 )

病人がメソメソ泣き出したら死ぬ。霊界物語は常に人々を明るい愉快な楽しい気持ちになすようにと口述せられている。病人にはなるべく面白おかしいところを読んで聞かせて、気持ちを楽しい方面に転じさせ笑わせてやることが必要である。(『水鏡』  出口王仁三郎著)

 

 

霊魂の糧

現幽神の三界を超越したる物語 教の御子や世の中の 青人草の魂柱 太しく立てむと述べ立つる この物語永久に 天地と共に極みなく 神の御苑の花となり 果実となりて五六七神 胎蔵したる五種の 味はひうまく調合し 霊魂の餌とならしめよ。(『霊界物語』第四一巻「忍術使」  出口王仁三郎著 )

『物語を拝読しますと、よい御内流を頂くのは、あれはどういう風に解釈したらよいもんで御座いましょうか』
『それは霊魂の餌食が殖えるからや。肉体に餌が要るように霊魂にも餌が要るやろ。そして犬には犬の食い物があり、猫には猫の食い物があり、人には人の食い物がある。そうやさかい、あの物語でも人によっては適当せん事があるがな。(後略)…』(出口王仁三郎氏を囲む座談会 第四夜)

人はその相対的であるところの肉体には、毎日二度か三度の食餌を供給しておりますが、一方霊魂にも同様、毎日糧を与えなくてはなりませぬ。このことは極めて必要事であるに拘わらず、世上ほとんど全く忘れ去られていたのであります。霊魂は霊界に属しているから、その糧は霊界のものに限り、肉体の食餌は物質に限ることは天地惟神の規則であります。
神格の内流、これが霊魂に対し唯一の食糧であり、この上なき滋養食であるから、吾々は大神人によって説示されたる神言を摂受(間接内流)しておらねばならぬのであります。そして少しずつでもよいから毎日読んでいることが極めて必要であると同時に、毒になる書物や悪言悪詞を内流さしてはなりませぬ。この点において吾々が絶対的神書を供給され好餌美食を無尽蔵に頂いているということは、実にこの点だけでも至幸至福と言わねばなりませぬ。吾々が朝夕祝詞を奏上している一事についても、それが毎日神言の内流となりて身魂に力がつき、知らぬ間にいろいろの方面に亘りて御神徳を頂いているのであります(舎身活躍戌の巻、四十七巻第十六章その他索引参照のこと)(『暁の鳥』 井上留五郎著)

 

 

音読

吾々においては神書は音読に限るのであります。その理由は黙読の条下に譲りまして、さて音読をすればまず第一に自分自身の内流となるのは無論でありますが、その他左の如く種々の利益があるのであります。
一つは神々様が御聴きになるのであります。この度の大御経綸については神様でも枝の神々様には御存じないことであると神示されてあって、このため大本では当初から今日まで御神諭、霊界物語を朗読することが日々の行事となっておるのであります。
一つは祖霊が聴かれるのであります。吾々が因縁の身魂であると共に吾々の祖霊もまた因縁の身魂であって、しかも霊界におられるだけに吾々よりもさきに神界の訓示を受けられ、産土様の御手伝いとして、責任上主として自分の子孫に対し内流的に警告しておられたのであるから、吾々は内分的には、入信前すでに大本を知っていたのであります。それが時節と共にちょっとした動機、たとえば新聞の記事とか大本の講演とかが交流の動機となり、内外両分の一致はここに入信することとなったのであります。従って祖霊は吾々以上に御神諭、霊界物語を希望しておられるのであるから、神書の音読はこの上もなき供物であります。また吾々子孫として祖霊を復祭することは前述の理由により当然せねばならぬ緊要事でありますが、しかし「現在においては高価なる御帳台に御祭りしても、祖霊は神様に対してお鎮まりにならぬから、かえって祖霊を苦しめることになる」との聖師様の御訓示がますます会得されてくるのであります。
一つは音読すれば家族、殊に小児が御陰を頂くのであります。小児は肉体霊魂共に発育の途中であるから外流的には判るはずはないが、霊魂は大人より純潔であるだけそれだけ内流が容易であります。二、三才まではただ肉の風呂敷を以て霊魂が包まれているだけであります。故に小児は遊んでおろうが、唱歌をうたっておろうが、哺乳児であろうが、神言を耳にひびかしてやることは必要であります。聖師様は「信仰に入った家庭ほど幸福のものはない。乳を飲んでいるうちから御神徳に浴しているのである」と仰せになっておられます。老人と小児に神様のことが早く判る理由は霊界物語真善美愛子の巻(四十九巻)第一章にも説示してあります。(『暁の鳥』 井上留五郎著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太