「リフレーミング」

大本神苑のアサギマダラ

リフレーミング

「リフレーミング」(Reframing)とは、問題や状況を新しい視点から見ることを指します。多くのアスリートたちも実践し、メンタルヘルスのサポートとして、リフレーミングを取り入れる企業も増えています。

何気なく言われた一言や些細な出来事で、やる気がなくなってしまったり、落ち込んだりする経験は誰にでもあります。そうした出来事に遭遇すると、条件反射的にネガティブな気持ちが心を支配します。それらは、意識的に切り替えない限りどんどん増幅していきます。
しかし、欠点や不安といったネガティブな要素も、考え方の前提を変えることで、長所や期待などポジティブな側面として捉えることができるようになります。

「リフレーミング」の実例として、「コップ半分の水」という話があります。この話では、「もう半分しかない」と捉えるか、「まだ半分も残っている」と捉えるかによって、全く意味が変わります。例えば、連休が残り1日だった場合、「残り1日しかない」と考えるのではなく、「まる1日ある」とポジティブに考えることができます。
事象や状態は自分ではどうにも変えることはできませんが、その見方は一瞬で変えることができます。その事象や状態の意味をポジティブに捉えることで、その後の行動を大きく変えることができます。

一度不安になると、些細なことでも怪しく感じたり、疑念が芽生えたり、怖さを感じるようになります。これは自分自身が心の中で生み出した疑心暗鬼と呼ばれる心理状態です。つまり、自分で勝手に心配事をつくって思い悩み、ほとんど起こらないことに対して無駄に心を消耗させています。

物の見方や捉え方を変えることで、疑心暗鬼に陥らずにストレスや困難な状況に対処することができます。

大本のお示し

私の肉体を戦場として、善玉と悪玉との二つが始終闘いつづけているように思われます。清いすがすがしい秋の夜の高嶺の月のような気分になることもあれば、また実にいやらしい、どこか狭苦しい路地の奥へ奥へと押し入れられるようなものを背に負うているようでございます。そして、ともすれば、孤独的になり、見るもの聞くものに何の感興も湧かず、いらぬことを疑ったり心配したりいたします。「地獄の心」と私は思います。
するとやがて、前いったような晴れやかな、秋の空のような心になって、赤子のようにそこら中を跳ねまわります。時には風呂の中にジッとはいって、ボンヤリとものも思わずに、眼をつぶっているような静寂な、そして法悦な心境になります。こんな時には、なんだか自分は下界におるべき身ではないかのように考えられます。「天国の心」と私は思います。こうして私は、毎日、天国へ登ったり、地獄へ落ちたりしているのであります。地獄の心の時の私は、自分ながら愛想がつきるほど因循で、ちぢかまって泣面をしております。この時私は、よく自分で自分を了解しております。で、少しでも晴れやかになりたい、これではならぬと努力いたしますが、しかし、これはなんの甲斐もありません。すべてが灰色に見えてきます。そしてどんなよいお話も気の合うた友達も、みな私を苦しめるばかりになります。こんな時には、私はただジッと時の経過を待つよりいたし方がありません。そしてつくづくと世の中の人々の中にも、こうしたやるせない重苦しい気持ちで悩みつづけ、ひがみつづけている人達の多いことを思い、われわれがこれらの人達に向かって、単に口や筆でどんなよいことを知らしてあげても、大した効果はないものだということを感じます。これらの人たちには地蔵菩薩のご容貌でもが、不安に思えるのですからいたし方がありません。(中略)
さいわいに私は、この地獄の心の時はホンのわずかの間で去り、やがて、もとの穏やかな心に返ることができます。ですから、よくこの二つの心を比較して味わうことができ、きたない心になった時には「ここが辛抱のしどころだ」と心の中に歯をくいしめて、ジッと気ばって無難に過ごすことができます。しかしそうではなくして、絶えず、このきたない心に苦しめられて、世をはかなみ、人を呪うている人たちは、ずいぶん多いことだと存じます。(『信仰覚書』第一卷 出口日出麿著)

現代の人々は、わが身の失敗をことごとく棚の上に祭りこみ、惟神だとか、社会組織の欠陥そのもののしからしむる自然の結果なり、と思うなぞの詭弁に依帰してしまつて、自己の責任については少しも反省し、自覚するものがない。宗教家のなかには、「御国をきたらせたまえ」とか「神国成就、五六七神政」とかいうことを、地上に立派な形体完備せる天国を立てることだとのみ考えているものが多い。そして地上の天国は、各人がまず自己の霊魂をみがき、水晶の魂に立て替えるということを知らぬものがたくさんにある。各自の霊魂中に天国を建てるのは、天国の住民としてはずかしからぬ、清き正しき雄々しき人間ばかりとならねば、地上に立派な霊体一致の完全な天国は樹立しないのである。
ああされど一方より考うれは、これまた神界の御経綸の一端とも考えられるのである。暗黒もまた、清明光輝に向かうの経路である。ひな鳥に歌をおしえるには、暗き箱のなかに入れておき、外面より声の美しき親鳥の歌う声を聞かしめると同様に、一時、大本の経綸も、ひな鳥を暗き箱に入れて外より親鳥の美しき声を聞かしめる大神の御仕組かとも思われぬこともないのである。
ゆえに吾人は、大逆境におちいつて暗黒のなかにある思いをするとき、かならず前途の光明をみとめうるのは、まつたく神の尊き御仁慈であると思う。いかなる苦痛も困窮も、勇んで神明の聖慮仁恵の鞭として甘受するときは、神霊ここに活機臨々としてわれにきたり、苦痛、困窮も、かえつて神の恩寵となつてしまうのである。たとえば籠のなかに入れられている鳥でも、平気でうたつている鳥はもはや捕われているのではない。のんきに天国楽園に春を迎えたようなものである。(中略)
牢獄の囚人の苦痛に比して、自由人のかえつてこれに数倍せる苦痛あるも、みな執着心の強きによるのである。名誉に、財産に、地位、情欲等に執着して、修羅の争闘に、日夜しのぎをけずる人間の境遇も、神の公平なる眼よりみたまえばじつに憐れなものである。神諭にも「人は心の持ち様一つで、其の日から何んな苦しいことでも、喜び勇んで暮される……と示されたのは、じつに至言であると思う。(『出口王仁三郎著作集』第三巻)

吾々は翌日のことは心配しなくてもよい。今といふこの瞬間に善を思ひ、善を言ひ、善を行つたらよいのだ。我々はその刹那々々を清く正しく勤めてゆけばよい。取越苦労も、過越苦労も、何にもならない。一息後のこの世は、もはや過去となつて吾々のものではない。また一息先といへども、それは未来だ。人間の分際で取越苦労をしたり、過越苦労をしたつて、何にもならない。マア何事も神様に任したがよからうよ(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

猜疑心や、嫉妬心や、疑惑があると、つひ他人の事が気になつて、安心の出来ぬものだ。疑心暗鬼を生ずと言つて、人は自分の心で自分を苦めるのだ。(『霊界物語』第十三巻 出口王仁三郎著)

心に秘密や弱点のある人は、疑心暗鬼を生ず、で、自分自身で、勝手に心中に邪鬼や暗影を製造して、そしてそのために、脅かされ苦しめられているのである。
賢愚は別として、なんとなく一緒にいて気持のゆたかな人、とりつきは悪くても、交際(つきあ)うほど味のある人、こうした人は真の善人である。(『信仰雑話』 出口日出麿著)

人は、本来、神の子であるから、だれでも悠揚と無邪気と歓喜と平和そのものを味わうことができる。ただ凡人は、これが一時的であり、真人は永続的であるだけである。
この時の嬉しい、有難い、ゆったりした気持をよく記憶にとどめておいて、これを武器として、やがて、その次にさまよう嫌な冷たい、トゲトゲしい気持の世界を極力ふせがねばならぬ。(中略)
人間の一生は霊肉のたたかい、内外の争いである。霊にいたるか、肉に堕すか。内に悟るか、外にしたがうか。そは、一つには、たしかに意志の強弱によるのである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

人が、いかに、自己を悪く言わるることを気に病んでいるか、そして、これがために、とんでもない疑心暗鬼を、みずから製造して、みずからその毒ガスのために寿命をちぢめているかということをよくよく考え、察すべきである。そして、お互いに信じ合い、心を許し合うて、楽しく暮らすように努力せねばならぬ。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、楽しくもあり、また悲しくもあるのだ。
そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

気分を転換するということは、よく心得ておらねばならぬ。環境が変わると、気分もまた変わるものであるから、腹が立ったり、気がむしゃくしゃする時には、演劇や音楽を見たり聞いたりすることによって和められるものである。
だから、人は平素から、何かに趣味を持っていて、いやな気分の時などには、これに憂さをやるように心がけるがよい。
打ち解けた話し相手や飯より好きな娯楽は、苦しい人生の唯一の乳房でありオアシスである。
これらを持たない人の生活は、なんとなく潤いのない寂寞たるものである。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

われわれは、より以上の力、大きな或る意志、あるいは自分を動かしている糸の持ち主と人間との関係を、すくなくとも考えてみねばなりません。またそれに少しでも触れてゆきだすと、世の中の見方がちがってくる。いままでの、ただ局部的な、あるいは瞬間的な、いまを基礎としての善悪とか、あるいは苦労とか、楽しみとかいう考え方でなく、永遠に根ざし、普遍に根ざした考え方に変わってくる。そうなると、いま苦労していても、逆境にあっても、損をしても、それはより良き未来を構成するための一時的のものであると考えるようになるから、それがいっこう苦にならなくなるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

人間の気持ちは実によく変わるものである。雨がちょっと降りつづけば、この世がモウつぶれてしまうのではないかとまで心配したり、それが、カラリと晴れてしまえば、まえの心配はモウすっかり忘れてしまって、永久に天空海闊、人生は愉快なものだよという気分になってしまう。
少しの病患にでも、俺(わし)はモウ駄目だと悲観したり、ちょっと健康になると、病気になんてなる奴の気がしれぬというふうにハシャグものである。
人の気持ちの変化は、実際、たよりない程クルクルと極端から極端へとゆくものである。
だから、この社会の状態さえ少しよくなってゆきさえすれば、思ったよりも人々は善人ばかりなのである。すべては境遇に支配されているのである。これを脱することは、いかなる達人といえども至難のことであろう。ただ、その程度の問題だけの話しである。(『信仰覚書』第二卷 出口日出麿著

実際、悶えるのは執着があるからだ。一さい空の境地に立って、思う存分、その時次第に自我を発揮することさえできたら、この世は面白いに違いない。
小さい利欲に大きい自己を囚えられて、あがき苦しんでいる人々ばかりじゃ。われとわが魂にいろいろな重い錘(おもり)をたく山にくくりつけて、「アア苦しい苦しい」といっているのだ。
なろう放題、あろう放題、行きあたりバッタリズムほど面白いものはない。
とはいえ、他人に迷惑をかけることは絶対にいかぬ。ここに多少のジレンマはあるが、これは致し方はない。
ただ、いかなる逆境に処しても、平気の平左の心持ちになり得る修養だけが必要だ。書物の上ではない、実践の巷に立ってだ。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

各自は各自の生き方をもっている。すなわち、独特の様式の言動にしたがって動いている。これは簡単にいえば癖である。
ある者は、つねに積極的に、それだけ、また自己的に、いわゆる、出しゃばり屋であり、ある意味において、無智であり無鉄砲であり無自覚である。
ある者は消極的に、引っ込み思案であり、臆病であり、狐疑的であり、打算的である。ある者は一切を軽蔑し、罵倒してかかり、ある者は、一生、のほほんで過ぎる。
歩き方にもいろいろあり、挨拶の仕方にも種々ある。みな、それぞれの様式を発揮しているから面白い。各人の特性は、茶碗の持ち方、箸のにぎり方にまで現われているから致し方ない。
霊性の複雑な人は、その様式もまた複雑でなければならぬ。ものを簡単に考える人は、ちょっと見ると、いかにも楽天家であり、無邪気の人のようであるが、一面からいえば、浅いのである。こうした人にかぎって、一朝、悲境におちいるや、自暴自棄になりやすく、ものの真諦を見きわめるという力をやしなっていないから、一つつまずき出すと、ズンズン底へ底へとめいり込んでしまいがちだ。
やはり、どう考えてみても、人生に一番貴いものは体験である。体験の深刻な人、豊富な人ほど、どことなしに輝いている、落ちついている。いろいろな境涯をへて来たあとでなければ、人は、何もできるものではない。
この意味からいって、われわれは何をしていても、させられていても「有難い」のであり、「結構」なのである。(中略)
人間こころを出して、強いて事をしてはならぬ。自然にまかして、きわめて無理のないように心がけねばならぬ。いや、心がけるというのが、すでに人間心かもしれぬ。なるように成らしたらよいのだ。
「神さま!」ということを一心に思いつめている人は、かならず向上してゆく。自分が向上してゆけば、自然に考え方がかわってゆき、見方がちがって来る。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

人生はいかなる難事にあるも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も、総てが花をうつ風雨とおもえばよい。富貴も、栄達も、貧窮も、すべてがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

爛漫たる花の香に酔う春の光も、次第に薄らぎ、青葉の茂る夏となり、木葉の散りしく秋の淋しさを迎え、行きの降る冬となって、万木万草枯死の状態になるは、天地惟神の大道である。香りの好い釵(かんざし)の花を嬉しゅうかざした天窓(あたま)の上に時雨が降り、愛の記念の指環をさした白魚の手に落葉がする世の中だ。花の山が青葉の峰とたちまちかわり、青葉の峰は木枯の谷となる。つらい経験は、人生にとって免れがたきところである。然しながら、人間は決してこんな悲惨なものではなく、永遠の生命と永遠の安楽とを与えられて世に生まれ、大なる神業をもって、神の御用のために出てきたものであることを覚らねばならぬ。それはただ神を知ることによってのみ得らるる人生の特権である。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

東海教区特派宣伝使 前田茂太