「霊主体従」と「体主霊従」

金竜海令和4年夏

霊主体従の原理

宇宙間には、正反対の性質を持つ二元が存在します。大本の教えでは、この相対的二元を陰陽、水火、霊体などと呼んでいます。

この相対的二元はどちらも重要で軽重の差はありませんが、秩序整然たる活動をつづけるために、陰陽、水火、霊体の間に、主従の関係が生まれてきます。

「霊主体従」とは、魂、精神、良心など、霊的、精神的なものを〝主体〟として、物質的な欲望を制御しながら〝従〟として、自分の魂、精神を成長させながら生きていくという考え方です。

一方、「体主霊従」とは、副守護神が司る肉体欲求を満たすために 、精神的なものより物質的なものに重きを置き物質を〝主〟とし、心や精神を〝従〟とみなす唯物論的な考え方です。

 

大本のお示し

少し静思反省すると、何(ど)うしても吾々人間には、霊的性能と体的性能との正反対の二面が具(そな)わって居る事が判る。
霊能は、吾々に向上、純潔、高雅、正義、博愛、犠牲等を迫る。これが最高の倫理的感情又は審美的性情の源泉である。
之に反して体能は、吾々に食い度い、飲みたい、着たい、犯したい等、少くとも非道徳的念慮を起さしめ、甚だしきは堕落、放縦、排他、利己等の行為をも迫る。此二性能は、常に吾々の体内で両々相対抗して居る。人間として存在する以上、到底之を免れない。
若(も)し霊能が無いとすれば、吾々は忽ちに禽獣化し、人類として存在の価値を失う。若(も)し又、体能が全然無いとすれば、それでは自己の保存が覚束(おぼつか)ない。
例えば食わない丈でも滅びて了う。両性能を具有する事は絶対に必要であるが、両性能の間には、主従優劣の区別を設けて、一身の行動の規準とせねば、人間は適従する所に迷うて了う。
乃(そこ)で霊能を主とし、体能を従とし、之を守るのが善、之に反くのが悪と規定せられて居る。
大宇宙の原則は、矢張小宇宙たる人間に於ても、原則とせられて居る。ただ人類が未製品なので、大体之を原則として規定しても、実行の上には原則違反ばかり続けて居るのだ。(『出口王仁三郎著作集』第一巻『大本略義』「霊主体従」)

 

霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。
かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。
また体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ。
ゆゑに人間は、どうしても善悪混交美醜互ひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない。しかしこれは、普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間のことである。
人間は肉体を基礎とし、また終極点とするがゆゑに、外的方面より見て体主霊従といふのであるが、しかしながら、これを主観的にいへば霊的五分、体的五分、すなはち、霊五体五たるべきものである。もし霊を軽んじ体を重んずるに至らば、ここに、体五霊五となるのである。
同じ体五分霊五分といへども、その所主の愛が外的なると、内的なるとによつて、霊五体五となり、また体五霊五となるのである。
ゆゑに霊五体五の人間は、天国に向かつて内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向かつてその内分が開けてゐるものである。
一般に体主霊従といへば、霊学の説明上悪となつてゐるが、しかし体主霊従とは、生きながら中有界に迷つてゐる人間の境遇をいふのである。
人間は最善を尽し、ただ一つの悪をなさなくてもその心性情動の如何によりて、あるいは善となりあるいは悪となるものである。
ゆゑに人間は、どうしても霊五体五より下ることは出来ない。これを下ればたちまち地獄界に堕ちねばならぬのである。
なにほど善を尽したと思つてゐても、その愛が神的なると自然的なるとによつて、天国地獄が分るるのであるから、体主霊従的人間が、現世において一つでも悪事をなしたならば、どうしてもこれは体五霊五どころか体六霊四、体七霊三となりて、たちまち地獄道へ落ちねばならぬのである。(『霊界物語』第五十二巻 出口王仁三郎著)

 

神人合一とか、魂肉一致とか、精神統一とか曰ふて、種々の霊的研究が行はれて居が、要するに吾人の霊魂も肉体も、天地の神霊から応分に賦与されたものであるから、教祖の御神諭に現はれて在る通り、生れ赤子の心に帰れば夫れで真の神人合一である。天地合体である。
霊肉一致である。精神統一である。一升の舛に一升の酒が容れてあればそれで良のである。肉体は一升の舛でも霊魂が五六合しか無い。後の四五合は不純な泥水や異物が補充して居るとすれば、清らかな酒の味も、力も、香も無いやうに、他の邪霊と云ふ泥水や、異物が混入して居る霊体は、人としての味も力も香も徳も無い、是を大本では体主霊従、悪霊の宿と云ふのである。
此の悪霊の宿を清めて大神の御在所と改造するのが鎮魂の大目的である。生れ赤子は今と云ふ瞬間の事より何も考ヘて居ない。過去を恨みず畏ず、未来を遠慮せず、今と云ふ瞬間に自己の使命を惟神に遂行して行くのである。
人間は各自一定の目的が在る以上は、士農工商何れにしても、一度其目的に向ふて進む以上は、過去を思はず未来を遠慮せず其目的に向つて最善と思惟する所を、時間と共に水の流れに任すが如く、易々として進めば良いのである。
今といふ瞬間には神も悪魔もある善悪正邪の分水嶺である。其の刻々に善を思ひ、善を言ひ、善を行ひ、過去と未来に超越する。
是れが所謂生れ赤児の心で神人合一、天地合体、精神統一の真の状態である。鎮魂法で無理に精神の統一を為さむと思ふ其心が、既に統一を欠いて居る。太霊道や静座法や其他神霊法で統一せうと思ふのは大なる誤解である。鎮魂の必用は是以外に在るのである。(随筆『神霊界』大正八年八月一日号掲載)

 

実際、いまの人間は物質と精神との価値を転倒している。金さえ与えれば、どんな精神的屈辱でも忍ぶという世の中になってしまった。
そこへゆくと、むかしの武士はたしかに霊主体従であった。借用証書に「もし期限に到りて弁済致さず候はば、衆人の中にてお笑い被下度云々(くだされたくうんぬん)」と書いた時代もあるじゃないか。考えてみるに、衆人環視の中にて笑われるということは、たしかに千金にも換えがたき苦痛であらねばならぬ。
少々の金を倹約して、大いなる精神的苦痛を忍んでいる人たちは随分多いが、実に本末顛倒といわねばならぬ。
精神が主で、物質はあくまでも客であるということが分からぬ連中が次第に多くなってきた。むろん物質の厚薄が人の精神方面に影響することも偉大であるが、しかし人間は、心次第で物質を駆使する権能を与えられているのである。かくして、はじめて真の人間としての生き甲斐を感ずるのである。
しかるに今や、上下をあげて、吾とわが手に不自由、不自然な社会を形づくっているのである。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太