「宗教2世問題について」

富士山

新宗教が抱える「信仰継承」の課題

新宗教の始まりは江戸時代後期で、1970年代以降には、新たに新新宗教と呼ばれる教団が多数現れました。新宗教団体を中心とした多くの教団は、開教から数十年以上が経過し、2世以降の信徒の割合が増えています。

現代社会では、日本だけでなく世界的にも宗教離れが進行しており、ピーク時と比較して新宗教への入信者は極端に減少しています。特に若い世代では、この傾向が顕著です。その結果、多くの新宗教団体の信者数は減少しています。
教団の維持と存続を確保するためには、信徒の子弟を教化し、信仰を継承させることに力を注がざるを得ない状況があります。
そのため、教団組織では後継者育成問題に取り組むことが教団運営の中心に据えられるケースも少なくありません。

教団は教えに基づいた模範的な信者像や家族像を作り上げ、それに従って教化活動や信徒育成を行っていきます。
このような取り組みに重点が置かれるため、特に熱心な信徒の家庭では、家庭内で強い同調圧力が生まれ、教団に都合の良い信者像が子どもたちに押し付けられてしまうケースが生じることがあります。

しかし、信仰を継承させる本来の目的は、教団組織の維持や運営とは別の側面にあります。

 

 

信仰継承の目的

人生には、仏教用語に由来する言葉で「四苦八苦」という苦しみがあります。
人間として避けることができない「生・老・病・死」の肉体的な苦しみと、生きていく上で生じる「愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五蘊盛苦」の精神的な苦しみです。

信仰の有無にかかわらず、この苦しみは人が生きる上で避けては通れません。
親が子どもに信仰を継承させる目的は、信仰によって、避けては通れない苦しみに打ち克つ力や知恵を与え、日常生活を豊かにし、世の中に役立つ人間になってもらうためです。
そのために必要な教えを説き、手助けをすることが信仰継承の目的です。

教団の維持・存続だけを目的として、子どもの人生や家庭を崩壊させるような信仰継承のあり方は本来の目的から大きく逸脱しています。

・「生苦」(しょうく)生まれる苦しみ
・「老苦」(ろうく)老いる苦しみ
・「病苦」(びょうく)病の苦しみ
・「死苦」(しく)死ぬ苦しみ
・「愛別離苦」(あいべつりく)愛するものとの別れによる苦しみ
・「怨憎会苦」(おんぞうえく)憎しみを感じる人と会わなければならない苦しみ
・「求不得苦」(ぐふとっく)求めるものが得られない苦しみ
・「五陰盛苦」(ごおんじょうく)人間の心身・五感から生まれる苦しみ

 

宗教は必要なのか

出口王仁三郎聖師は、宗教について「宗教なるものは、人間のこの地上に発生せしときにおいてすでに生まれているのである。人間には知情意の三霊が存する以上、その内分的活動は絶えず宗教心となって現るべきものである。神が人間に愛善の心、信真の心を与えたもうたのは、現実界のみのためでなく、神霊界に永遠無窮に生活せしめんがためのご経綸である。故に宗教は現代の政治や倫理や哲学の範囲内に納まるような、そんな浮薄軽佻なものでなく、人間の真生命の源泉であって、人間は宗教によって安息し、立命し、活動し得るものである。」と示しています。

宗教は人類の誕生とともに生まれ、人類と同じだけ歴史を重ねてきました。人には本来、宗教的欲求が備わっています。普段神仏の存在を意識していなかったとしても、例えば自分や身近な人間の生命の危機や困難に直面した時、私たちの心は無意識に神仏に向かいます。それは人が持つ真の欲求がそうさせるのであって、すべての人にこのような働きがあります。
宗教は、そうした人の心の欲求から自然に起こったものです。

物質偏重の世の中で宗教の必要性を説くことは難しいですが、物質だけで人の心が満たされないのも事実です。
宗教には人生の活力の源泉となり、他者とのつながりを豊かにし、利他の心を育み、自己を成長させる力、個人や家庭、ひいては社会全体を向上させ、穏やかにし、繁栄させる力があります。

宗教によって得られるものを考えたとき、人類にとって宗教は必要なものだといえるのではないでしょうか。

 

 

 

大本のお示し

「親の信仰を二世、三世と続く人たちに、心から受け継がせてゆくような信仰こそ、正しい信仰の姿であり、ご先祖のみ霊に酬いることにもなるかと存じられるのでございます。お互いに絶えず反省をおこたらず、いつも変わらぬ温い心で人に接し、明るく気持ちのよい家庭を築くことに心がけて、神さまのご用にたずさわらせていただきますならば、子々孫々にみ教えを受け継がせることができ、ご先祖のみ霊を安んじ申し上げますとともに、み教えの宣布もおのずからなされてゆくことと存ぜられるのでございます。」(「みろく大祭ご挨拶」昭和四十一年四月十日)『教主ご教示集―出口直日三代教主―』

 

「自らの心の中に平和を築いてこそ、家庭の平和も、日本の平和も世界の平和もあることに思いを致し、内から外へ、身近なところから遠くへ及ぼさなければと存じ、省みて恥多く、まず私ども愛善会の内側から、心を正し身を清めなければと思うのでございます。それにつけましても、ことばを大切にしたいと存じます。過大なことばやいつわりのことばは、人を傷つけるだけでなく自らを傷つけます。殊に世の中に影響を与えることの大きい言論の場では、飾りのない真実を伝えることばを使いたいものでございます。情報の時代といわれる今日であるだけに一度口から出ると、悪いことばも忽ち拡がって世の中を汚します。(「人類愛善会総裁ご挨拶」昭和五十八・七)『教主ご教示集―出口直日三代教主―』)

 

「地上天国もみろくの世も、遠いところを願うより、私は、身近に小さくても雛型を、各信者さんの家々に築かれるように願っています。そして、その波紋が大きく世界中に広がってゆくのを願うものです。私は、信仰すればするほど、家業に精出すことをすすめてきました。家の平和を破るような信仰を一番おそれます。」(『寸葉集』第二巻 出口直日著

 

家の中にこだわりがなく、賑やかに笑い合いながら、各自が責任を重んじて合うて仕事をしているほど、世に有難いものはない。
相互の霊囲気に暖められ、なぐさめられ、そして励まされ合いつつ暮らしてゆくことほど、人生、幸福なことはない。
いまの世は、家庭にも、会社にも集団にもこれが欠けている。だから、つまらないのである。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著

 

現代の宗教界の行き詰りの原因は
一、既成宗教によき案内者の欠乏せること

二、宇宙そのものが、神によって生成化育をとげているという大局を忘れて、部分的、人智的宗教に堕していること

三、小乗より大乗へすすむべきもの、小局より大局に向上すべきもの、体的、形式的より霊的、普遍自在的へ進むべきものたることを思わず、体験を主とせずに理論倒れの現状なること

四、平等愛と同時に差別愛たる真相を忘れて、愛に淫し小愛に堕して、かえって大いなる神慮を涜していることにあると思う。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著

 

人間は神を信じ、神と倶にありさえすれば、池辺の杜若や、山林の青葉が、自然につつまれているごとく、のどかにして安全なものである。しかし世の中は変化があるので人生は面白い。かの美しい海棠の花だけを避けて、吹きまくる暴風雨はない。いかなる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さえあれば、すなわち根本に信をおいて、惟神の定めにまかせてさえゆけば、そこに変わりのない彩色がある。人生はいかなる難事にあるも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も、総てが花をうつ風雨とおもえばよい。富貴も、栄達も、貧窮も、すべてがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である。なにほど焦慮っても、一日に人間の足では、百里は歩けぬものだ。学問や黄金の力でも、いかに偉大な政治家や大軍人の力でも、昨日を今日にすることはできぬ。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

東海教区 特派宣伝使 前田茂太