「苦しみを作り出す原因」

大本神殿

流れる水のようにありのままに

苦しみを生む原因の一つとして、執着心が挙げられます。

執着心やこだわりを手放し、流れる水のようにその時々の最善を尽くし、すべてを神さまに委ねる執着のない自由な心を持つことで、人間は安心と満足を得ることができます。

執着心は、過去や未来への執着、物質的な欲望に執着することから生じることがあります。これにより、物事が思い通りに進まなかったり、自分の期待通りにならなかったりすると、心に不安や不満が生まれ、苦しみが生じることがあります。

しかし、執着のない自由な心を持つことで、物事に固執することなく、その瞬間瞬間を受け入れる柔軟さと穏やかさが生まれます。過去や未来にとらわれず、現在に集中し、最善を尽くすことで、安心と平穏な心を手に入れることができます。

 

大本のみ教え

いかに善良なる神人といへども、その心中に空虚あり、執着あり、欲望あるときはすぐさま邪神の容器となる。実に恐るべきは心の持方なりける(『霊界物語』第四巻  出口王仁三郎著)

アゝ何処までも巧妙なる邪神の奸策よ。いかに善良なる神人といへども心中に一片の執着ある時は、かならず邪気妖神のために犯さるるものである。慎むべきは一切の物に執着の念を断つべきことである。(『霊界物語』第一巻  出口王仁三郎著)

なにほど結構な神文を唱へてくれても、お前の心に執着心といふ鬼が潜んでゐる以上は、その言霊が濁り切つてゐるから、解脱どころか苦しくて苦しくて、ますます迷ひが深くなるばかりだ。黄金の玉のことは、今日かぎりフツツリと思ひ切つて善心に立ち返つてくれ。(『霊界物語』第二九巻  出口王仁三郎著)

囚われない、執着しない、大きな心に淋しみなんかわいてくるものでない。人の悪口などこわがるようではだめだ。大きなものには大きな影がさす、出る杭は打たれる、じっとしてさえおれば人に言われることはないけれど、問題にせられるくらいの人手なければだめだ。霊性の一部がふさがっている人は、霊界物語を読まぬからだ。重要なる神様の御用をうけたまわっておる人は、ことさら物語を拝読しておかぬと霊性がふさがっておっては、本当の御用はできない。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

苦しむは無理をしているからである。何事によらず己が分に安んじておればよいのに、それ以上を望むから苦しむのだ。要するに、世間的功名の執着心からはなれて、いま自己に、もっとも適していると思うことに手を出したらよいのだ。楽にゆける道を、わざと吾と、わが頬べたへ大瘤をひっつけて苦しんでいる連中の多いことだ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

多くの人たちは、自己の所持物に執着するがために苦悶するのだ。無形の所持物はちょっとも荷にならぬが、有形のそれは荷になってかなわぬものだ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

「あいつが憎い」とか、「ぜひ、こうありたい」とか「アアやりきれん」とか、いろいろとこうした種類の執着と誤解とを、毎日毎時、製造していては、いつまで経っても、「安心な」とか「気楽な」とか「おもしろい」とかいうことは来るはずはない。ちょとしたことを、やれ苦しいの、やりきれぬのと言っていた日には、この世の中は、ただの一秒間だって面白い時も楽な時もあるものではない。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

現界的の禍福はまったく因果関係によるものであって、世には、自己の不幸つづきを嘆いて「神も仏もあるものか、世間はこんなに冷たいものなのか」などと神仏をうらみ、世間を呪う人々もすくなくないが、それは、一面、無理もないが、また、その人の考え方が浅いともいいうる。なんとなれば、たとえ、その人は至極の善人であっても、その家、その先祖のめぐりは、どうしても負わねばならぬし、とくに、その人自身の過去の罪というものも逃れるわけにはゆかぬからである。だから、かかる人たちはますます善心を発揮し、神仏を尊敬して、少しでも、めぐりを軽くするよう、心にこの上のめぐりを積まぬように努力せねばならぬ。小さい、現界的の目前のことばかりに執着せずに、大きい、生死を超越した心になって、何ごとも惟神にまかして、いかなることに対しても感謝をささげつつ、未来を楽しみに暮らさねばならぬ。つねに内に省みて、自分自身のいかに汚いものであるか、小さい弱いもろいものであるかをよく知って、謙虚な無邪気な心で、周囲を、つとめて、広くにぎやかに、あたたかく開拓することを忘れてはならぬ。無邪気ほど、神さまのお気に入るものはない。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

真に一切の執着を去りて、その時々の最善をさえなしていたら、神さまは、きっとよい方へみちびいて下さる。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

運命が悲劇をつくるのではない。無智と執着と自暴自棄とが作るのだ。春から夏へかわるように、運命は人生を強いるものではあるが、自然界の機械的の法則のように、霊界は窮屈なものではないから、その人の心の持ち方次第で、最小限度に強いる場合もあり、また最大限度に強いる場合もある。悪しき宿命を最小限度に、よき宿命を最大限度に受け入るる賢明さを、われわれは持ちたいものだ。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

自利と我執の人ほど弱くてもろいものである。それは、つねに身体に引っかかりをつけているからである。だから、ちょっと引かれてもつまずき、ちょと押されても倒れるのである。執着の綱で少しも身体の自由がきかないからである。現界的執着がなくなって、はじめて神界のご用ができるのである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

理想を急激に実現せんとしてはいけない。とにかく、少しずつでよいから、着手し改善していって、漸次に、実地にあたってその呼吸をさとり、一歩一歩、向上をはからねばならぬ。
つぎにまた、何事でも一事に執着し固着してはいけない。一切は流動性において活きているのであるから、つぎつぎに目先を変え、内容を変えてゆかねばならぬ。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

だから、どこまでも絶対の神さまにおすがりして、自我を出さないよう、一切を惟神におまかせして悔いず案ぜず、つねに、この神さまと共にあることを強く感じて、時々刻々を、事ごとに感謝にみちて暮してゆくのでなくては、いかに人なみ優れた智者学者でも、真の安心立命は断じて得られるはずのものではありません。現代の人たちは、あまりに小さい自我に執着しすぎ、人間的理智にはしり過ぎている結果、真の信仰の絶対境のいかに安全でのびやかで、愉悦にみたされているかということを知らず、死の瞬間まで、常にトゲトゲしい、やるせない懊悩(おうのう)の時を送りつづけているのであります。(『信仰雑話』 出口日出麿著)

生活信条七訓(出口日出麿)

一、物事を決して悔やまぬこと
一、言いわけを決してなさらぬこと
一、絶えず真剣な努力をなさること
一、頼まれないでも親切のありったけを尽くされること
一、御自身の功名手柄を決して自家広告なさらぬこと
一、偉そうな振りを決してなさらぬこと
一、物に執着のないこと

 

十訓(出口日出麿)

一、 強く正しくニコヤカに
二、上見て進め下見て暮らせ
三、真剣の前に不能なし
四、 論で負けても行いで勝て
五、長所と交はれば悪友なし
六、話し上手より聞き上手
七、己に克って人には譲れ
八、急ぐな休むな怠るな
九、向上の一路に終点なし
十、仲良く働け笑って暮らせ

 

 

 

「我」を捨てて他人の言葉を素直に聞く

「我」という言葉を『広辞苑』で調べると、「思うところに凝り固まって、人の言葉にしたがわないこと。ひとりよがり」と解説されています。我が強い人は、どんな場合でも自分の意見を主張し、常に自分が正しいと思い、他人の意見を聞きません。しかし、それでは人格的な成長は望めません。「小我を捨てて、大我に生きる」というお釈迦様の言葉があります。これは、自己中心的な小さな我を捨てて、人のため、社会のために働く意味だそうです。

自分の我やこだわりを捨てて、他人の言葉を素直に聞くことで、自分では気がつかない心の盲点を知ることができます。この姿勢が、自己成長に繋がります。

大本のみ教えでは、「我を出さずに素直な心を持つよう」にと繰り返し説かれています。
このみ教えは、自分の立場や意見に捉われずに、他人と協力し、共感し、学ぶことで、内なる平和と成長を実現する手助けとなるものです。

自己中心的な側面を捨てて、大我に生きることが、個人と社会の両面で持続的な調和をもたらす一歩となります。

 

大本のみ教え

皆霊魂に因縁ありての御用を神が致さすのであるから、素直に聞いて下さらんと、我を出したら縮尻(しくじり)が出来るぞよ。神は何事も前つ前つに気を注けるぞよ。(『おほもとしんゆ』「明治三十六年旧六月四日」第一巻)

神の御用を聞くのは、我が在りては行かず、腹の奥に確固不抜(しっかり)いたした所の在るものの、上面(うわつら)の優なしきもので無いと行かず、我を出さぬものでないと、此の御用は勤まらんぞよ。(『おほもとしんゆ』「明治三十二年旧正月十八日」第三巻)

改心なされよ。我を出したならば、直ぐに気付け致すぞよ。誰に由らず、慢心と我を出さぬように致して下されよ。慢心いたすと怪我が出来るから、宜く成りても慢心致すでないぞよ。(『おほもとしんゆ』「明治三十二年旧六月三日」第三巻)

我を出さず、すなおな心を持って、このすなおというのがよいのです。何事もハイハイと言って、この自分の我、つまり悪い方の我は奥に鎮めておいて、よい方の我はなんぼ出してもよいのです。お互に注意をしあうて御用しなければなりません。神様の御胸を取り違いしないよう、これからは誠、実地でもってお道を開くのであるから……また本部におる人は一生懸命神様の御用をするし、地方におる人は自分の職業を精出してやって、あれでこそ大本のお取り次であり、信者であるといわれるようにしなければなりません。
あの人は大本信者であるから大丈夫だと言われるようになれば、お道も勝手に拡まってゆきます。道の一方にかたよらず、お筆先には餓鬼、畜生、虫族までも助けるぞよとあるのですから、この大本にはこれから色んな人が来るのですから、どんな人にも親切に暖みを持つようにしなければいけません。(中略)この暖みが一番に人を感動さすのですから、何うぞ取違いしないように、これが今晩の私が皆様への願いであります。(昭和五、四、一七綾部にて誌す)「昭和青年」昭和六年一月号(『二代教主御教示集』 出口すみ子)

 

省みる

起きた出来事に対し、自らの行いや言動を「省みる」ことは、自分自身を成長させるために大いに役立ちます。また、自分自身の心を意識的に見つめ直すことは、考えや行動を変えるきっかけとなります。

「省みる」ことによって、自分の強みや課題、改善すべき点を把握することができます。過去の行動や言動に対して反省することで、同じ過ちを繰り返さないように気づきを得ることができます。

さらに、「省みる」ことによって、自分自身の感情や考え方に気付くことがあります。これによって、感情や思考のパターンを見直し、より健全で建設的なアプローチを見つけることができます。過去の出来事を振り返ることで、自分の行動に対する動機や影響を理解し、より良い判断を行うための洞察を得ることもできます。

「省みる」ことは個人の成長と自己理解を促進する重要な過程であり、自分自身をより良くするための貴重な手段となります。自己の内面に光を当て、学びと向上の道を進むことで、より意義深い人生を築いていくことができるでしょう。

 

大本のみ教え

人を悪く思うこと、ねたむことが一番わるい。千人がまず九百九十九人までは、自分のことを悪いとは思わないで、他を責めたがるものだ。これがはなはだ悪い。逆境にあるものが順境にある者を嫉妬し呪詛するのたぐいは、まったく人間本来の悪、すなわち利己主義から出発しているのである。(『信仰覚書』第一巻  出口日出麿著)

進は新である。悪いと気づいたら、瞬時の後にもこれを棄てねばウソである。よりよいと信じたなら、瞬時の後にも他へ移らねばウソである。今までの世の中には、悪いと知りつつこれを棄つるあたわず、よりよいと信じつつ他へ転ずるあたわざる人たちが多かった。(『信仰覚書』第四巻  出口日出麿著)

あくまで謙遜に、あくまで従順に、事ごとに試み、事ごとに省みるべし。悪いと悟ったならば、勇敢にこれを改むべし。道をさがすは省なり、道を得るは悟なり、道を往くは改なり。本能の命ずるままに道を往くは獣なり。克己また克己、努力また努力、日を新たにして、また日々に新たなる道を往くは人なり。(『信仰覚書』第五巻  出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太