「神集祭」

本宮山と長生殿

「神集祭」の由来

「神集祭」は旧暦7月6日の晩から旧暦7月12日まで、綾部の本宮坪の内(梅松苑がある地域)において、八百万の神々が集まり、一年間の世界の経綸を決める最も重要な神事とされています。

旧暦7月12日は、出口王仁三郎聖師の誕生日であり、その一週間前(旧7月6日)から「神集祭」が行われます。この祭典は現代では「神集祭」と呼ばれていますが、かつては「七夕祭」として知られていました。

また、旧暦10月は一般的に「神無月」と呼ばれますが、これは、この月になると八百万の神々が出雲の国に集まり、一年間の神事を議るという古来の伝承に由来します。
この由来から、出雲地方では旧暦10月を「神無月」ではなく「神有月・神在月」と呼んでいます。
出雲大社では、旧暦10月11日から17日まで7日間にわたって「神在祭」が行われます。この祭事期間中は、神々の会議や宿泊に粗相がないように、地域の人々は忌み慎み、畏敬の念と感謝の心を持つことが大切とされます。
これらのお祭りや伝承は地域の人々にとって、長い歴史を持つ大切な行事として、今なお受け継がれています。

大本では、明治25年から神々さまが綾部の本宮坪の内(梅松苑がある地域)に集まるようになったと、つぎのように示されています。
「綾部町本宮神宮坪の内は、神に昔から因縁のある結構な神の元の霊地であるから、明治二十五年から、神界の経綸で、世界一切の大本と相定まりたから、八百万の神を集めて、世の立替えの本をはじめる所であるから、人民では見当のとれんところであるぞよ。神宮坪の内に御三体の御宮を建て、天の大神さまをお祭り申し上げてあるのは、毎年旧七月七日天地の大神が御相談あそばす元の場所、陸(あげ)の竜宮と相定まりたからのことであるぞよ」(「神霊界」大正七年六月一日号)

本格的に「七夕祭」が行われるようになったのは、大正2年5月17日に綾部の本宮坪の内に「西石の宮」(現在の綾部梅松苑 「元屋敷」あたり)が建設されてからです。
その後「東石の宮」(現在の綾部梅松苑 「木の花庵」あたり)が大正6年5月5日に完成し、「西石の宮」と双方で「七夕祭」を執行しました。
「西石の宮」「東石の宮」ともに天のご三体の大神さまが奉斎されていました。

西と東の「石の宮」については、「世が元へ還りて、昔の天の規則が、地の元の世の高天原の御屋敷に、西と東に天の御宮を建てて、三体の大神様が、末代降り昇りを成さるというような、結構な事に成る尊い霊地であるから、経営準備に時日が要りたので在るぞよ。天地の御宮の御用いたした誠の人民は、末代帳面に付けて、其の身魂を結構に致して、御礼を申すぞよ。」(『おほもとしんゆ』第二巻)と示されています。

昭和10年12月8日、第二次大本事件が勃発し、大本のすべての建物は取り壊されました。その後、「七夕祭」は昭和21年の大本再発足後から再び執行されるようになり、昭和25年からは「神集祭」と名を改めて、綾部梅松苑 本宮山月山不二の至聖所で執行されてきました。

平成4年の開教百年節分大祭の日より本宮山が禁足の聖所となり、同年の5月4日からご神体山として長生殿から拝することになりました。これに伴い、「神集祭」も長生殿で執行されることになりました。

「神集祭」の期間中は、神々の話し合いの邪魔にならないよう、人々は公のこと以外、私事にわたる願い事などをしてはならないとされています。

 

長生殿神集祭

大本のお示し

旧七月六日の晩から同十二日にかけて挙行される七夕祭は、神々様が地の高天原に神集いに集われて一カ年中の経綸について神議せらるる大切なる神事であることは嘗ても話したが、十二日の晩になると王仁がその決定せられたる神事をうけたまわって、そのプログラムどおり、一年間の御経綸を遂行する役に使わるるのである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)

 

旧七月六日の晩より七月十二日にわたり、綾部の本宮坪の内にて行なわるる祭典はもっとも大切なる神事にて、この一週間は、御三体の大神様を初めまつり八百万の神々様がご集会なされて、一年中における世界の経綸をお定めになるのである。すなわち地上の規則を地の高天原でお定めになるのであるから、謹み慎んで人民の願いごとなど、決してしてはならないのである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)

 

国魂の神神高天に神つどひ神議ります五六七の大御代
天津神国津神たち相集ひ綾の高天に神議ります
ひさかたの高天原に天津神もろもろの神世を議りたまふ
遠つ神雲の八百路をかきわけて綾の高天に天降りましけり
八百万千万の神ことごとく綾の高天に集ふ御代なり
神治らす松の安御代来さむと元つ祖神事議りたまへり
(『東の光』 出口王仁三郎著)

 

この世の根本の事から明らかに解る所は、綾部の出口が本で、大島が入り口、竜宮館の高天原で無いと、外には一所もないぞよ。出口直の神宮本宮の御屋敷は、世の本の誠の神の宮屋敷であるぞよ。この御屋敷は、尊い元の神の天地へ昇降いたす地所で、昔から定まりて在るなれど、何と申しても古い事で在るから、人民には分からんのは、無理なき事で在るぞよ。(『おほもとしんゆ』第四巻)

 

教祖の神諭に旧暦の七月七日は、毎年天上にて神々の御集会があったが、世がかわりて、地の高天原で明治二十五年から、神々の御集会遊ばす様に成りたぞよと出て居ります。其の霊地は綾部町本宮村の神宮坪の内であると誌されてあるが、其の坪の内と云ふのは、現今の大本の西宮が建設されてある場所である。古来坪の内と称され、平素空地であって作物もせず建物もせず、人々の手の出さぬ所であったが、教祖様の主人政五郎氏が、始めてこれを幾何かに買取、我屋しきと一つにして、住宅を建てられたのである。
其の霊地に於て教祖の肉体に艮金神国常立尊が神憑あそばしたのである。其の後毎年七月七日は、特別に清浄にして神々の御来集を待つ事に成って居るのである。(随筆『神霊界』大正8年8月15日号)

 

今日は旧暦の七月七日であります。七月七日は今迄教祖様のお筆先の中にもあります通り、天の大神様方が天の神界に於て御集会遊ばす日であります。今日迄は今の西石の宮の龍宮館新宮本宮坪の内で御集会遊ばし、これより御昇降なされたのでありますが、いよいよ本宮山の御神殿が落成致しましたので、本宮山で御集会遊ばす事になったのであります。然し御昇降は矢張り今後も西石の宮の坪の内に於て遊ばさるるのであります。本年からいよいよ本宮山に御集会遊ばしますに就いては、是から神界に於ては凡ての事が新たに決定するのであります。(「神の国」誌 大正十年九月号四十八頁)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太