「夫婦同姓と男女同権の調和」

新緑このはな庵

夫婦別姓が議論される現代で

近年、夫婦別姓制度の導入がたびたび話題に上っています。多様性や個人の自由を尊重する現代社会において、姓のあり方を問い直す動きは、ごく自然な流れと言えるでしょう。

たとえば、FNNが2025年1月に実施した世論調査によれば、「選択的夫婦別姓」に賛成する人は37.5%にとどまる一方で、「夫婦同姓制度を維持した上で、旧姓の通称使用を拡大すべき」とする意見は45.2%と、より多くの支持を集めています。これは、「姓に関する選択肢の拡大」を求める声が一定数ある一方で、「夫婦は同じ姓を名乗る」という慣習を大切にしつつ、現実的な利便性を追求したいと考える人々が少なくないことを示しています。

こうしたデータをふまえると、現代の日本社会において「選択的夫婦別姓制度」の導入が不可欠であるとする、明確かつ合理的な理由は、今のところ広く共有されているとは言いがたいのが実情です。

もちろん、「あくまで選択的なのだから、別姓を望む人がそうすればよい」とする声もあります。少数の意見や個人の自由を尊重しようとする姿勢そのものは、現代的な価値観の一つとして理解できるものでしょう。

しかしながら、そのような制度導入が、長い時間をかけて築かれてきた「姓」や「婚姻」の意味、さらにはそれに付随する文化的・社会的制度の基盤を揺るがす可能性があるという懸念もまた、軽視すべきではありません。

だからこそ、夫婦別姓制度の是非を単純な賛否二元論に還元するのではなく、国民が抱く多様な価値観や現実的なニーズを、より丁寧に掬い上げていく必要があるのではないでしょうか。

また、「夫婦が同じ姓を名乗る」という慣習には、単なる形式を超えた精神的な意義や、長い歴史の中で育まれてきた文化的背景が込められています。にもかかわらず、現在の議論では、そうした側面が十分に論じられているとは言いがたいのが実情です。

だからこそ今、制度改正の議論にあたっては、「夫婦同姓」が持つ意味についても、冷静かつ多角的に見つめ直す姿勢が求められているのではないでしょうか。

夫婦別姓と情報公開の接点

夫婦別姓の導入は、「姓の選択の自由」という個人の問題にとどまらず、日本の戸籍制度そのもの——すなわち「家族単位」から「個人単位」への転換——を根本から問い直すものであり、極めて大きな制度改革と不可分の課題です。

一方で、官報における帰化者の氏名掲載期間が近年限定されるようになった背景には、プライバシー保護と情報公開のバランスという現代的課題が横たわっています。このような制度改正の流れと夫婦別姓の議論とは、一見無関係に見えながらも、実は「個人情報の扱い」と「社会的透明性」という共通の軸で交差しています。

仮に、選択的夫婦別姓制度が導入され、戸籍における氏名のあり方が一層多様化すれば、帰化者の出自に関する情報は、官報上のみならず戸籍上においても、過去と比べて把握が難しくなる可能性が出てきます。

とりわけ、公的立場にある帰化者については、その出自や経歴の透明性が信頼性の一要素として問われる場面もある以上、こうした制度変更が社会的な理解や信頼に与える影響についても、慎重に検討する必要があります。

もちろん、個人の権利を尊重することは、現代社会において当然の前提です。しかし同時に、社会全体の公共性や情報の透明性とのバランスをどのように保つのかという視点を欠いてはなりません。

制度設計にあたっては、個人の自由と社会的な信頼性という、時に緊張関係にある二つの価値を丁寧にすり合わせ、相互に矛盾しない仕組みを築くための、慎重かつ責任ある議論が求められているのではないでしょうか。

「男女同権」とは?

出口王仁三郎聖師は、「男女同権は神の定めたもうた規則である」と明言しています。これは、女性が男性より劣るとするような旧来の価値観をきっぱりと否定するものであり、すべての人間が神のもとに平等であるという霊的真理に基づいています。

しかし、この「同権」は「同一」を意味するものではありません。男女それぞれの特性や役割を認め合い、互いに補完し合いながら調和を図ることにこそ、真の意味があると説いています。

「針と糸の道理」に込められた夫婦のかたち

出口王仁三郎聖師は、夫婦を「針と糸の道理」という象徴的な表現で示しています。そこでは、「夫婦となった男女は針と糸の道理、すべてに夫を先にすべき」と述べられています。

この表現だけを見れば、夫が優先されるように受け取られるかもしれませんが、ここで重視されているのは「優劣」ではなく、「秩序」と「協力」です。

針が布を貫き、その後に糸が続くように、夫婦にはそれぞれの役割があり、互いを活かし合うことで家庭という一つの織物を紡いでいく――その象徴こそが「針と糸の道理」です。

夫婦同姓がもたらす「一体感」と「絆」

この「針と糸の道理」を現代的にとらえ直すとき、夫婦が同じ姓を名乗ることの意味が見えてきます。

夫婦同姓は、ただの制度的な決まりではなく、「私たちは一つの家庭であり、一つの共同体である」という意志の表れです。姓を共にすることで、夫婦の一体感が形となり、家族としての連帯意識や社会的認知がより確かなものとなります。

それは、子どもたちにとっても自分のルーツを認識し、家族に誇りと安心感を持つ上で重要な要素です。

理想の夫婦像とは

出口王仁三郎聖師は、男女が平等でありながらも、互いの違いを尊重し、協力し合うことが神の摂理にかなった在り方であると説いています。

夫婦同姓というあり方も、こうした考え方と深く響き合うものとして捉えることができます。

それは単なる昔ながらの慣習ではなく、夫婦が「一体」となって新たな家庭を築いていくための精神的な支えであり、その根底には霊的な意味合いも見出せるのではないでしょうか。

真の男女同権と豊かな社会のために

夫婦別姓は、一見すると個人の自由や男女平等を拡張するように思えるかもしれません。しかし、出口王仁三郎聖師の教えに照らしてみると、夫婦同姓には家庭の調和と安定を支え、社会全体の健全な発展に寄与する意義が見えてきます。

真の男女同権とは、それぞれの違いを認め合い、役割を尊重し合いながら、一つの目標に向かって歩んでいくことではないでしょうか。

私たちが日々の生活の中で「姓」というものに込める意味――それを見つめ直すことは、家族のあり方、そして社会のあり方そのものを考えることにつながっていきます。

※本記事では宗教的な観点をもとに一つの考え方を紹介しています。多様な価値観や信条を尊重しつつ、ご理解の一助となれば幸いです。

大本のお示し

三千世界の事を、さッぱり変えて了うのであるから、一番に夫婦の事から変えて了うぞよ。此の世に夫婦というものは、因縁の深いものであるぞよ。御魂の因縁性来を調査(あらた)めて、この霊魂と彼の霊魂が夫婦という事に、縁を結びて、又児に成る霊魂を授けて、児の身魂を親に世話させるのも、因縁の深い事であるぞよ。
夫婦の道は、何につけても世の基本であるから、一番大切であるぞよ。世の紊(みだ)れるのも、夫婦の道から大方は出来て居るぞよ。(『おほもとしんゆ』第二巻)

女が男より先にお湯に入ったという小さな出来事のため、やかましい問題をひき起こすことがたびたびあるということを聞くが、宣伝使たち、霊界物語をどう読んでおるのか。男女同権は神の定めたもうた規則である。女が先にお湯に入っては悪いという理由がどこにあるか。そういうことをいう人たちは、男が女よりも特別すぐれて生まれているというような迷信に陥っておるからである。こういう旧いこびりついた頭を持っていて、いつの日か神書霊界物語にもられたる天地の真理を実現することができようか。事柄はいと小さいけれど、神書に示さるる道理を無視し、旧来の道徳を標準として人を裁くということは間違いのはなはだしいものである。こういう見やすい道理さえわからぬ人が宣伝使の中にも多いのは困ったものである。むろん夫婦となった男女は針と糸との道理、すべてに夫を先にすべきは申すまでもない。また女が月経中入浴をつつしむべきは当然である。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

相愛する同士が結婚して造った家庭は、家庭としてはあまり面白くないものである。なぜなれば、霊界物語に示されてあるごとく、夫婦は家庭の重要品であって、家庭本位でやってゆかねばならぬ。しかるに相愛する同士は、ややもすれば家庭を忘れて夫婦本位となる傾きがある。また相愛する同士は意志想念に共通点が多いので、何事にもすぐ共鳴しやすい。したがって夫が主張することには一も二もなく妻が賛成してしまう。それがまた家庭から見てはなはだためにならぬことがある。やはり夫婦は家庭本位でなければならぬから、時には夫のいうことでも家庭のためにならぬことには反対せねばならぬ。夫婦の性格は反対の方がかえって家庭からいうと、よい夫婦である。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

『妾は貴下のもとに娶らるるまで、高天原の神殿に奉仕し、日夜舞曲を奏し、神歌をうたひ、大神の神慮を慰め奉る聖職に奉仕せしが、その技はつひに神に入り、妙に達して、天上における第一位の芸能者としてもてはやされしが、このたび地の高天原の改革につき、貴下は真心彦とともに赴任さるるに際し、大神の命によりて貴下の妻と定められたり。されど、貴下は大神の御心のあるところを毫も知りたまはず、ただ単に自ら選びて妾を妻に娶りしごとく思召したまへども、夫婦の縁は決して独自の意志のごとくになるべきものに非ず。いづれも大神の御許しありての上の神議りのことなれば、夫婦の道は決して軽忽に付すべきものにあらず。いづれも皆夫婦たるべき霊魂の因縁ありて、神界より授けらるるものなり』(中略)
『妾は貴下の妻となりし上は、妻たるの務めを全うせば足る。いたづらに芸能に驕り慢心に長じ、つひには夫を眼下に見下すごときことありては、天地の律法を破る大罪なれば、夢にも芸能を鼻にかけ不貞の妻と笑はるるなかれとの、父母の固き教訓なれば、今日まで何事もつつしみて、一度も口外せざりし次第なれども、今日夫の辛労を傍観するに忍びず、この時こそは妾が得意の芸能を輝かし、夫を補佐し奉らむと決意したる次第なり。諺にも芸は身を助くるとかや。妾の身はいづれになるも問ふところにあらざれども、現在の大切なる夫の神業を助け、なほ殊恩ある主の御神慮を慰め奉ることを得ば、妾が鍛錬したる芸能の功も、はじめて光を発するものなれば、女性の差出口、夫にたいして僣越至極の所為とは存じながら、夫を思ふ一念にかられて、はづかしながら妾の隠し芸を知れることをふと申し上げたるなり』(『霊界物語』第三巻 出口王仁三郎著)

「(前略)駒山彦『コラコラ、珍山彦、一方が承知したつて、一方がどういふか判りはしない。鮑の片想ひかも知れないのに、よくあわてる奴だな』
珍山彦『なに大丈夫だよ。猫に鰹節だ、狐に鼠の油揚だ、二つ返事で食ひつき遊ばすことは、請合ひの西瓜だ、中まで真赤だ。コレコレ五月姫さま、貴方も今までは押しも押されもせぬ一人前の女だ。男も女も同じ権利だつた、いはば男女同権。しかし今日から結婚したが最後、夫に随はねばならぬ。夫唱婦従の天則を守り、主人によう仕へ、家の中を治めてゆくのが貴女の役だよ。男女同権でも、夫婦同権でないから、それを忘れぬやうに賢妻良母の鑑を出して、三五教の光を天下に現はすのだ。広い世の中に、夫となり妻となるのも深い深い因縁だ、神様の御引合せだから、決して気儘を出してはいけませぬぞ。私が珍山峠で御話ししたやうに、どうぞこの花婿を大切にして、蓮の台に末永う、かならず祝姫の二の舞を踏まぬやうにして下さい。頼みます』
五月姫は涙をボロボロと零しながら、
『ハイ、何から何まで、貴方の御親切は孫子の時代は愚か、五六七の世まで決して忘れはいたしませぬ。貴方の御教訓は必ず堅く守ります。御安心して下さいませ』(後略)(『霊界物語』第八巻 出口王仁三郎著)

物はなんでも、自分が非常に世話をしたものは大事にし、かわいがる。自分の気がはいらないものは粗末にする。これは誰でもーー物との関係はそうであります。これはいいな、あるいはここを直したいと、いろいろ自分が手をかけたものは大事にする。目に見えぬものでも、やはり同じことであります。
夫婦愛というようなものでも、お互いが苦心しお互いが務めあい、尊重しあい、そして二人がつくりあい、みがきあった愛というものは、これは非常に堅固なものであり、すきのないものであります。それだけの労作をついやしたものでなければ、真実のものではりませぬ。ところが、それなしに簡単な性的な結合くらいに考えていると大間違いである。かならずどこかに、霊的な空虚なところができてくる。はじめ仲がよかった夫婦でも、五年たち十年たつというと、一種の危機が来やすい。はじめは、なんとかかんとか、ごまかしておるのでありますが、だんだん年がたつにしたがって、どうしてもだまされぬ。愛というもの、情というものの真性を自覚し、これに隙があることに気づきだすと、お互いにさびしく冷たくなってくるのであります。はじめから、両方から培いあってゆこう、育てあってゆこうという気持ちを強くもっておらぬと、結婚しても万事うまくゆくものではないのです。それには相当な苦心と相当な年月をかけねばならぬ。結婚する場合に、自分にすぎた者をもらっても困る、またこの反対でも同じく困る。理想的でなくとも、ほぼ虫が好くとかーー顔ではなしにーーどことなしに魂が触れ合う、というところに根拠をおかねばならぬ。でなければだめである。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太