一汁一菜に思う豊かさという贅沢をもたらすものとは

梅松苑雪景色

何と豊かな暮らしなのだろう。
雪を掘り芋をとりだす。
丁寧に洗った芋を皮ごと焼いて味噌をつける。

こんもりと盛られた白飯。どんぶりに山盛りになった沢庵をひたすらに食べる主人公。
「うらやましい」
気がつくと私は嫉妬にも似た気持ちで画面を見つめていた。

 

映画「土を喰らう十二ヵ月」を観る

静謐(せいひつ)。そんな言葉が浮かぶ。
あらゆる音にあふれた都会。生き物と暮らしの音が聞こえる山の一軒家との対比で始まるこの映画は、観終わってしばらく声も出なかった。

ご飯を主として、畑の野菜、山に生えているものを採取する。
そのものの味を生かし、無駄なく食べる。
季節ごとに保存食をつくる。
淡々と描かれる、生きるという日常。その日々は、厳しくも美しい。
多くの加工品に囲まれた現在の私たちの食事が、何とも頼りない、さみしいものに感じてしまう。
山盛りの沢庵(たくあん)とご飯だけの食事に憧れを持って観ている自分に驚かされた。
日々の食事はこれで十分なのだ。
丁寧に作られ、丁寧に供される食事ならば、何を食べるか、どう食べるかといった足し算の考え方など、あまり重要ではないのかもしれないと感じた。

映画では「死」も描かれる。

土の恵みに生かされた人間は、やがて土に帰るのだと改めて思わされる。

時を同じくして、私は食に関する本と出会った。

 

一汁一菜でよいという提案」(土井善晴著 新潮文庫)

著者の土井善晴先生は、料理研究家であり、料理の道に精進されてきた専門家。先に挙げた「土を喰らう十二ヵ月」では、料理を担当されたとのこと。

その専門家が一汁一菜でよいとはいったい、どんな理由があるのだろうと、かねてから興味があった。

“人間の作為的な知恵や力まかせでは実現できなかったのが日本の食文化です。土産土法、その土地の食材をその土地に伝わる方法で調理する。風土に育まれた食文化を信じることだと思います。”「一汁一菜でよいという提案」より引用

その著書には、私が引きつけられた映画、「土を喰らう十二ヵ月」の主人公に通じるものがあった。
何を食べるかという選択は映画の主人公にはないと感じたからだ。
つまり、その土地で育てられる作物、その土地に生えている旬の植物を採り、そこにある調味料で食べるというシンプルな選択しかない。
そしてそれが、食の原点なのかもしれない。

 

心が満たされるという満腹感

折しも、一人暮らしの息子が正月に帰省した。
仕事が忙しいと、コンビニやお惣菜で済ますこともあるという。
年末におせちを作るのが楽しみな私は、昔ながらのおせちを並べた。
煮しめや黒豆、田作りといった地味なおせちなので、「お代わりあるよ」と声をかけると
「心が満たされたから、十分です」という返事がきた。

そういえば先日、夫にも具沢山の味噌汁と糠(ぬか)で漬けた沢庵、玉子焼きだけの食事をだした。野菜は夫が菜園で作ったもの、味噌は自家製。沢庵は糠と塩で漬けただけのシンプルなものなのだが、「これだけでも満足感があるんだな」と言っていた。
満腹感、満足感とは、私たちがふだん感じている贅沢なものではないところからくるのだということを感じた一ヵ月だった。

料理ももちろんだが、手作りの漬物には祈りがある、と思うのは私だけだろうか?

私に梅干しの漬け方を教えてくれた先輩は、毎年、祈るように梅を漬けていた。
科学的なエビデンスはよく知らないが、「梅がかびるのは不吉」という経験をされていて、身も心も清めに清めて漬けるよう指導してくださった。
そのためか、今でも梅を買った日から梅酢があがるまでの数週間、毎日甕(かめ)の前で祈らずにはいられない。
しかし、梅以外の漬物に関しても、材料の出来は毎年違うし漬けあがるまでは味見はできないので、毎年作りながら「おいしく漬かりますように」と祈っている自分がいる。

土井先生は、日本料理について次のように書かれている。

“日本料理は、人間の技術の進歩から生まれたものではありません。お天道様が作った食材はすべてが神なのですから、おろそかに扱うことはありません。そんなことをすればバチがあたります。神様がそこにいるように、手を洗って、きれいな手で触れ、一つ一つ料理をしたのです。食文化とは、気候風土とともに大自然を畏怖し、神様を感じながら生まれたものなのです。”(一汁一菜でよいという提案より引用)

 

出口すみ子 大本二代教主の御示し
「お土を拝むような心になったら、なんぼでもご神徳がいただかれます。大地は国祖大神様のおからだであるということに気がつき、もったいないという心になったら、なんぼでもお米でも、野菜でも穫らさしていただけますよ。」(「愛善苑」昭和22年11月1日号)

 

一汁一菜の先にあるもの

一汁一菜と聞くと、とても粗食でわびしいだけのもの、というイメージがあったのだが、それは私の勘違いだったというのは、うれしい発見だった。

そして、身近に土がある、農ができる環境があるということが、どれほどの豊かさを人間に与えるのかということも感じられた。
しかも、一汁一菜は、日本人としての生き方そのものを教えてくれるという。

豊かになろうと足し算をしていく必要はなく、もともと豊かな物をそのままいただくという一汁一菜は、食、環境までも変えていけるものの一つかもしれない。
土井先生の「一汁一菜でよいという提案」を読んでその思いを強くした。

この身近な豊かさを大事にできますように。
そして今年が実りの豊かな年になりますように。

「人はみな土より生まれ土に生き土の恩受け土にかくるる」(出口すみ子 大本二代教主)

 

最後までお読みいただき、ありがとうございました。