「霊衣」

人体からオーラが発生しているイラスト

霊衣とは

霊衣については『霊界物語』に詳述されているように、その光沢、密度、形状、および大きさは人それぞれ異なります。病気によっても変化し、特に死亡前には頭上で尖った三角形となります。また、霊肉が洗練され向上することで、霊衣はますます美しく大きくなります。したがって、いわゆる人物(人格)の大小と霊衣には大きな関係があります。

現界で生きる人々の霊衣は、肉体と同じ形をした霊衣を纏っています。一方で、死者の霊衣には一目で区別がつく特徴があります。生者の霊衣は全身を円形に覆い、死者の霊衣は頭部が山形に尖った三角形の形をしています。また、死者の霊衣は腰から上のみに纏われており、腰以下には霊衣が存在しません。「幽霊には足がない」という俗説も、これに由来すると言われています。

徳の高い人の霊衣は非常に厚く、大きく、光沢が強いため、人々に圧倒的な印象を与えます。霊衣が厚い人ほど人に慕われやすいとされ、それは厚い霊衣が他人を包み込む力を持つからです。一方で、霊衣が薄い人は、身体が接触しない限り互いに霊衣の中に入ることができず、関係が冷え冷えとして安定しないと言われています。

徳の高い人は、どんなに悲惨な状況に置かれても、その徳を慕い、世間の非難をものともせず、どこまでも従う人が多く存在します。しかし、徳の低い人の場合、そのような状況では最後まで付き添うのは妻くらいしかいないと言われています。

このように、霊衣の厚さや形状は、その人の徳や人間関係に大きな影響を与えます。霊衣が厚く輝いている人は、周囲の人々から信頼と尊敬を集めやすく、困難な状況でも支えとなる人々が多く集まります。逆に、霊衣が薄くなり輝きを失っている人は、健康を害し、人間関係が脆弱になり、困難な時に支えとなる人が少なくなります。

出口王仁三郎聖師の教えによれば、通常の人の霊衣の厚さは約1.5センチメートル程度とされています。一方で、優れた大本の宣伝使(大本の教えを伝えたり、み手代お取り次ぎを行う)の霊衣は約90センチメートルもの厚さに広がると言われています。

大本のお示し

すべて人間各自の生命に属するところの霊的円相なるものがあつて、この円相は、一切の天人や一切の精霊より発し来たり、人間各自の身体を囲繞してゐるものである。 各人の情動的生 涯、従つて思索的 生涯の中より溢れ出づるものである。 情動的 生涯とは愛的 生涯のことであり、思索的生 涯とは信仰的生 涯のことである。すべて天人なるものは愛によつてその生命を保つがゆゑに、愛そのものは天人の全体であり、かつ天人は善徳の全部であるといつていいのである。
愛の善と信の真との権化たるべき初稚姫は、その霊的円相はますます円満具足して、智慧証 覚の目より見る時は、その全身の周囲より五色の霊 光が 常住不断に放射しつつあるのである。これに反して、高姫はすべて虚偽と世間愛的悪にをるをもつて、霊的円相すなはち霊衣はほとんど絶滅し、灰色の雲のごとき三角形の霊衣が、わづかにその肉身を囲繞してゐるに過ぎない。これを神界にては霊的死者と名付けてゐる。霊的円相の具足せる神人には、いかなる兇 霊も罪悪も近寄ることは出来ない。
もし強ひて接近せむとすれば、その光 に打たれ眼 眩み、四肢五体戦慄し、ほとんど瀕死の状 態に陥るものである。これに反して円相の欠除せる高姫の身辺には、一切の 兇霊が臭きものに蠅が群がるごとく、 容易にかつ喜んで集合するものである(『霊界物語』第五十二巻 出口王仁三郎著)

さて現界に生きてゐる人間の精霊を見ると現人と同形の幽体を持つてゐるが、亡者の精霊に比べると、一見して生者と亡者の精霊の区別が、判然とついてくるものである。生者の幽体(精霊)は、円い霊衣を身体一面に被つてゐるが、亡者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纏うてをる。それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間にゆふのも、この理に基づくのである。また徳高きものの精霊は、その霊衣きわめて厚く、大きく、光沢強くして人を射るごとく、かつ、よく人を統御する能力を持つてゐる。
現代はかくの如き霊衣の立派な人間がすくないので、大人物といはるるものができない。現代の人間はおひおひと霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、あたかも邪神界の精霊の着てをる霊衣のごとく、少しの権威もないやうになつて破れてをる。大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣は、やや山形になりかけてをるのも、今またたくさんに見たことがある。いつも大病人を見舞ふたびに、その霊衣の厚薄いと円角の程度によつて判断をくだすのであるが、百発百中である。なにほど名医が匙を投げた大病人でも、その霊衣を見て、厚くかつ光が存してをれば、その病人はかならず全快するのであ。る。これに反して天下の名医や博士が、生命は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、紙のごとく薄くなつてゐたら、その病人は必ず死んでしまふものである。
ゆゑに神徳ある人が鎮魂を拝受し、大神に謝罪し、天津祝詞の言霊を円満晴朗に奏上したならば、たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、死亡を免れ得るものである。かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れたときにおいて、たちまち霊衣を神界より剥ぎとられ、ただちに幽界に送られるものである。自分はあまたの人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、身体ますます強壮になつた人もあり、また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして、天授の霊衣を薄くし、中には円相がやや山形に変化しつつある人もたくさん実見した。
自分はさういふ人にむかつて、色々と親切に信仰の道を説いた。されどそんな人にかぎつて神の道を疑ひ、かへつて親切に思つて忠告すると心をひがまし、逆にとつて大反対をするのが多いものである。これを思へばどうしても霊魂の因縁性来といふものは、如何ともすることが出来ないものとつくづく思ひます。(『霊界物語』第二巻 出口王仁三郎著)

 

現界に生きてゐる人間の精霊を見ると、現人と同形の幽体を持ってゐるが、死者の精霊に比べると、一見して生者と死者の精霊の区別が、判然とついてくるものである。生者の幽体(精霊)は、円い霊衣を身体一面に被ってゐるが、死者の幽体は頭部は山形に尖り、三角形の霊衣を纏うてをる。それも腰から上のみ霊衣を着し、腰以下には霊衣はない。幽霊には足がないと俗間にいふのも、この理に基づくのである。また徳高きものの精霊は、その霊衣きはめて厚く、大きく、光沢強くして人を射るごとく、かつ、よく人を統御する能力を持ってゐる。現代はかくの如き霊衣の立派な人間がすくないので、大人物といはるるものができない。現代の人間はおひおひと霊衣が薄くなり、光沢は放射することなく、あたかも邪神界の精霊の着てをる霊衣のごとく、少しの権威もないやうになつて破れてをる。大病人などを見ると、その霊衣は最も薄くなり、頭部の霊衣は、やや山形になりかけてをるのも、今まで沢山に見たことがある。いつも大病人を見舞ふたびに、その霊衣の厚薄と円角の程度によつて判断をくだすのであるが、百発百中である。なにほど名医が匙を投げた大病人でも、その霊衣を見て、厚くかつ光が存してをれば、その病人はかならず全快するのである。これに反して天下の名医や、博士が、生命は大丈夫だと断定した病人でも、その霊衣がやや三角形を呈したり、紙のごとく薄くなつてゐたら、その病人は必ず死んでしまふものである。
ゆゑに神徳ある人が鎮魂を拝授し、大神に謝罪し、天津祝詞の言霊を円満清朗に奏上したならば、たちまちその霊衣は厚さを増し、三角形は円形に立直り、死亡を免れるものである。かくして救はれたる人は、神の大恩を忘れたときにおいて、たちまち霊衣を神界より剥ぎとられ、ただちに幽界に送られるものである。
自分は数多の人に接してより、第一にこの霊衣の厚薄を調べてみるが、信仰の徳によつて漸次にその厚みを加へ、身体ますます強壮になつた人もあり、また神に反対したり、人の妨害をしたりなどして、天授の霊衣を薄くし、中には円相がやや山形に変化しつつある人も沢山実見した。自分はさういふ人にむかつて、色々と親切に信仰の道を説いた。されどそんな人にかぎつて神の道を疑ひ、かへつて親切に思って忠告すると心をひがまし、逆にとつて大反対をするのが多いものである。これを思へばどうしても霊魂の因縁性来といふものは、如何ともすることが出来ないものとつくづく思ひます。(『出口王仁三郎全集』第五巻「言霊解」・其他)

霊衣の厚い人程、人がなつくものである。それは厚い霊衣の中へ人を包む事が出来るからである。薄い霊衣の人は、身体と身体とが接触せねば、お互が霊衣の中に入る事が出来ないから、かかる人の相互の関係は極めて冷やかなもので、離合集散常なきものである。有徳の人になると、如何に悲惨なる境遇におちて居ても、徳を慕ふて、世の攻撃などをものともせず、どこ迄もと従つて来る者も些くないものであるが、薄徳の人になると、かかる場合、どこ迄も終始するものは其妻位なものである。夫婦の情愛が格別なのは、どんな薄い霊衣の人と雖も、お互に霊衣に触れて居るからである。普通の人の霊衣の厚さは、五分位なものであるが、宣伝使のよい人になると、三尺位に拡がつて居る。又宣伝に行けとの命令を受けると、霊衣を拡げて貰ふのである。それで御神徳を頂くのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太