救いの神器「み手代」

金竜海大八洲神社

「み手代」とは

「み手代」は、当代の大本教主が瑞の御魂に祈願し神霊を込めた杓子の形をした木製の神器で、瑞の御魂のみ救いを取り次ぐ大本の「宣伝使」に、瑞の御魂の「み手の代わり」として下付されます。

出口王仁三郎聖師は、瑞の御魂の救いの権威について、次のように明示しています。

「瑞の霊はこの世の罪けがれを救いて、大神へおわびをする苦労の深い御魂である。」(『道の栞』)

「瑞の霊は、この世の救い主。神々へおわびする役。この世を開く役。取次信者に神徳を取次ぐ役。神の善悪を調べる役。お広間を守る役。神の言葉を取次いで書きのこす役。病いっさいを封じる役。そのほかに、世界のことはいっさい天帝へ取次ぐ役。」(『道の栞』)

「瑞の御魂と申して頼めば、信さえとどけば、いかなる病もふうじてやる。神が引き添うて、神力をもって助けてやる。」(『道の栞』)

「み手代」の由来

古は地方に由って、杓子は其家の主婦でなければ食物を受授するの権利を有しなかった。それ故御飯の時の碗に盛る飯なども、必ず其家の主婦が之を盛ると云ふ風習になって居たものである。
古の民謡にも、

添うて八年子の有る仲だ 嫁に杓子を渡さんせ。

年がよりて耄碌(もうろく)しても 嫁に杓子は渡されぬ。

などあるのも、皆一家経済上の権利受授の代表たるべきものは杓子であった子とが分明である。右の二首の民謡の一は、嫁と姑との中に入った聟(むこ)の歎息で、一は飽く迄も主婦の権利を持続しようとする姑の主張を謡ったものである。併し嫁を貰ふと直ぐに杓子の権利を嫁に譲る姑も少くは無かったのである。
この権利を嫁に譲ること即ち姑が嫁に所帯を任せるを杓子を渡すと云ひ、それから以後は飯を嫁に盛らせるのである。右の如く昔は杓子は生命の源泉たる食物を盛る為一種の主婦権として貴重視されて居たのである。
大本に於て大正十二年以来御手代として杓子を信仰堅実なる信者に渡すことに神定されたのも、未申の金神瑞の大神が、丁度姑が嫁に権利を譲渡すると同様に治病一切の神権を譲って下さると云ふ御経綸であって、杓子の拝戴者は実に神の殊恩に欲したる人と云ふべきものである。御手代の神力無限なる理由は、実にこの意義から特別の御神護あるものと察する事が出来るのであります。
又盃や茶碗、拇印なども御手代の一つであって、杓子と同様の御神護あるべきものであります。大本信者の既に已に実験されて居る筈である。アヽ惟神霊幸倍座世。(『出口王仁三郎全集』第五巻

「み手代」の起源

大正12年、出口王仁三郎聖師は九州・熊本県小国町杖立温泉の梅屋旅館に逗留していました。
出口王仁三郎聖師は逗留中に、52回目の誕生日(旧暦7月12日 新暦8月23日)を迎えます。

この時、夜の月を仰いで、杖立温泉の名物である竹の杓子に、

「この杓子わが生れたる十二夜の月のかたちによくも似しかな」

「万有の生命をすくふこの釈子心のままに世人救へよ」

と歌をしたため、「王仁」と署名して母印を押しました。

この杓子を綾部に持ち帰り、お土産として、熱心な信徒に渡しました。
のちに「み手代」と呼ばれるようになり、病気平癒のお取次に用いられることになりました。

これがみ手代のはじまりです。

翌、大正13年2月に、出口王仁三郎聖師はモンゴル(蒙古)に入りますが、不運にも、6月21日にパインタラで逮捕されます。
この時、出口王仁三郎聖師一行と同じ鴻賓旅館(パインタラにある旅館)に泊っていた日本人が、庭に落ちていた一本の杓子を拾います。その杓子を見ると、表には、

「天地の身魂を救ふこの杓子心のままに世人救はむ」と誌されており、その裏面には、

「この杓子わが生れたる十二夜の月の姿にさも似たるかな」と誌され「王仁」の署名と母印が押されていました。

この杓子を見て、出口王仁三郎聖師の一行が逮捕されたことを知り、急いで日本領事館に届け出ました。
そのおかげで、出口王仁三郎聖師一行は危機一髪のところで救われました。
この時の杓子が、杖立温泉の竹の杓子でつくられた「み手代」でした。

 

歌碑

 

「み手代」お取次ぎ

病気や悩み事で心が不安になったとき、人は誰かに助けを求めたくなります。
普段は神さまに祈ることがない人でも、自分ひとりの力ではどうしようもないときには、何かにすがりたいと願う気持ちが沸いてきます。

そのような時に、大本では「み手代お取次ぎ」を行います。

大本の「宣伝使」が奉持する神器「み手代」を通して行なう「み手代お取次ぎ」を受けることで、肉体はもちろんのこと、精神、魂まで神さまからご神徳を頂くことができます。

大本三代教主補出口日出麿尊師は「み手代お取次ぎ」について、次のように述べています。

「み手代お取次ぎをするにも病人の生死は問題外で、これは寿命のことであるからたとえ死んでも霊は救われるのであるから、一回でもお取次ぎを受けた者は国替えの場合でも神さまから身霊のめぐりをとっていただくから楽に国替えさしてもらい、また死後の硬直もしないのであるから、どしどしお取次ぎをしたらよい。お取次ぎをする場合に治るかどうかなど、不安な気持ちではおかげが立たぬ。神さまが付いておられる。神さまの代理のつもりでやれば必ず霊験がある。」(『真如の光』昭和四年十二月五日号

 

み手代の活用

み手代はお下げいただいている以上、単に奉持しているだけでは意味をなさないのであります。他にくらべて大本ほどご神徳を容易に頂くところはありません。他では実に苦心して、一生懸命になって病気治しをしています。ほとんどそればかりにかかっている団体が多いのでありますが、大本はどっちかというと、病気のおかげくらいは何とも思っていない。つまり慣れすぎている。これは神さまのご守護が厚いからで、そう思っているのも結構でありますが、・・・・み手代を働かせ、ご守護の厚いことをはっきり感じさせなければ、やはり本当の信者を作ることはできません。
病気治しをすることをいけないことのように思ったり、つまらないことのように考えたりしてはいけません。といって、病気なおしばかりになっても弊害があります。そこは各自の考えでよく調節されて、み手代を活用せねば、神さまに対して相済まないという考えをお持ちになって頂きたいのであります。(日出麿先生 昭和9・11)

宣伝使は霊国天人として、相手相応の導きができるよう努めねばなりません。それにはよく霊界物語を拝読することであります。
心に神さまを念じてさえやれば、誰でもお取次は出来るようになります。自然と手が動いて、み手代が相手の患部、もしくはその病気の根元の場所へ行くようになり、次には自分の身体に、相手の病んでいるのと同じ箇所がいたむようになるものであります。(日出麿先生 昭和10・10)

病気の時の心がまえ

いくら一条の信仰に生きることができましても、人間は肉体があるものですから、無理をすれば病気になります。病気になれば、お医者さんの世話になることです。そのためにお医者さんもあるわけです。けれど、医者も人間ですから、間違いということもありましょう。信用のある、評判のよい医者をえらぶことは当然です。生命にかかる病気でもあれば、一人の医者だけではなく二、三人の専門医を訪ねて診ていただかれることです。その場合、やはり、まず神さまにそのことを奏上して、正しい診断のいただけるようにご守護をお願いすることが大事です。

お医者さんが早く手術した方がよいと言われるのであれば、早くしてもらいなさい。あまりためらっていると、かえって悪化してどうにもならなくなります。これは、お医者さんが言うのではない、神さまがおっしゃるのだと思われることです。手術の時も、これは医者の手ではない、神さまの手で切り除いてくださるのだと思うことです。神さまにおまかせして治していただくと信じて、お医者さんにまかせることです。(寸葉集 一)

四百四病みな霊的

病を体的にのみ解していることはおろかなことです。四百四病はことごとく、霊界に根差しているのであります。霊的解決がつかなくては、真に病気は癒えるものではありません。もっとも、霊的根源の深浅によって、その解決手段の深浅はありますが、どうしても、医薬によって治療することのできないものは、神さまにたよるより外はありません。信仰さえ徹底すれば、どんな難病でも、その体的局部に活力の存するかぎり、十中の八、九は助かるものであります。しかし医薬はあくまで用いるべきもので、これに迷信してはならぬというまでであります。(信仰覚書 第五巻)

病人に、食物や薬物や医師や病院にのみたよる心があって、神さまに祈り神さまに感謝する心がなくては治癒がおそい。病気は全然霊界からきているのですから、まず第一に神さまにたよらねばなりません。
ところが、慢性病にかぎって、なかなか神さまに頼るという気がおこらぬものです。これは悪霊の所為であります。家族のものが専心神さまに祈願してやり、また病人自身も心から神さまに感謝して、瞬時も神さまからはなれぬよう、一生けんめい、み光に面をむけている気持ちで、周囲の者に対しても不足や不満をいだかないで、なるまま、あるままを感謝し歓喜して暮らす気持ちになれば、大抵の病気は、みたまのふゆによって治癒するものであります。

病気には必ず潜伏期があります。潜伏期または発病の最初にお取次して治癒すれば治りやすいが、病がつのり、身体が衰弱してからのお取次治癒はききかねます。痛くない慢性的に来る病気は高等霊であります。急性に痛みを感ずる病気は動物霊が多い。急性の方は苦しいが治りやすいものであります。(日出麿先生 昭和九・五)

病気お取次の心得について

病気お取次の方法は、神格内流のいただき方に各人さまざまな特徴があるので、これを一定することは出来ないのでありますが、普通に行われている大体の要領の主な心得を次に示します。

1、お取次の目的をもって家を出るときは、大神さまにその旨を奏上し、ご守護をお祈りすること。なお、いつどこでもお取次のご用ができるように常にみ手代を奉持することに努めること。
2、病人とともに神前にて大神さま、ことに現教主さまを通じての想念をもって、瑞のみ霊の大神さまに祈願をこらす。この場合、のりとは天津祝詞または神言を奏上するが、この間、病人は平伏していること。神床のない家庭であれば適時想念をもって祈願すること。
3、お取次の際の、相手の姿勢は、座っても差し支えない病人であれば、正座して体をらくにさせ、両手を太ももの上におき、静かに瞑目させる。座れない病人であれば無理に座らせる必要はなく、横臥したしたままでよい。手を組み合わせると発動するおそれあるので、自分はもちろん相手にも鎮魂の姿勢をとらせないこと。
4、お取次は、まず病人に対坐し、守護神に対して二拍手し、み手代をにぎり、病人のほぼ胸の位置に差しむけ、ひたすら想念で現教主さまを通じて、瑞のみ霊の大神さまを念じつつ、聖師さまが御手でなでられるような気持で、想念の向かうままに全身、ことに患部と思われるところをよくなでるようにして霊氣をいただく。ただし、直接身体には触れないこと。
5、お取次の時間の長短は容態に応じて考慮する必要がある。お取次の前または後で霊界物語を拝読して聞かせることは、病人にとって大変よい。この時に、気持ちよく、また熱心に聞く病人であればおかげもよくいただかれる。
6、お取次は単なる治療行為でなく、宗教的祈願行為であるから、医師法などにふれることはないが、特に患者の身体にふれないことと、診断を下さないことなどの注意が肝要である。ことに報酬を請求するなどは神徳をけがすこととなる。
7、お取次の際、不自然な声を出したり、力みかえったりすることはよくない。そうなってはかえって神霊の流通がとざされて、かわりに自分の霊が注入されることになる。また病気を見て、あわれみのあまり心もそぞろなようなことでは神格の内流を妨げる。ましや病気をなおして自分の偉さを示そうとか、驚かして信仰に入れてやろう、というような考えを、いささかも抱いてはならない。想念はあくまで自己を離れ虚心坦懐となり、ひたすらご神力をお取次する一個の媒介者になりきることが肝要である。
8、お取次の途中で発動しはじめたときは、極力、鎮めるよう努めるべきである。それを問答などすると、その霊が人間の体内に入っているということに気づいて、かえってその結果が悪い場合が多い。また、しかりつけたりすると、その時はよくても後はよくないものである。(『せんでんしのこころえ』より)

東海教区 特派宣伝使 前田茂太