「自らの魂を曇らすことのないように」

大本綾部梅松苑の木の花庵

常に反省し、自分自身を見つめること

 

人は、神さまのご神格(愛善と信真)にもとづく「良心」と、悪の要素「邪心」とを合せ持っています。人間は肉体に〝われなる精霊(自分自身)〟のほかに〝正守護神(善霊・良心)〟と〝副守護神(悪霊・邪心)〟を宿しています。〝副守護神〟の誘惑に負け、悪の要素が勝つと〝われなる精霊〟は自ら幽界に堕ちて行きます。

人の霊性が悪化する原因は、神さまから与えられている〝直霊(反省心)〟の衰えによるものです。人の霊魂の中に備わっている一霊四魂(※)の最も高級なはたらきを、「五情の戒律」といいます。

「直霊」は省みる、「荒魂」は恥じる、「和魂」は悔いる、「幸魂」は畏れる、「奇魂」は覚る、とそれぞれの働きがあります。

直霊の〝省みる〟はたらきがなくなれば、直霊は「曲霊」と変わり、四魂もそれぞれの戒律を失ってしまいます。
「荒魂」は「争魂」となり、恥を忘れて、怒りやすく粗暴になります。「和魂」は「悪魂」となり悔い改めないで、不平不満をつのらせます。
「幸魂」は「逆魂」となり道に逆らい、感情の起伏がはげしく乱れます。
「奇魂」は「狂魂」となり、善悪の判別も狂い、わがままな性格をさらに強めていきます。

霊性の悪化は、ことごとく自分自身の反省心(直霊の働き)の衰えによるものです。

【五情(省・恥・悔・畏・覚)】
・荒魂(恥)=「争魂」恥を忘れて、怒りやすく粗暴になる
・和魂(悔)=「悪魂」悔い改めないで、不平不満をつのらせる
・幸魂(畏)=「逆魂」道に逆らい、感情の起伏がはげしく乱れる
・奇魂(覚)=「狂魂」善悪の判別も狂い、わがままな性格を強める

 

※「一霊四魂」とは、人間が神さまから与えられた霊魂とその働き。
一霊とは、「直霊」、「直日」の霊ともいい、反省心、良心の働きを司る。
四魂とは、「荒魂」、「和魂」、「幸魂」、「奇魂」の四魂で、以下のような働きがある。

 

一霊四魂の働き

 

 

大本のみ教え

地獄にもいろいろあるから、簡単にいうことは無論できぬが、一般に通じて、万事が消極的である。栄え、喜び、朗かさ、感恩、柔順、無邪気、活発等に反することのみが行われている所である。これは要するに、地獄の心はいずれも利己中心であるからである。
この現界もまた、時としては地獄の映写であるから、現界人の心も知らずしらず地獄的である時もある。それで現界人としては、つねに直日の魂(良心)に省みて他を恨んだり、そねんだり、侮ったりすることは絶対に悪いと覚悟して、つとめてこうした想念を排除するよう懸命に意志を練らねばならない。地獄からの霊線がかかている時には、よほど省みておらぬと、知らずしらず地獄的の気持になりきってしまっていて、気がつかぬ場合がある。地獄的の気持になることは、自己に業因のある場合はいたし方がないが、なりきってしまうことは自己を地獄的に染着してしまうことになるので、容易に浮かび上がられなくなる。つねに心がけて、自分で悪いと思い、汚いと思い、卑怯と感じ、地獄的と思惟する想念と勇敢に決然と力闘する習慣をつけねば、いつ迄たってもその境涯を脱することができなくなってしまう。他を恨み、ねたみ、あなどる心、すぐに気を悪くまわすこと、これらはことごとく利己心より発するもので、地獄所属の想念であって、どんなに自己弁解し、自分だけの理由があってもダメである。概して、他を悪く思うのは、自分に相応の悪いところがあるからである。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

人間本来のみたまは、みな、神から授けられたきっすいなのだが、これに、すこしの隙から邪悪分子がまじって、にごしているだけなのである。それが証拠には、どんな人間にでも「良心」というものがあって、悪事をしつつも、心の奥のどこかでは「ああ、これは悪いことだ。俺もいつまでも、こんなことをしていてはならぬ。まことの人の道をふんで行きたいものだ」という本来の直霊の叫びがあるではないか。悪を悪と思わぬにいたれば、もはやその人は無限地獄へおちているのだ。この世へ生まれさせられている大多数の人間は、罪を負うている。その罪さえすっかり洗い去ったなら、人はだれでも、それ相当の神さまなのである。神にまかせよ。神にまかせば、知らずしらずのうちに、よりよき方へとみちびかれる。たとえ、一時、罪のつぐないのために苦しむ時があるにしても、それは瞬間だ。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

自ら進んで幽界(地獄)へ

 

人は心の中により多くの「愛善」と「信真」を宿していたら神界に進みますが、これを拒み「悪(愛悪)」と「虚偽(信偽)」をより多く宿していたら幽界に進んで行きます。

人間のもっている「悪」は幽界に属しており、現界において「悪」を好み悪事を行った者は、霊界に行っても同様に「悪」を好み、天国を忌み嫌い自ら地獄へ進んで行きます。
すべての善は神界に由来し、すべての悪は幽界に由来しているので、現界にいる間にしっかりと善を自分のものにしなくてはなりません。

人は、神さまから善悪を自由に選択する機会を与えられています。他人から強制されたものでなく、自分の意志で選択した善悪しか自分のものにできません。

 

大本のみ教え

また根底の国に通ふ所の入口は、これに入るべき精霊のために開かるるものであるから、その外の者はその入口を見ることは出来ない。入口の開くのを見れば、薄暗うて、あたかも煤けた蜂の巣のやうに見えてゐる。さうして、斜めに下向して、追々と深い暗い穴へ入つて行くことになつてゐる。この暗い入口を探り探りて下つて行くと、先になつてまた、数個の入口が開いてゐる。この入口の穴から、悪臭紛々として鼻をつき出てくるその不快さ、自然に鼻が曲り、息ふさがり、眉毛が枯れるやうな感じがしてくるものである。ゆゑに善霊すなはち正守護神は、甚だしくこれを忌み嫌ふがゆゑに、この悪臭を嗅ぐやいなや、恐れて一目散に走り逃げ去るものである。しかしながら、地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊すなはち副守護神は、この暗黒にして悪臭紛々たるを、此上なく悦び楽しむがゆゑに、喜んでこれを求め、勇んで地獄の入口に飛びこむものである。世間のおほかたの人間が、おのれの自性に属する悪を喜ぶごとく、死後霊界に至れば、その悪に相応せる悪臭を嗅ぐことを喜ぶものである。(中略)これらの人間の霊身は、高天原の天人の気息や、芳香にあふ時は、内心の苦しみに堪へず、悲鳴をあげて泣き倒れ、苦しみ悶えるものである。実に大本開祖の神示にある、身魂相応の神の規則とは、実に至言といふべしである。(『霊界物語』第四十七巻第八章 出口王仁三郎著)

 

これに反して直ちに地獄に陥る精霊にあつては、現界において表面にのみ愛と善とを標榜し、かつ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵しをりしもの、いはゆる自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙に富んでゐるものは、足を上空にし頭を地に倒(さかさま)にして投げ込まれるやうにして落ち行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、あるいは死後直ちに岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、かくのごとき状態になるのは凡て神様の御摂理で、精霊界にある精霊と分離せむがためであります。ある時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、かくのごとき精霊は生前において、口の先ばかりで親切らしく見せかけて世人に油断をさせ、その虚に乗じて自己の利益を計り、かつ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、 第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。(『霊界物語』第六十三巻第十章 出口王仁三郎著)

 

そこには地獄へ墜ちて行くものと見えて、真黒の汚い顔をしたものが打ち倒れてゐる。これは現界で今肉体が息を引取ったもので、その幽体がこの所に横たはったのであり、また先の大きな叫び声は、親族故旧が魂呼びをしてをる声であることが分った。さうすると見てをる間に、その真黒い三十五、六の男の姿が何百丈とも知れぬ地の底へ、地が割れると供に墜ち込んでしまった。これが自分には不審でたまらなかった。といふのは、地獄に行くのには相当の道がついてをる筈である。しかるに、たちまち急転直下の勢で地の底へ墜ちこむといふのが、不思議に思はれたからである。とにかくかういふふうになる人を現界の肉体から見れば、脳充血とか脳溢血とか心臓破裂とかの病気で、遺言もなしに頓死したやうなものである。そこで天然笛を吹いてみた。天の一方から光となって芙蓉仙人が現はれ給うた。
『いったい地獄といふものには道はないのでせうか』とたづねてみた。仙人いふ。
『この者は前世においても現界においても悪事をなし、ことに氏神の社を毀った大罪がある。それは旧い社であるからといふて安価で買取り、金物は売り、材木は焼き棄てたり、または薪の代りに焚いたりした。それから一週間も経たぬまに病床について、黒死病のごときものとなった。それがため息を引取るとともに、地が割れて奈落の底へ墜ち込んだのである。すなはちこれは地獄の中でも一番罪が重いので、口から血を吐き泡を吹き、虚空を掴んで悶え死に死んだのだ。しかもその肉体は伝染の憂ひがあるといふので、上の役人がきて石油をかけ焼き棄てられた』との答へである。(『霊界物語』第一巻第十四章 出口王仁三郎著)

 

愛善の徳に住し信真の光に住し、神を愛し神を信じ神の為に尽すものは天界の住民となり、悪と虚偽とに浸りて魂を曇らすものは地獄に自ら堕落するものぞ。(『霊界物語』第六十三巻第四章 出口王仁三郎著)

 

人間は凡(すべ)て精霊の宿泊所のやうなものだ。そしてその精霊は一方は愛善の徳を受けて天国に向かひ、一方は悪と虚偽との愛のために地獄に向かつてゐる。善悪混淆(こんこう)の中間状態にゐるのが所謂(いわゆる)人間だ。(『霊界物語』第五十八巻第二十二章 出口王仁三郎著)

 

 

すべて人間には二箇の門が開かれてある。さうしてその一つは高天原に向つて開き、一つは根底の国に向つて開いてゐる。高天原に向つて開く門口は、愛の善と信の真とを入れむがために開かれ、一つは、あらゆる悪業と虚偽とにをるもののために、地獄の門が開かれてあるのだ。(『霊界物語』第四十七巻第八章 出口王仁三郎著)

 

 

故にわれわれ人間の運命は、この神より来る神善と神真を、いかに摂受するかによつて定まるものである。そこで信仰と生命とにあつてこれを受くるものは、その中に高天原を顕現し、またこれを否むものは、やむを得ずして地獄界を現出するのである。神善を悪となし、神真を偽りとなし、生を死となすものは、また地獄を現出しなくては已まない。(『霊界物語』第四十七巻第九章 出口王仁三郎著)

 

 

また体主霊従とは、人間はどうしても霊界と現界との中間に介在するものである以上は、一方に天国を開き一方に地獄を開いてゐるものだ。ゆゑに人間は、どうしても善悪混交美醜互ひに交はつて世の中の神業に奉仕せなくてはならない。しかしこれは、普通一般の善にも非ず悪にも非ざる人間のことである。
人間は肉体を基礎とし、また終極点とするがゆゑに、外的方面より見て体主霊従といふのであるが、しかしながら、これを主観的にいへば霊的五分、体的五分、すなはち、霊五体五たるべきものである。もし霊を軽んじ体を重んずるに至らば、ここに、体五霊五となるのである。同じ体五分霊五分といへども、その所主の愛が外的なると、内的なるとによつて、霊五体五となり、また体五霊五となるのである。 ゆゑに霊五体五の人間は、天国に向かつて内分が開け、体五霊五の人間は、地獄に向かつてその内分が開けてゐるものである。
一般に体主霊従といへば、霊学の説明上悪となつてゐるが、しかし体主霊従とは、生きながら中有界に迷つてゐる人間の境遇をいふのである。人間は最善を尽し、ただ一つの悪をなさなくてもその心性情動の如何によりて、あるいは善となりあるいは悪となるものである。ゆゑに人間は、どうしても霊五体五より下ることは出来ない。
これを下ればたちまち地獄界に堕ちねばならぬのである。なにほど善を尽したと思つてゐても、その愛が神的なると自然的なるとによつて、天国地獄が分るるのであるから、体主霊従的人間が、現世において一つでも悪事をなしたならば、どうしてもこれは体五霊五どころか体六霊四、体七霊三となりて、たちまち地獄道へ落ちねばならぬのである。(『霊界物語』第五十二巻第十七章 出口王仁三郎著)

 

「神は決して世界の人間の精霊を、一人も地獄へ堕とさうとはお考へなさるのではない。その人が自ら神様に背を向け、光に反き地獄に向かふのである。その地獄はお前が現世にをつた時すでに和合したところのもので、悪と虚偽とを愛する心の集まり場所である。 大神様はエンゼルの手を経たり、かつ高天原の内流によつて、おのおの精霊を自分の方へ引き寄せむと遊ばすけれども、もとより悪と虚偽とに染み切つたお前たちの精霊は、仁慈無限の神様のお取計らひを忌み嫌ひ、力かぎりこれに抵抗し、自分の方から神様を振り棄て離れ行くものである。自分が所有するところの悪と虚偽は、 鉄の鎖をもつて地獄へ自ら引き入るるが如きものである。言はばお前たちが自由の意志をもつて自ら地獄へ堕落するものだから、神様はこれを見て愛と善と真との力を与へ、一人も地獄へ堕とそまいと焦つてござるのだ」(『霊界物語』第五十六巻第三章 出口王仁三郎著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太