霊的な視点から見る「死」
医学が示す「脳死」という区切りは、果たして真の死といえるのでしょうか。たとえ脳の働きが止まっても、心臓がなお鼓動しているならば、それは本当に“終わり”なのか。私たちは今、その定義の曖昧さと向き合う時を迎えています。
『霊界物語』には、人がこの世を去る「その瞬間」について、明確に示されています。
「人間の精霊が、呼吸および心臓と内的交通をなす所以は、人間の生死に関する活動については、全般的に、また個々肺臓、心臓の両機関によるところである。しかして人間の精霊、即ち本体は、肉体分離後といへども、なほしばらくはその体内に残り、心臓の鼓動全く止むを待つて、全部脱出するのである。」(『霊界物語』第四十七巻)
心臓の鼓動が完全に止まったとき、はじめて魂は肉体を離れ、霊界へと移行していく――それが霊的な死の定義です。ところが、現代ではその心臓がまだ脈打つうちに、法的な「死」とされ、臓器が摘出される。そこには、見過ごすことのできない霊的矛盾が横たわっています。
魂がなお留まっている肉体から臓器を取り出す行為は、生きている存在に対する冒涜にほかなりません。霊と肉体、そのどちらも神さまのご意志によって結び合わされたものであり、人間が勝手にその結び目を断ち切ることは、霊的にも倫理的にも到底許されることではありません。
身体は「預かりもの」
「愛のリレー」「命をつなぐ行為」など、臓器移植は、美しい言葉で包まれています。しかしその背景には、「身体は自分のもの」という思い違い、そして「神さまの存在」を忘れた人間の傲慢さが見え隠れしています。
『霊界物語』には、次のように示されています。
「神は吾らの霊の祖、体の祖と現れませば、吾らが五尺の肉体も、皆大神の借り物ぞ」(『霊界物語』第三十五巻)
「吾々の霊肉ともに決して私有物ではありませぬ、みな神様のあづかり物です」(『霊界物語』第十四巻)
魂も肉体も、私たち自身の所有物ではありません。これらはすべて、神さまからの「預かりもの」であるという謙虚な姿勢が必要なのではないでしょうか。
自らの判断で死後の扱いを決めること、たとえば散骨などの選択は、この「預かりもの」に対する無責任な姿勢であり、神意に反する行為と言わざるを得ません。また、ドナーカードへの署名も「自らの命を他者に明け渡す」という意思表示となりかねず、本質的には自殺や安楽死と大きな違いはありません。
霊的な影響と死後の世界
『霊界物語』には、次のような警告が示されています。
「自殺は罪悪中の罪悪でございまする。あなたの肉体は決して貴女の物ではない。身魂ともに大切な神様の預かり物、左様な気侭なことをなさいますと、末代その罪は赦されませぬぞ」(『霊界物語』第二十五巻)
この「罪」は、提供者だけにとどまりません。臓器を受け取る側もまた、その想念が問われます。「他者の命を使ってでも自分は助かりたい」という願いの根底に、無意識の傲慢が潜んではいないでしょうか。
臓器提供を「善」と信じて行った者は、霊界においてその想念どおり、幽体の臓器もまた欠損した状態で現れ、苦しみを味わうと出口王仁三郎聖師は語っています。この点について、聖師は具体的な問答の中で次のように答えています。
問い「病人の中には医学に貢献するとて死後解剖をしてくれと遺言するものがありますがそんな人は霊界に於いてどうなるので御座いませうか。」
聖師「―解剖をすると霊界でもやはり鬼に同様の事をされるものであります。自分即ち心が承知したのであるから、霊界でも解剖されるは当然の理であります」(冊子『宣伝使に対する聖師の教示並びに問答』昭和二年八月三十日発行)
問い「信徒―死後、眼の不自由な人のために角膜を提供をした場合、その人は霊界でどうなるでしょうか。
聖師「霊界では目が見えなくなる」(桜井八洲男元大本本部長聴取)
つまり、どんなに善意であっても、その「想念の結果」は霊界で厳然と形になる。そこに「知らなかった」「善意だったから」は、霊の世界では通用しません。
現代医学は魂の存在を前提としていないため、たとえ理論がいかに整っていても、真実に辿り着くことはできません。霊的真理に立ち返り、「命とは誰のものか」「本当の善とは何か」を、もう一度深く問い直さねばならない時が来ているのではないでしょうか。
東海教区特任派宣伝使 前田 茂太