「生きる力と考える力を育むために」

金龍海と舟

「天授の真理」

人類が、今日のような高度な文明社会を築き上げることができたのは、高度な教育システムがあったからこそです。どんなに優秀な素質をもった人間でも、教育を受けることができなければ、その能力を発揮することはできません。

しかし、現代社会においては、これまでの教育のあり方が、社会全体や他人のことを考えず、個人の利益を優先したり、物質的な価値や快楽を優先したりするなど、社会全体のモラルの低下を生み出してしまいました。

こうしたモラルの低下により、人類は、貧困、社会的差別、非衛生・健康破壊、地球環境破壊、人間破壊など大きな課題を抱えています。

これらの社会全体のモラルの低下は、教育の中でもっとも大切な「天授の真理」を教えていないことが大きな原因といえます。

「天授の真理」とは、智徳円満である神さまの直々の教えです。
この「天授の真理」のなかでも、時と場所と人を問わず普遍的に大切なものが、「感恩」、「鍛錬」、「順序」の3つです。

 

大本の教え

細目に分ければいろいろ出来ましょうが、私はこの感恩、鍛錬、順序の三つは天授の真理の中で間違いのない、時と所と人とを問わず、どこにほどこしてもよいものであると信ずるのであります。そういう大局的な見方、案、策を立てずに、楊枝で重箱の底をほじるような教のみに力を入れている。これでは世の中がうまくゆくはずはないと思います。こういうものを含んだ科学なら、これはほんとうの教である。が、今の科学はこの中の順序、智に関する或る部分だけをいうているのであるから、今の科学は行きづまっている。またそれにのみ囚われており偏している人、社会というものは良いものはできない、みな苦しんでいるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

われわれの方からいえば、天授の真理がほんとうの教である。人間的なそれには間違ったのがある。現代の教育のようなのはそうであります。たいへん教育が盛んになったが、役に立つ者ができぬ。それは天授でないからであります。神慮を受ける人、神慮との和合ができる人の教が根幹をなさねば、ほんとうの教にはならない。ただ知識を持っているとか、智慧のある人とか、人間的理智の発達している人とか、そういうのは幾ら勉強し合っても相談し合っても、かえって変なものになりやすい。本当の教というものは天授の真理である以上、より以上の力に触れ得る人、まつりのできる人、そういう人の言ったことが本になっているものでなければ、ほんとうの教でないということは明らかである。今の世が行きつまっている、今の教育がどうも腑に落ちないというのは、天授の真理でないからであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

日本ではこれをオシエといいますが、オシウは「緒強う」である。オは魂の緒で霊魂のこと、教というのは悪い方の魂の緒をだんだんと強いて良くしてゆくという意味であります。これは、悪い方を純化してゆく向上的な手段であります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

漢字の「教」は孝文と書きますが、文はあやなり、交りなり、発展なりで、道徳でいちばん基礎的なものは孝である。つまり親子の愛がいちばん人間に徹底してわかりやすい。その気が普遍的に、全体的に拡がれば教ができてゆき、世の中はよくなる。そういう意味から孝という字に文という字が一緒になっているのです。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

感恩

感謝の心があってはじめて、「物を大切にする気持ち」、「人に対する謙虚さ」、「生きる喜び」が生まれます。

 

大本の教え

いろいろ理屈を知ったり言葉を覚えるのは、これは末の末のことであります。いちばん大事なことは、愛というものは、どういうものであるかということを知ること、ありがたいということは、どういうことであるか、誠というものはどういうものであるか、どういう力があるか、そういうことを知ることがいちばん大事である。いくら七むつかしい哲学を説き理論を説いたところで、それを使う道を知らねば、これは逆になってはいけないのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 


愛の一番わかりやすいのは忠孝であります。現代の教育は理屈っぱく、忠孝を教えこむ迫力がない。主に忠、親に孝でない者がいくら世の中に出ても何ができるものですか。いくらものが出来ても、神心がなく徳がつかない。また奉仕的な犠牲的な気持ちにもならない。統一的な人にもならない。一口にいえば感恩ということを教えねばならぬ。
(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

鍛錬

「鍛錬」ができていないと「感謝」の念が湧いてきません。
自分で苦労して何かを生み出すことで、はじめて、心の底から「感謝」の気持ちを持つことができます。

 

大本の教え

ほんとうのものを作り上げようとするには、それだけ苦しまねばならぬ、それだけ鍛錬されねばならぬ。今の考え方は楽に大きな所得を得たいという安易な考えが非常に流行しております。ほんとうのものを作り出すには、ほんとうの苦しみをしなければいけない。今のように、親の脛をかじって遊び半分でものを教えられ、習っているようなことでは、魂にしみ込んだ何物も得られない。人間を浅薄な浅いものにしてしまう。実地にぶっつからねばものが身につかない。
今は知ることだけに一生懸命、頭だけ豊富にしているが腹ができぬ。物でも事でも人でも、鍛錬されたものでなければ本当のものにならぬ。鍛錬の途中においてはバカげたこと、損をしたことように思うこともある。しかし苦労せず、うなぎ登りに楽に登ったようなものはダメである。また登り得ようはずはない。感恩を情とすれば鍛錬は意である。今はこの二つとも非常になおざりになっている。
情の教育、これがだんだん冷たく薄くなっている。これは一つは鍛錬ということをやらさぬからであります。水は自然に湧くもの、お日さまは勝手に照るもの、親は勝手に自分を生んでくれたもの、米も麦も自然に生ったもの、そういうふうに、何でもありがた味というものを持たない、恩に感じない。苦しんだ覚えがないから、物をつくった覚えがないから、これではいけない。そういう者にかぎって不平をいい、少し不平が通らず自分が困ると、すぐに死にたいとかやけくそになる。こういうような人間を何ぼつくったところでダメである。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

順序

日本では昔から、年少者は年長者を敬い、年長者は年少者を慈しむ「長幼の序」という美しい人間関係が大切にされてきました。

「長幼の序」というのは礼儀の中で本来簡単であるはずの行いなのですが、現代社会の中ではもっとも難しい礼儀となっています。

何かにつけて「順序」というのは大切であり、順序を間違えるとそこから、争いや問題が発生します。
順序を正しく元に戻すことで世の中で起きている多くの問題を解決することができます。

 

大本の教え

も一つ智の方の教育といえば、これは順序を教えること、区別を教えること、物と物との関係を教えることであります。部分部分を小さく解剖したり比較考究する方、これはものの順序を教えること。順序という言葉を使ったのは、人間はどうしても上と下の区別、左右の区別、天地の間でも序というものがある。序というものがわからぬと、自分と他人との対立関係がわからぬから阿呆なことをしたり、ほんとうの生活、ほんとうの向上というものが出来にくいのであります。自然界の方の順序を調べること、比較することは現代でもだいぶ盛んになっていますが、人事上においては、この順序ということが思想的にだんだん乱れてきております。われも人なり、他人も人なり、中心もへったくれもない、個人的な一列平等的な考えが、西洋の学問の中毒をうけて、近ごろ若い人々の気持ちの中にはいっている。だから、教育を盛んにするほど、学校を建てるほど、道理のわからない人間ができてくる。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

東海教区特派宣伝使 前田茂太