「めぐりとは前世における霊魂の罪障」

雪の梅松苑

〝めぐり(罪障)〟は周期的に廻ってくるもの

〝めぐり(罪障)〟とは、過去生から積み重ねてきた、良心の働きを妨げる悪い行いです。その〝めぐり(罪障)〟を取り除くことが、人生の目的のひとつでもあります。現世に生きているすべての人が〝めぐり(罪障)〟を背負いこの世に誕生しています。

〝めぐり(罪障)〟は、現世での行いはもちろんのこと、自らの前世での行いや先祖とのつながりなどが遠因となり積み重なってゆきます。その先祖の子孫として生れてくるということも、自分にその先祖との因縁があるということです。原因をたどれば全て自分自身に起因しています。

人は、霊魂に〝めぐり(罪障)〟を背負っていると同じような過ちを繰り返そうとします。
また、同じ人に、同じ一族に、同じような不幸な出来事が起こるというのは、人や一族の〝めぐり(罪障)〟に起因します。例えば、一族の先祖の中に、多くの人間を不幸にした者がいると不幸にされた大勢の人間たちの積年の恨みは、その一族に影響を与え、次々と似たような不幸な出来事がその一族に起こります。

それらが周期的に廻ってくることから、〝めぐり(罪障)〟と呼びます。

また、日頃、行いの良い人でありながら、不幸な出来事が続き、消えないような人もたくさんいます。一見、神も仏もないように思えますが、個人、または一族に起因し、潜在している〝めぐり(罪障)〟は必ず現れて精算しなくてはなりません。
視点を変えてみた場合、これは憂うべき事ではなく、過去世から蓄積された、〝めぐり(罪障)〟が現界において表面に現われ、その人自身や、一家一族の〝めぐり(罪障)〟が取れて進歩してゆく過程と捉えることができます。

ジェームズ・ヴァン・プラグ『もういちど会えたら』から

まず第一に、偶然の事故というものはありません。こうした出来事は、因果という霊的法則、すなわち、カルマが直接に反映した結果なのです。次のような例を考えてみましょう。ある男がパーティーに参加し、自分の意志で酒を飲もうと決断した。やがて充分に酔いがまわり、そろそろ帰ることにして車で家路についた。同じころ、映画を見終わったカップルが家に帰ろうとしていた。酩酊した男の視野はぼやけ、対向車に気づいたときはすでに手遅れだった。彼はカップルの車に激突し、この男女は即死した。
この場合、死とは、酒を飲むという男の決断が招いた結末であり、結果です。男の酩酊状態が事故を引き起こしました。彼のせいでカップルの命が散りました。これはカルマ的状況です。カップルが死んだので、別の転生でこのバランスを取らねばなりません。言い換えれば、わたしたちの行動には、現世もしくは別の転生において、ポジティブにしろネガティブにしろ同質の報いが返ってくるということです。因果の法則は全宇宙の普遍の法則であり、カルマ的行動や神の恩寵によってあらゆる体験に解決がもたらされます。
一見して偶然の事故に見えるものも、あるいは、自然災害でさえ、必ずしも見た目どおりとはかぎりません。物事の基本にはカルマ的責務があるうえに、一個の魂、あるいは、集団としての魂が物質界に入る前には霊的な契約を結んでいるのです。この世で起きることはすべて霊的計画の一部です。生とは、体験を通して学ぶことです。充実した生を学ぶために個々の魂はそのすべてを体験しなければなりません。自然の二元性を学ばねばならないのです。ネガティブなものを体験してこそポジティブなものの真価がわかるのです。

 

大本のみ教え

自分は生まれてからまだ別に悪いことをしたおぼえはないのに、こう年中病気であるとは、実に神も仏もあったものではない、といって嘆いておられる人もありましょうが、なるほど、あなたご自身にとっては、身におぼえの悪事をなされたことはないでしょうが、それはあなたの前生の身魂の罪科であるか、あるいはあなたのご家族の誰かの罪を引き受けておられるのであります。お筆先にも「親の罪科は子に報いる、子に泥水を飲ましておるのが分かるまいがな」と出ているとおりであって、積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃(よおう)ありということは、動かすべからざる神律であります。たとえ自分自身は死んで幽界に入ったにせよ、現界で愛しいわが子の苦しんでいるのを見せつけられては、どうしても幽界において迷わざるを得ないことであろうと思います(『信仰雑話』 出口日出麿著)

家の先祖にめぐりがあれば、その子孫に報うてくるのは当然である。
それは、生育の悪い木には、普通以下の実がなり、普通以下の種子がやどり、それが再び地にまかれても、やはり、今度は、よほどの努力をせねば、よい土地に生えても、よい結果をうることは困難であるのと同様である。
先祖は、いわば、自己を上方に延長したものであり、子孫は下方に延長したものにすぎないのである。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

肉体をもっている以上は、人は、どうしても、この肉体の保持より生ずる必然的肉欲なるものを無視することはできぬ。ただこれを、もっとも適当に満足さすことができさえすれば文句はないのであるが、これが、ともすれば、人の心を悪にみちびく動因となりやすく、自己のみならず子孫まで、いわゆる、めぐりを積ますこととなるのである。そして現代人の十人中の九人までは、すでに長い間の天則違反的行為によって、歴史的に、知らずしらずの間にめぐりを積んでいるのである。
このめぐりを払い清めて、死後、天国にのぼり行く準備をすることが、人間のもっとも留意すべき点なのである。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

現界的の禍福はまったく因果関係によるものであって、世には、自己の不幸つづきを嘆いて「神も仏もあるものか、世間はこんなに冷たいものなのか」などと神仏をうらみ、世間を呪う人々もすくなくないが、それは、一面、無理もないが、また、その人の考え方が浅いともいいうる。なんとなれば、たとえ、その人は至極の善人であっても、その家、その先祖のめぐりは、どうしても負わねばならぬし、とくに、その人自身の過去の罪というものも逃れるわけにはゆかぬからである。だから、かかる人たちはますます善心を発揮し、神仏を尊敬して、少しでも、めぐりを軽くするよう、心にこの上のめぐりを積まぬように努力せねばならぬ。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

○○氏は善人でもあり、覇気も智謀もあって、個人としては立派な人であるが、悲しいかな、家のめぐりを大分背負うている。
これはある意味において、神さまから、身魂をきたえんために、わざとこうした家へ生まれさしたので、どうしても信仰を向上さし、神業奉仕によってめぐりを除っていただくより外にいたし方がない。
一般にこうした人へ注意しておきたいのは、少し理智的な人は、どうしても小我が出すぎてバカになりきれないから、神業に奉仕する上においても、周囲の人のやり方の粗雑さなどがまず目について、そんな人と一緒に事をするのが気がすすまぬということである。
これは要するに、も少し神に直面し、清濁をあわせ呑むという度量がないからである。
(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

「めぐりというものは何でございますか」
「前世における霊魂の罪障だ」
「なぜ誰にでも、自分の前世は何物であったかということが分からないのでしょうか」
「すっかり忘れとるのだ」
「思い出すわけにはゆきませんでしょうか」
「現界において、去年の今月今日に自分は何をしたかということさえ、普通、思い出すになかなか困難であろう。前世において、自分は何の誰兵衛であり、どこに住んで、何をしたかというようなことを、はっきり意識していることは、一旦嬰児の境涯をへて来る現界人にはとても困難だ」
「嬰児の時分は想い出す力がなくても、成長してのちに、ちっとは分かりませんですか」
「成長するにつれて、現界的な印象がいよいよ強く明瞭に頭にまぶれつくから、よけい前世のことなどは分からなくなる。しかし、なんとなく気持において、過去世における自分の境涯が想像されるような気がする時もあるものだ。ごくまれには、自分は前世には何の誰某であったと、先天的におぼえている人もある」(中略)
「化神というのは変化の神ということで、ある他の体――大抵はずっと格の下の――を借りて宿っている、すなわち変装している神霊ということだ」
「格を落としてのお働きはお苦しいでございましょうな」
「むろん。だが、これもわしのめぐりじゃ」
「あなたにもまだめぐりがございますか」
「けがれ果てた地上の守護に任じ、それと接触せる霊界に出入りしているのは、地上との因縁がまだ切れきらぬからだ」
「宿命的に自分の身にくっついている環境はめぐりによるのですか」
「そうだ」
「霊界の広さはどれほどありますか」
「無限だ」
「天国も地獄もそれぞれ上中下三段に別れているということを聞いていますが、そうでございますか」
「大別して各三段、あるいは五段、あるいは七段というだけで、中別、小別すれば無限の段階があるのだ」
「地獄へおち入ったなら、もう再び浮かび上がることが出来ないと申しますが、そうですか」
「そんなことはない。改心すれば、かならず向上してくる」
「どういうことが改心でございますか」

「神を信じ、神をみとめ、神に従うことだ。他力の中の自力であることを知ることだ。一切のもののために、相応の奉仕をすることが、真の生活であることを悟ることだ。天国的の人と地獄的の人とは、より奉仕的であるか、より利己的であるかによって分かれる」(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

 

この時、天使が見えた。
私「あの人たちはなんですか」
天「利欲一方の信仰は、ああいう状態にあるのだ。あの人たちは、まだ神第一ということが分からないのだ。すべては上から来るということが悟れぬのだ。そして遮二無二あせっているつもりで、実はおなじ穴の中でお百度をふんでいるのだ」
私「どうしたら外へ脱け出ることができるんでしょう?」
天「こんなことをしていても詰らない、こんな所はいやだ、という気持さえ充分わいたら、自然に上方に足が向くのだ。いやな所にいつまでも頑張っており、あくまでも義理立てをしたり、つまらないことに得意がっているなどは、まったくの偽善だ」
私「しかし現界では境遇上、いたし方なくいやな所におり、つまらないことをしておらねばならぬ場合が多うございますが……」
天「周囲の事情がそうなっている間は、その人にめぐりがあるからだ。覚悟と努力が足らぬために、脱け出られる境遇をも脱け出ずにあがいている人たちの方がずいぶん多い」(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

〝めぐり(罪障)〟をとるために必要なこと

人間は生まれたときには全く無力な存在です。人間は多くの人に迷惑をかけ多くの人の助けによって成長してゆきます。年を取れば、できないことも増え人の助けが必要になります。

また、病気や人間関係など様々なトラブルに見舞われ、人の助けなしには生きていけない場面にも遭遇します。人間は他者と社会とのかかわりの中で、支え合い、許し合いながら生きています。
どんな人にも、いろいろな欠点はあります。自分の心の鏡に暗い影があると他人の言動や行いが暗く嫌なものに映ります。

〝めぐり(罪障)〟をとるためには、人間本来の自然な姿を忘れずに、常に「素直な心」と「謙虚な姿勢」と「感謝の気持ち」を持ち寛大な心で接することが大切です。

また、他人を批判したくなる心を押さえて、他人を許し、自らを省み他人を悪く思い自分だけが正しいという気持ちを起こさないように脚下照顧の精神を心掛けることが大切です。

出口王仁三郎聖師の教えに「何事も善意に解釈するのだ。物事を悪意に取れば何もみな悪になつてしまふワ。……(『霊界物語十六巻』)」とあるように、自らの心の持ち方ひとつで、すべての物事は善にでも悪にでもなります。

大本のみ教え

天国団体の最も富めるものは、現界にあるうちに、よく神を理解し、愛のために愛をなし、善のために善をなし、真のために真を行ひ、自利心を捨て、さうして神の国の建設のために心をつくし身をつくし、忠実なる神の下僕となり、かつまた現界において充分に活動をし、その余財を教会のために捧げ、神の栄えと道の拡張にのみ心身を傾注したる善徳者が、いはゆる天国の富者であります。つまり現界において宝を天国の庫に積んでおいた人たちであります。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

小さい、現界的の目前のことばかりに執着せずに、大きい、生死を超越した心になって、何ごとも惟神にまかして、いかなることに対しても感謝をささげつつ、未来を楽しみに暮らさねばならぬ。つねに内に省みて、自分自身のいかに汚いものであるか、小さい弱いもろいものであるかをよく知って、謙虚な無邪気な心で、周囲を、つとめて、広くにぎやかに、あたたかく開拓することを忘れてはならぬ。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

楽天楽天といったところで、徹底した霊肉の清潔法がおこなわれたあとでなくては、腹の底からの楽天にはなれぬ。
徹底した霊肉の清潔法は、徹底した自己の無力と罪障(めぐり)の自覚からでなくては行えない。自己の無力はいろいろ事にあたってみれば分かる。罪障のことは、自己が蔵せるもろもろの悪しき想念と悪しき性癖との数量にかならず比例しているものであるから、よく内に省みて、われと吾を検出してみれば気がつく。
「自分は」という気持のある間は、真の信仰へはなかなかはいり難い。「阿呆になりて、真に〝いろは〟の〝い〟からやり直す」心がけこそ肝心である。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

個人的にも家族的にも、みたまのめぐりを除りきるということはなかなかであるが、やはり、思いきって積極的に活動奉仕している人たちは、このことが早い。
楽な、ひっかかりのない気持、無邪気に受け入れ、無邪気に働きかけることのできる境地まですすまなくては、永年信仰していても何の効(かい)もないことになる。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

富める人たち、もし真に子孫のためを思わば、よろしく適当に財を散じて徳を積みおくがよい。われ一代の富貴を希(こいねが)いて、子孫末代の禍根を植える人ばかりである。
(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

めぐりは信仰により、神恩によって解くる日を待つよりほか仕方がない。あくまで徹底的負責の覚悟がなくてはならぬ。恨みや悔をながくあとに残すようなことのないように充分なる理智がいる。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

信仰的になれば物事に感謝の気持ちができ、卑下した気持ち、反省心ができて、しじゅう謙遜の気持ちになれるからして、めぐりをつくる機会が少なくなる。人から怨まれたり、執着されたりするというような原因をつくるような態度にでないようになる (『信仰叢話』 出口日出麿著)

おそかれ早かれ、めぐりのあるだけは必ず出て来るのであるから、早くから徹底した信仰にはいって、大死一番、神第一の生活に邁進することである。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

たがいに許しあい助けあって、仲よく面白く天地の大神業に参加したい。宇宙間の森羅万象、一として絶対不用とか有害とかいうものはないのです。どんなものでもみな、それぞれの時と場所とさえ得たならば、善であり美であり真であるのです。生存は事実であり、理論は遊戯であります。
何はともあれ、われわれは、仲よく暮らしてゆかなくてはなりません。いかに文化が進んでも、お互いに争い、おたがいに気まずい思いをして暮らしていては、一向、生きがいはありません。第一、文化そのものが意義をなしませぬ。
お互いに仲よくするためには、まず第一に、つねに自己を空しゅうするということが必要であります。つねに我執に充ちみちている人は、どうしても公平にものを観ることができず、また人を恨んだりそねんだり、疑ったりしがちになるのであります。これが一番悪いことです。
でき得るかぎり自己を犠牲にして、他人のためをはかるという心がなくては、とうてい、円満に社会をつくることはできません。常に自利にもとづいて行動するから、心配が絶えないのであります。一切を惟神にまかして、禍福吉凶の外に立ち、悠然と天地の公道を闊歩する覚悟が必要であります。」(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

すんだことばかりを何とかかとか餅について暮らしているのは、ちょうど、顔をうしろ向きにしながら歩いているようなものであり、前途のことばかりをくよくよ、せかせか案じているのは、上半身だけを前へかがめて、足もとを見ずに進んでいるのと同じである。
過去も未来も考えるなというのではないが、現在を忘れ、なぽざりにしていては、まるで夢遊病者のような生活になってしまう。ところが世には、いま、今のことに最善をつくす楽しみ――たとえ、それが苦しくても――を忘れて、いたずらに過去を追い、未来にあこがれて、心身を一点に集中した生活をしていない日とが実に多い。どんな境遇であり、どんな時であっても、天より自分に授けられた唯一のものなのであるから、これを積極的に享け楽しむ心がまえが必要である。そして、だんだんに、よりよき境地へと突破して進むべきである。これより外にいたし方はない。
誰もが自己の現在を呪わしきもの、悩ましく痛ましきものに、ともするとしてしまいがちである。となりのボタ餅はうまい、の諺のごとく、他人は幸福である。結構であると、他人のことばかりを羨みたがるものである。また失敗があっても、これを世間のせい、他人の罪に帰したがるものである。これではいけない。あくまでも現在を見つめ、自己を見極めたしっかりしたその日、その時でなくてはならぬ。」(『信仰覚書』七巻 出口日出麿著)

東海教区特派宣伝使 前田茂太