沓島と冠島
コラム

「和を以て貴しとなす」

人への思いやりや礼儀を重んじること

コロナ禍で、これまであまり表に出てこなかった、人間の感情の深い部分がむき出しとなり、さまざまな場面で考え方の相違に端を発する「分断」が生じ、「自己責任」が過度に強調された「自分(たち)さえ良ければいい」という考え方がまん延しています。

この世は、さまざまな存在とお互いにつながり、関わり合って、大きな社会を形成しています。自分一人で働いてお金を稼ぎ、誰にも迷惑を掛けずに一人で生きているように感じていますが実は違います。毎日食べているお米の「米」の字を分解すると「八十八」になります。これは、お米を作るには八十八もの多くの手間をかけて育てられていることに由来しています。

このように、毎日食べるお米一つとっても、食卓に上るまでの経路の中で、多くの人の力を必要とします。人間の社会は、多くの人の力で支えられています。「分断」をなくすためには、お互いの考え方を尊重し、誰もがお互いに支えあい、人への思いやりや礼儀を重んじることが必要だと思います。

 

俯瞰力

俯瞰(ふかん)力とは、物事や事態、思考を全体的に眺めることができる力で、問題を解決するために必要な力だと言われています。

既成概念にとらわれた狭い視野で自分本位に物事を見ていると、他人の考えや立場を理解することができず感情的になり、問題の本質を見抜くことができません。
広い視野を持ち、物事を俯瞰(ふかん)的に見ることで、見渡せる範囲が広がり狭い視点に立っているだけでは気づかなかった情報にも気付くことができます。

俯瞰力を身につけるために、常に自分自身を省みることを心掛け、”想像力”を働かせ相手の立場に立ち、深く考える習慣をつけておくことが大切です。

 

和合の要訣

特に、現代のような自己愛のみの世のなかでは、他人との交際においてつねに自己中心であるがために、ちょっとしたことにも恨み怒りて、そのことを何時までも忘れず、ながく時間がたったのちも、お互いに気まずい思いをしているというのは実に多い。すでに一方は、なんとも思っていない場合にも、われと吾が心の狭小さから、いつまでも、まずい思いをして世をせばめているということも、また少なくない。しかし我々は、ぜひ、こんなことは止めにして、あくまでもお互いに了解しあい、和合し合うようにと努力せねばならぬと思う。
考えて見るに、どんな人でも誰かの子であるか、また親であるか、または兄弟であるに違いない。わが親を恋うるがごとくに、その人も親を恋うるに間違いなく、わが子を愛するがごとく、その親もその子を愛するに間違いなく、また、わが兄弟と親しむごとくに、その人もその兄弟たちと親しんでいるに違いない。しかるに、他人の子であるといって憎み、他人の親であるというので虐待し、他人の兄弟であるというので平気で排斥するというのは、要するに、人々の心境が、お話にならぬほど狭小であるがためにほかならぬ。お互いに、真にゆるし合うという修養が、まだまだできていないからである。自愛と自我と先入主との窓を通してよりほかに、世界を視るすべを知らないがためにほかならぬ。一時、自己を屈することを、永遠に屈するかのごとく思い、一時、自己を譲ることを、永遠に譲ってしまうかのごとくに考えている狭量な人たちが多いからである。(『信仰雑話』 出口日出麿著)

 

お互いに和合一致しようと思えば、先ず、お互いに知り合い、理解し合わねばならぬ。かくて初めて相互の立場を見出し、つねに安全なる調和点において交際することができる。これは単に、人間同士の間のみについて言ったことではなく、人間と動、植、鉱物その他一切との交渉においてもまたそうである。
お互いに知り合い理解し合わんとせば、まず、お互いに親しみ合い、容れ合わねばならぬ。いかなるものに対しても、これを損ぜないように、相互に与え合うことを念とせねばならぬ。自分の持っているものを他人に与えたならば、それだけ自分の所有物が減って、たちまち損がいくではないかと、物質的に考える人があるかも知れぬが、これは単に、その小局と瞬間とのみにしか生命を持っていない人の考え方である。永久の生命よりみれば、与えたことは、それだけ自己の領域をひろめたことで、やがて、その領域からの所有物は、そのまま自己に帰って来ずにはおらぬのである。ただ現界的時間的にみて、与えたと同時に帰って来ないだけである。だから、その人が、他の一切に対して有する好意と親しみの量そのもののみが、その人の有する真の全財産なのである。そして、この全財産を相互に出し合って事業をいとなむ時は、実におどろくべき大偉業がなし遂げられ、相互に大なる利益と幸福とを受けるわけになるのである。(『信仰雑話』 出口日出麿著)

 

和は神の心で、宇宙自然の姿であります。その和には順序というものと、それから犠牲というものと、まずこの二つのものが肝心であります。行動の上においては順序であるが、精神的にいえば信である。形では犠牲ということになりますが、これを精神的にいえば愛である。いくら「和合してゆけ、親しめ」と説いても、相互に信がなく愛がなかったら精神的の和合はできん。信のない世界は砂漠であり剣の山であり、愛の世界は氷山であり底なしの穴である。信と愛とが徹底しがたいのは、要するにわがままであって、知恩および報恩が信仰生活の基本である、ということを充分に知らぬからであると思います。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

十人が和合すれば一人で十人の力が出るものだ。和合の要訣はお互いに忍耐し合うことだ、縁の下の力持ちをする気にならぬといかぬ、眞の御神徳は目に見えぬ所にあるものだ。(「真如の光」昭和四年一二月五日号 出口日出麿)

 

多勢の人が一致して始めて大善が出来る。そして多勢の者が一致するにはめいめいが自分自身を半分あるいは時によると全部を犠牲にせねばなりません。(「神の国」昭和五年六月号 出口日出麿)

 

自分を善いと思い人を悪いと思う、省みてこの気持ちをなくすようにしなければなりません。人には寛大にせよ自分には厳格なれ。神の道にある者は此の心掛けがもっとも大切であります。(「神の国」昭和五年六月号 出口日出麿)

 

自分だけが特別に善くつくられたはずはない。神さまは用のないものは造られない。人間の目で見て悪人であっても皆神さまの用のために造られている御苦労な役を演じてくれている。悪人に対しても物品にしても善い気持ちをもって大切にしなければなりません。(「神の国」昭和五年六月号 出口日出麿)

 

自分に都合の悪い人を憎み、うらむのは小人の常だ。いかなる人とも和合して、これを徐々に引き上げようとするのは宣伝使の常だ。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

人の和合一致ができたなら、仕事は自然に容易にできて来る。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

理屈で人を説服さすことはできぬ。魂と魂との和合、謙遜にあらずして、真の解決はあるべからず。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

 

魂の真の歓びは和合である。両者の区別がつかぬほどに融合してしまった時ほど大なる歓びはない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

統一の重要性

主の神たる神素盞嗚大神は、愛善の徳をもつて天界地上を統一したまひ、また天界地上を一個人として、すなはち単元としてこれを統御したまふのであります。たとへば、人体はその全分にあつても、その個体にあつても、千態万様の事物より成れるごとく、天地もまた同様であります。人間の身体を、全分の方面より見れば、肢節あり機関あり臓腑あり、個体より見れば、繊維あり神経あり血管あり、かくて、肢体の中にも肢体あり、部分の中に部分あれども、個人の活動する時は、単元として活動するごとく、主神は、天地を一個人のごとくにして統御したまふのであります。
ゆゑに、あまたの宣伝使もまた、主神一個、神格の個体すなはち一部分として神経なり繊維なり血管なりの活動をなしつつあるのであります。天人や宣伝使のかく部分的活動も、みな主神の一体となりて神業に奉仕するのは、あたかも一個の人体中に、かくのごとくあまたの異様あれども、一物としてその用を遂ぐるにあたり、全般の福祉を計らむとせざるはなきに由るごときものであります。すなはち、全局は部分のために、部分は全局のために、何事か用を遂げずといふことはありませぬ。けだし、全局は部分より成り、部分は全局を作るがゆゑに、相互に給養し、相互に揖譲するを忘れない。しかして、その相和合するや、部分と全局とに論なく、いづれの方面から見ても、統一的全体の形式を保持し、かつその福祉を進めむとせないものはない。これをもつて一体となりて活動し得るのである。主神の、天地両界における統合もまた、これに類似したまふのである。
凡て物の和合するは、各その為すところの用が、相似の形式を踏襲する時であるから、全社会のために用を為さないものは、天界神界の外に放逐さるるのは当然である。そは、他と相容れないからであります。用を遂ぐるといふことは、総局の福祉を全うせむために、他の順利を願ふの義であり、そして、用を遂げずといふは、総局の福祉いかんを顧みず、ただ自家のためのゆゑに、他の順利を願ふの義である。これは、すべてを捨てて、ただ自己のみを愛し、彼は、すべてを捨てて、ただ主神のみを愛すといふべきである。天界にあるもの悉く一体となりて活動するは、これが為である。しかして、かくのごとくなるは主神よりするのであります。諸天人や諸宣伝使自らのゆゑではない。何となれば、彼ら天人や宣伝使は、主神をもつて唯一となし、万物のよりて来る大根源となし、主神の国土を保全するをもつて総局の福祉と為すからであります。
福祉といふは正義の意味である。現世にあつて、国家社会の福祉(正義)を喜ぶこと、私利を喜ぶより甚だしく、隣人の福祉をもつて、自己の福祉のごとくに喜ぶものは、他生においては、主神の国土を愛してこれを求むるものである。そは、天界における主神の国土なるものは、この世における国家と相対比すべきものだからである。自己のためでなく、ただ徳のゆゑに徳を他人に施すものは、隣人を愛することになるのである。天界にては、隣人と称するは徳である。すべて、かくのごときものは偉人であつて、すなはち高天原の中に住するものである。
三五教の宣伝使は皆、善の徳を身に備へ、かつ愛の善と信の真とを体現して、智慧と証覚とを本具現成してゐる神人ばかりである。いづれも、主の神の全体または個体として、舎身的大活動を不断に励みつつある神使のみで、実に、神明の徳の広大無辺なるに驚かざるを得ない次第であります。願はくは、大本の宣伝使たる人は、神代における三五教の宣伝使の神業に神習ひ、一人たりとも、主の神の御意志を諒解し、国家社会のために大々的活動を励み、天国へ永住すべき各自の運命を開拓し、かつ一切の人類をして、天国の楽園に上らしむべく、善徳を積まれむことを希望する次第であります。(『霊界物語』第四七巻 出口王仁三郎著)

 

統一は四つの主義の中でいちばん大事なものであります。統一の重要性、これは言わずしてわかると思います。統一がなかったら、すべてめちゃめちゃである。すべての生命、生命体、生命力は統一の状態において、はじめて完全に発育して行くことができる。統一がなかったら芽を出すことも発育してゆくこともできない。だから、何よりも万物は統一を願う気持ちが意識的に、また無意識的にいちばん強い。
「統一」というのは、要約しますれば「中心帰向の調和相」とでも申しましょうか、物があれば、必ず中心がある。一軒家があれば家の大黒柱がある。人が住んでおれば主人があり、国があれば王がある。人間がおれば、統一の中心、頭がある。そしてその中心へことごとく帰り向かうというのは、その方へ引っぱられており、つられており、向かっており、連絡を保っている。これが遠心力であり、求心力である。これはすべてにある。これも単に人間にあるとか、一軒の家にあるとか、国にあるというようなものでなしに、全体においても個々においても、いちばん重要な部分、肝要な位置というものがあり、これを囲んで種々の部分があるのであります。そして中心と部分、および部分同士の間に円満な調和がなければいけない。雑然として、むちゃくちゃに個々が勝手にやっているのではこまる。たとえば頭に対して、手や鼻や足などがそれぞれ連絡を保っているが、手は手で勝手に頭と連絡を保っており、鼻は鼻、足は足で勝手に頭と連絡をとっているのであれば、全体としての統一がとれない。それらが調和していなければならない。
そして天地は全一体の統一体である。統一体であるから、宇宙の個々である小さい星も、あるいは分子も、電子もことごとく統一体である。宇宙そのものが統一体であるから、小宇宙である人間も統一体であり、人間の集まりである社会も統一体でなければならない。虫一匹、畳一枚、あらゆる分子、電子に至るまで、何一つとってみても統一体である。ここが面白いところであって、全体と単個、または個々相互間に機構上に相似がある。そこで共鳴とか、感応とか、同情とか、普遍とか、共通とかいうことがあり得るのであります。
大局的にみて森羅万象はおなじ大本元によって統一されている。大本元とは真神である。真神を知らねばほんとうの統一へまでは行けぬということになるのであります。ほかのものではなかなか統一ができない。万物共通の大本元、これを認め、これに順応してゆくという気持ちになれば統一は一番しやすい。
前述のごとく、まず中心が確立し、その周囲に個々があり、その相互関係が調和している時、ここに真の統一があるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太