「悪平等」

鳳雛館室内からの梅園

「差別」と「区別」

「区別」とは物事の客観的な違いを認識し、それぞれが本来持っている個性や特性の違いで分けること。
「差別」とはその違いに合理性のない価値観を持ち込み、性別、人種、病気、住んでいる場所など、本来持っているものに差を作って、一方を不当に扱うこと、とそれぞれ定義されています。

難民支援を例にあげると、生命を尊重するという点では共通していますが、幼い子ども、お年寄り、男性と女性、健康な成人、病気の人など、それぞれ置かれている状況が違うので一律に同じ対応はできません。また、事故や災害発生時に多数の傷病者が出た場合、傷病の緊急度や重症度に応じて治療優先度を決めるトリアージと呼ばれる行動が行われます。これは「差別」ではなく、多くの命を救うための「区別」です。

法華経の経文に「一地の所生、一雨の所潤なりといえども、しかも諸の草木、各差別あるが如し」とあります。これは、天から降る雨は、地上の草木に平等に注ぐが、草木の大小や種類によって吸収する水の量は異なるという意味です。
すべての人間は生まれた時から神さまから平等に魂を分け与えられています。しかし、病弱の人もいれば、健康な人もいます。また、お金で苦しむ人もいれば裕福な人もあり、それらすべてを平等にしていくことは不可能です。神さまの前では、すべての人間は等しく平等ですが、現界においては、年齢、境遇、性格、思想等すべての点において平等ではなく、草木の種類のように、ひとりひとりに違いがあります。

社会には、お互いの違いを認め合う「平等」と、個々の違いを知る「区別」が存在しています。
悪平等とは、個性や能力などの違いを無視して、多数の主張を尊重するあまり、形式だけ平等に扱い逆に不平等になることです。

多様性が叫ばれる今だからこそ、悪平等、全体主義に陥らないために、お互いの立場を尊びながら和を保つ、順序と礼儀が求められているように思います。

 

大本のお示し

人間といっても、いろいろの精神的階層があります。大別して次に二者があります。
物質にめぐまれておれば、それで満足している方たちと、それだけでは何かもの足りなく精神的なものを求めていなければさみしく感じる人たちがあります。これらは、その精霊が前世に所属していた世界に原因があるようです。
民主主義は結構ですが、ここで、悪平等におちいらないように気をつけなればなりません。このことは大切なことなのです。一つのものごとにも精神的な意味、霊的な意味を見出そうとする人々と、まったく物質的に、自然的に割りきってしまう人々とでは、大きな違いがありましょう。後者は、いくら物質的な人でも、死に直面した時は、あわてるように救いをもとめるものです。(『寸葉集』第一巻 出口直日著)

 

師と友だちと、そして後輩と、やはり信仰の家にそれぞれけじめはあるべきでしょう。ともすると、悪平等になりやすいものです。神さまともなれば、ご飯の上をはばからず飛びまわる蝿の類でも、なんともおぼさないでしょうが、人間の世では、見る人の心がいろいろあるでしょうから、一視同仁には神心で、受ける方には受けるだけの心構えと礼儀がいるのかも知れません。(『寸葉集』第二巻 出口直日著)

 

それにつきましても、わたくしが、信者の皆さまに、こいねがいます一つのことは、お互いの信仰に順序と時処位による礼儀を尊重して、一大和合による神光輝く大本にさしていただきたいことであります。
これまでみ教えの「人は神の子」という聖言を〈人はみな神さまのみ子〉という一視同仁の立場でのみ受けとってきた傾きがありますが、聖言には〈すべての人が神のみ子としての天賦の霊能に活きてそれぞれの使命を達成しなければならない〉という意義をも諭されているのであります。したがって、そこには、万神の千々に別ちて働きたもう如き、秩序と和合がなければなりません。人の子もまた順序と礼儀と親愛をもって、これに従うのでなければならないとおもうものでございます。(『教主ご教示集』出口直日三代教主)

 

悪平等観はいけない。悪平等観というのは、一切をそのまま平等なりと考えることである。
おれも人間なら、お前も同じたて鼻よこ目の人間だ、どこに違ったところがあるか。そのおなじ人間が、ある少数者は位と富とを擁して威張っており、大多数は碌々として苦しんでいるというのは分からんじゃないか。おなじ人間なら、おなじように富と位を分け合うて、上下、貧富の階級なしに仲よくやっていったらいいじゃないか … と、まあ、こういうふうに考えるのは、ちょっと聞くと無理もないように思えるが、実は大変な間違った考え方なのである。
おなじ種子を同一の苗床にまいても、日を経るにしたがって、苗に甲乙優劣がついてくる。さすれば、良い苗はよく取り扱われ、悪い苗は悪く取り扱わるるは必然であり、また当然である。
形においては、おなじたて鼻よこ目の人間であっても、その宿命的天分、現界的才能、努力、信仰等々においては、いろいろと差があることは争えないことである。したがってこの社会に、上下、貧富の差別が出来るのはやむをえないことであり、また当然のことなのである。
おれ等は苦しみ悩んでいるのに、あいつ等は贅沢をし、威張りちらしている、実にけしからんと、自己の至らざる点は棚にあげておいて、ただ単に世を呪い人を恨む浅薄な思想が、このごろ伝染病のような勢いで蔓延しているが、これは実に、信仰と努力と真の自覚とのない時代相を適切に見せているのである。
しかし一面、利己主義一点ばりの人物が上に立って、狡猾にふるまっているという案外なことがないとも限らないが、それは、社会人に自覚と教養がまして来るにしたがって、もうダメになることである。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

 

悪階級観というのは、現在の階級をもって絶対視することである。したがって、上の者は下の者を理解し、誘導することなしに、単に軽侮し酷使するにいたり、下の者は上の者に何ら敬愛を感ずることなしに、偶像的に尊信するにいたるのである。
これ明らかに、封建の世の遺物である。(『信仰覚書』第七巻 出口日出麿著)

 

私たちは、子供のころから長幼の序ということを厳しく言われてきました。封建的だという人もいるかも分かりませんが、私は大切なことだと思っています。男尊女卑はいけませんが、年上の人を敬い大事にするということは大切です。儒教の精神を大事にする韓国では、それがしっかりと守られているようです。たとえば、「あなたの弟さんはタバコを吸いますか」と聞いても、吸っているのか、いないのか分からないそうです。つまり、年上の人の前ではタバコを吸わないから、兄弟であっても分からないということです。近ごろでは韓国でも、やや薄れてきつつあるそうですが、順序は大切なことです。親も子も、兄も弟も平等というのはいけないと思います。それは悪平等です。(『つるかめ日誌』教育編 出口聖子著)

 

大本は差別的平等を説き悪平等のマルクスを排す
マルクスは無差別的の悪平等我が日の本にそはぬ説なる
ブルジヨアはブルジヨアとしての平等ありプロはプロとしての平等あるなり
資本家は資本家としての平等あり労働者は労働者らしき平等あるなり
大臣は大臣として資本家は資本家として平等をまもれ
貴賎貧富賢愚位置によりおのおの平等ある世なりけり
人はその時所位によりて平等あるを上下一致の道といふなり
マルクスに心酔したる青年のおほき現代は禍ひなるかな
無差別なマルクス主義の平等は皇国の基礎をくつがへすなり
マルクスや赤い書籍にあらざれば売れゆき悪しき世こそいまはし
マルクスの悪平等を用ふるは自ら亡びにおちいると知れ
名位寿富是ぞ神賦の正慾ぞ働かざれば名もとみもなし
貧民は浅薄至極なマルクスを謳歌する世ぞ禍ひなるかな
マルクスを実行したる国をみよ民は塗炭の苦をなめてをり
(『東の光』 出口王仁三郎著)

 

統一のなき世の中はなにもかも麻の乱れの治まるときなし
順序あるところに神はゐますなり順序なければ道は乱るる
家内中一致同心なきときは団欒のたのしみ永久にきたらず
構成の力すぐれて強ければ一切のこと統一さるべし
真正の結合力のなき国は時じく内訌絶ゆることなし
地の上にあまたの国はありながら信ずる神は一つなりけり
進みすすみゑらぎ喜び魂を清めて一つ神につかへむ
(『大本の道』 出口王仁三郎著)

 

神の教さかんになり、人々は礼儀をおもんずるにいたらば、天が下に戦いや争いのおこるべき道理なし。かくならねば天下は太平にはならぬ。豊葦原の瑞穂の国は、まことの神国にはならぬ。
(『道の栞』 出口王仁三郎著)

 

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太