「おかげをいただきやすい人」

亀岡天恩郷菖蒲

おかげとは

「おかげ」とは、人々の助けや神仏から得る恩恵です。
神仏からの恩恵は、すべての生きとし生けるものに平等に行き渡っていますが、素直な人ほど神仏からの「おかげ」を受けやすいとされています。
逆に、疑い深く自己中心的で陰気な印象を与える人は、神さまからの「おかげ」を受けることが遅くなると教えられています。

人生には悲しいことや苦しいこと、さまざまな問題が起こります。
楽な生活の中では真に自分の魂を成長させることはできません。
本当の「おかげ」は、困難な状況に置かれ、神さま以外に頼るものがないと、心の底から神さまの存在を求めたときに得られるものと言えます。

どんな苦しい状況に置かれても、将来のことはわかりません。
先のことを考えてもわからないならば、今できること、やるべきこと、やりたいことに集中し、素直な心で全てを神さまに任せることで、神さまからの「おかげ」を受けやすくなります。

大本のお示し

ものごとがトントン拍子にばかり進むということだけがご神徳ではないとおもいます。思いがけなくつまずいたとしても、かえってそのことが、霊的には大きなお蔭になることもあります。わたくしは、むしろ後者の中に、人生の真実をつかみうる機会があるのではないかとさえおもいます。
その意味で、失敗やつまずきを、けっしてなげいてはいけないとおもいます。反省して学ぶべきものをつかみとれば、明るく懸命に、飛躍にむかって勇往邁進すべきだとおもいます。
わたしのところへ、神さまにお願いしてほしいとたのみにみえて、わたしが、ご祈願をさしていただきましても、お蔭をいただかれる方と、いただかれない方があります。たのみにみえた初めから、こういう性格の人が、お蔭をいただかれることは至難なことに感じられる方がいます。
素直な人ほどお蔭をいただきやすく、へんにひねくれて、陰にこもった人は、どうしてもお蔭の受け方が浅く、おくれます。
肉体の機能が停止して、霊魂が脱離していく前には、それだけの非常な苦しみをともなうのが当然でしょう。アッという間のことでも、集中された苦しみの中におかれるものです。その時、人は誰でも神様のごやっかいにならなければなりません。
信仰ある人は、神さまのお蔭を受けやすくできていて、その時をも、安らかに越えさしていただくことができます。そのため、眠るが如く他界さしていただけるので、それが、どれほど有難いことかは、死者でなければ、あるいは、やさしい心根の子孫でなければ分からないでしょう。(『寸葉集』第一巻 出口直日著

大本は神さまがお出ましになってお立てになった団体ですから、ご奉仕第一に精進さしていただけば、惟神にご神徳を発揮さしていただくことができます。大本としてふさわしくないとおもわれることには、何かの時に厳しく反省していただき、思い違いや思い上がりのないようにしていただきたいとおもいます。それについては、神さまの摂理が、人々の上に反省を求めて、やさしくくるいなく、きわめて自然に現われているとおもいます。
ともかく、人のことばかりが気になるのではなく、まず自分のことによく注意して、和合へ、大和へと向かうのでなければなりません。それができないのであれば、自分のどこかが違っていると考えていただきたいとおもいます。
苦境にあって切実に祈り求めた時、与えられるものが太い綱とばかり思ってはなりません。それは、クモの糸のようにかぼそい時もありました。それなのに糸よりも細い神さまからのものが非常なお力になっていただけるのでした。絶望の壁にとざされてみると、糸のようにか細くても、神さまからのものに頼る、それだけで安心していられました。拝むよりほかない苦境にいて、ただ拝んだということだけで、一条の光明をいただき、それにおすがりすることができました。人の一生には、いろいろのことがあり、一度のいろんな問題がおこることもあります。そうした時は誰でも心がゆれ動くものです。さびしい気持ちになるものです。その時ほんとうの力になっていただけるのは、信仰のおかげでした。拝むことによっていただく、まことに細い糸が、なんともいえない力になりました。
これと反対に、人間が知性で神さまをつかもうなどとかかっても、つかめるものではありません。〝私には、ついに神さまはつかめなかった〟などと言っているのは、〝私は生意気な浅薄な人間です〟と広言しているようなものでしょう。神さまをつかもうとすることも無理ですし、神さまをにわかに分かろうとすることも無理なことです。近代人は何かにつけ、人間の理性でものをつかもうといたしますが、なににしても、ほんとうのものは、それだけでは、かなえられないでしょう。神さまに通じる唯一の法は、素直な気持ちで祈らしていただくこととそれより来たる体験よりほかにないと思います。
人間は誰でも、陽気な明るいものを好みます。他人に対して陰気な感じを与える性格の人は大方、まず不遇な環境に影響されています。環境に対する不満で自分の気持ちを押しつぶされています。そこで、環境にたいして抱いているひがみをほぐすだけのゆとりを心にもつことでしょう。信仰にはいっている人は、それだけの努力をするのでなければなりません。そうして、自分の性格を明るくさしていただくことが、ほんとうのおかげです。そのお蔭をいただけば、世間的な、人間的なおかげも、それによってその人についてくるものです。(『寸葉集』第一巻 出口直日著

ほんとうは究極的には、すべてが有難いので、くやみ言など並べていては、ご神徳のいただけるはずはありません。あとになって考えてみると、何もかも有難いのでありますが、その時には、そうも思えないのが人間の浅はかさというものでしょう。何か困った時には、悔み言をいう代りに、何がそうならしめたかを反省し、目のつけどころを上の明るい方へ向けることです。
ものごとを、霊的に精神的に暗く傾けないで、現実的に明るく処理することの方が、かえって信仰的な歩み方に就かしてくれることもあります。(『寸葉集』第二巻 出口直日著

信仰している方は、どことなく謙虚でつつましいものを宿しています。それは人間の力の及ばない偉大な力の前にひざまずいた経験から、おのずから身につけられているものです。また日々、自分の力だけでなく大きなご加護によって生かされているという感謝の気持ちから、どこからとなく、しずかなへりくだった安らぎが漂い出てくるものとおもいます。そうすれば、当然そこには、清らかで折り目正しい姿を求めることになり、世間の礼儀にたいしても、率直にこれを学びとって身につける気持ちが湧き出てくるものとおもいます。(『寸葉集』第一巻 出口直日著

医者から癌と診断されてしまうと、人間ですもの、その時は気持ちの動揺するのもいたし方ありません。
けれども、信仰をさしていただいているのですから、心の動揺から早く立ち直って、神さまをしっかりと拝ましてもらうことです。
できるだけ神言をくりかえし奏上さしてもらって、しつようにお願いされることです。これまで自分の心に、また体に無理をして来たことがわかれば、そうなったことをよくおわびして、ご神書をいただきつつ楽にさしていただくことです。医者がサジをなげた病気でも信仰でご神徳をいただくことは、いくらでも実例のあることです。神さまにいっさいお任せさしていただくことができれば、すばらしいお蔭もいただけます。(『寸葉集』第一巻 出口直日著

東海教区特派宣伝使 前田茂太