「三途の川」

綾部大橋霧

現界と霊界の境界

大本の教典では、人間が死期を迎え肉体を離脱した後、ほとんどの人が直ぐに、天国地獄の中間に位置する中界(※)に進んで行くと示されています。一般的に亡くなった人が渡るとされる「三途の川」は、現界からいよいよ霊界に行くという一つの境界で、中界に至る道中にあります。他に「八洲の河」、「天の安河」とも呼ばれています。
霊界では、同じ風景でも見る人の想念や心情によって見え方が違うという特性があります。現実世界においても、人は主観というものから逃れることはできません。人は多くの場合、自分の経験に即して物事を解釈します。そのため、「三途の川」と呼ばれる境界は、川になる時もあれば、非常にひろい湖や牧場のフェンスやトンネルなど、同じ方面からの通路であっても、人によって映り方が異なります。
いずれにせよ、人間は肉体を離脱した後、川を渡ろうと、トンネルをくぐり抜けようと、また他の行き方をしようと、境界を象徴する場所を通過し中界に至ります。

大本では、この川を渡る途中で着衣が変色するなど、この段階ですでに現世における善悪が露呈しはじめると教えられています。この現象は「三途の川」に限らず、中界のあらゆる場で起こります。
また、「三途の川」には三筋の流れがあり、上方から「上津瀬」、「中津瀬」、「下津瀬」と呼びます。「上津瀬」は激しい流れで現界に帰る人間が渡り、「中津瀬」は神界にすすむ人間、「下津瀬」はゆるやかな流れで幽界に堕ちる人間が渡るといわれています。「三途の川」のほかに「一途の川」があり、この川は極善、極悪の人間が、一直線に直接天国あるいは地獄へ行くとされています。
仏教では、この川を渡った者は再び現界に帰ることはできないと考えられています。臨死体験を経験した人が、川を渡ろうとしたら、先に亡くなった親族に追い返されたという話は昔からよく聞く話です。

※中界は現世における人間の善悪正邪勤怠が厳格に審判される霊域です。大本の教典では「中界」は他に、「中有界」、「精霊界」、「浄罪界」、「幽冥界」、「冥界」、「天の八衢」、「六道の辻」、などの語が用いられています。

 

 

大本のみ教え

霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。人霊中有の情態(天の八衢)にをるときは、天界にもあらずまた地獄にもあらず。仏者のいはゆる六道の辻または三途の川辺に立ちてゐるものである。両界の中間に介在する中ほどの位地にして即ち状態である。人の死後ただちに到るべき境域にしていはゆる中有である。(『霊界物語』第十六巻 出口王仁三郎著)

 

人の死後、この八衢の中心なる関所に来るには、いろいろの道を辿るものである。各方面が違ひ、苦痛の度が違ふのは、その精霊の悪と虚偽との度合の如何によるものである善の精霊が八衢へ指して行く時は、ほとんど風景よき現世界の原野を行くごとく、あるいは美しき川を渡り、海辺を伝ひ、もしくは美しき花咲く山を越え、あるいは大河を舟にてやすやすと渡り、または風景よき谷道を登りなどして、漸く八衢に着くものである(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

行くこと数百千里、空中飛行船以上の大速力で、足も地につかず、ほとんど十分ばかり進行を続けたと思ふと、たちまち芙蓉仙人は立留まつて自分を顧み、
『いよいよこれからが霊界の関門である』
といって、大変な大きな河の辺にたつた。ちよつと見たところでは非常に深いやうであるが、渡つてみると余り深くはない。不思議にも自分の着てゐた紺衣は、水に洗はれたのかたちまち純白に変じた。別に衣服の一端をも水に浸したとも思はぬに、肩先まで全部が清白になつた。芙蓉仙人とともに名も知らぬこの大河を対岸へ渡りきり、水瀬を眺めると不思議にも水の流れと思つたのは誤りか、大蛇が幾百万とも限りなきほど集まつて各自に頭をもたげ、火焔の舌を吐いているのには驚かされた。それから次々に渉りきたるあまたの旅人らしきものが、いづれも皆大河と思つたと見えて、自分の渉つたやうに各自に裾を捲きあげてをる。そして不思議なことには各自の衣服が種々の色に変化することであつた。あるいは黒に、あるいは黄色に茶褐色に、その他雑多の色に忽然として変つてくるのを、どこともなく五、六人の恐い顔をした男が一々姓名を呼びとめて、一人々々に切符のやうなものをその衣服につけてやる。そして速く立てよと促す。旅人は各自に前方に向つて歩を進め、一里ばかりも進んだと思ふ所に、一つの役所のやうなものが建つてあつた。その中から四、五の番卒が現はれて、その切符を剥ぎとり、衣服の変色の模様によつて、上衣を一枚脱ぎとるもあり、あるいは二枚にしられるもあり、丸裸にしられるのもある。また一枚も脱ぎとらずに、他の旅人から取つた衣物を、あるいは一枚あるいは二枚三枚、中には七、八枚も被せられて苦しさうにして出てゆくものもある。一人々々に番卒がつき添ひ、各自規定の場所へ送られて行くのを見た。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著)

 

『何といつても離さない。ここは幽界の関所だから、お前を赤裸にして、地獄へ追ひやらねばならぬのだ。この三途の川には神界へ行く途と、現界へ行く途と、幽界へ行く途と三筋あるから、それで三途の川といふのだよ。伊弉諾尊様が黄泉国からお帰りなさつた時、禊(みそぎ)をなさつたのもこの川だよ。上つ瀬は瀬強し、下つ瀬は瀬弱し、中つ瀬に下り立ちて、水底に打ちかづきて禊し給ひし時に生りませる神の名は大事忍男神といふことがある。それあの通り、川の瀬が三段になつてるだろ。 真中を渡る霊は神界へ行くなり、あの下の緩(ゆる)い瀬を渡る代物は幽界へ行くなり、上の烈しい瀬を渡る者は現界に行くのだ。三途の川とも天の安河とも称へるのだから、お前の霊の善悪を検める関所だ。サアお前はどこを通る心算だ。真中の瀬はあゝ見えてゐても余程深いぞ。グヅグヅしてると、沈没してしまふなり、下の瀬の緩い瀬を渡れば渡りよいが、その代りに幽界へ行かねばならず、どちらへ行くかな。モ一度娑婆へ行きたくば上つ瀬を渡つたがよからうぞや』」(『霊界物語』第四十巻 出口王仁三郎著)

 

ほかに一途の川もあり そもそも一途の因縁は
現世にいつたん生れ来て 至善至真の神仏の
教を守り道を行き 神の御子たる天職を
つくし果せし神魂 大聖美人の天国へ
進みて登る八洲の川 清めし御魂もいま一度
浄めて進み渉り行く 善一途の生命川
渡る人こそ稀しき いつたん現世へ生れ来て
体主霊従の悪業を 山と積みたる邪霊の
裁断も受けず一筋に 渉りて根底の暗界へ
堕ち行く亡者の濁水に おぼれ苦しみ渉り行く
善と悪との一途川 実にもゆゆしき流れなり
(『霊界物語』第一四巻 出口王仁三郎著)

 

大体において、霊界は高天原、中有界、地獄と三つに分けることができます。しかしこれも、大体分けただけでありまして、分ければ幾らでも分けることができるのであります。
それから俗に、三途の川ということをよくいいますが、これは現界からいよいよ幽界にゆくという一つの替わり目、境目というところで、なにか、実際の場所においても変化がおこる。つまり、こっちが現界的な雰囲気の濃厚なところ、向こうが霊界的な雰囲気の濃厚なところであって、この川を渡らんうちは生き返るということがあるのであります。医者からみたら、脈も熱もなんにもなくなっており、心霊も身についておらん。そういうものが、ひょっとした拍子にもどってきて、それきり達者になることがよくあります。この川は境界の川であり、川になる時もあれば、非常にひろい湖にのように見える時もある、また溝のようになる時もある。とにかく、境をあらわす何かの場所を通るものなのであります。
いよいよ霊界に入ると、いままで着ておった着物の色が変わってくる、これがまた妙であります。これはどういう訳であるかといいますれば、人間が電気の下にゆくと光の反射で色が出る。もの自身そういう色をもっているのではなく、光の吸収および反射によって色ができる。ここに赤い電気をともすときは、この辺のものが一帯に赤い色になり、青い電気をともす時は、その辺一帯が青くなると同様に、色彩の傾向がそういう神律になっている世界にはいり込むと、自然に自分の内容に応じて自分の色彩ができてくる。各人それぞれにその人の色が出てくる。だからして、その着物の色を見、輝きを見れば、大体この人はどういう性質を持っているかということが、より高い上の霊界の人にはわかるから、ごまかすことができない。現界では心に思うことは、形体(かたち)の上では隠すことができる。ところが霊界に行ったら、だんだん隠せんようになる。思うことそのままがはみ出るようになってくる。
霊界に行っても、はじめはやはり現界の癖が出る。しかし漸次、外分的状態から内分的状態へと変わってくる。言語とか動作とか、態度とか、そういうものを外分という。意志、想念-外分を使うもの―が内分である。外分の状態というのは、つまり、現界とおなじようなつもりで、言語、動作、態度によって人をごまかしたり、そういうふうに見せたり、それをもって人を判断したり、すべてを考え律してゆこうとする態度が外分的状態である。しばらくすると、それが役に立たなくなる。着物も功徳相応の着物の色になってあらわれてくる。自分のしたこととかなんとかいうものは、だんだんと出てきて、内にあるものをだんだん隠すことができなくなって、内分的状態にはいってくる。思うことがそのまま色になり、声になり、形になるといふうにして出てくるようになるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

また、霊が中有界に迷っているあいだは、現界との関係が非常に密接であります。しじゅう現界のことを考えて「子供はどうなっているだろう。あの事件はどうなっただろう」と思うている。何か気にかかることを残している人は、しじゅう現界に出入りしている。俗に「新霊は四十九日家の棟にいる」というのも、この辺の消息をいったものです。こちらから思うことによっても霊線が通じるから、それを通じて人に憑ってくることもある。死者の夢を見るのも、こちらからか向こうからか、あるいは相互の思いが通じるからである。それで、中有界にいる間はよくお祀りしてあげ、拝んであげるということが大事で、一生懸命に良いところへ行くように力づけてあげ、お供えしてあげるということによって、うれしい良い波が、真心の波がその人にゆくのである。本気になって、その人に向かって「早く神さまのお神徳(かげ)でいい所へ行け」といって力をつける祝詞の声などが、バーッと大きな力となってゆくからして、この人は非常にうれしい気持ちをもつことができる。いたずらに悲しむ波は、これと反対に霊界人を苦しめるのであります。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

現世での行いを審判される

中界の中央には政庁(関所)があり、中界にきた人間たちの現世における善悪正邪勤怠を審判します。大本では、この中界を主宰する神を伊吹戸主神と奉称しています。この伊吹戸主神は、古代エジプトではオシリス、仏教では閻魔大王、ヒンドゥ教ではヤムラージなどと呼ばれています。政庁(関所)には、他に多くの瞑官(判神)たちがいます。
中界での審判基準は、人間が現世にあったとき、神さまから与えられた「一霊四魂」を汚さず、開発、発達させ、真・善・美・愛に近づき合致した生活を送っていたか否かに基づくとされています。
「一霊四魂」とは、人間が神さまから与えられた霊魂とその働きです。
一霊とは、「直霊」、「直日」の霊ともいい、反省心、良心の働きを司ります。四魂とは、「荒魂」、「和魂」、「幸魂」、「奇魂」の四魂で、以下のような働きがあります。

【一霊四魂の働き】
・直霊=良心、省みるこころ
・荒魂(勇)=勇気・困難に打ち克つ力、物事を進める力
・和魂(親)=万有と親和する力あらゆるものと仲良くする
・幸魂(愛)=の働きものを造り生み進化させ育てる
・奇魂(智)=感覚・観察力知的な覚り・精神的な悟り

 

大本のみ教え

ここは黄泉の八衢といふ所で米の字形の辻である。その真中に一つの霊界の政庁があつて、牛頭馬頭の恐い番卒が猛獣の皮衣を身につけたのもあり、丸裸に猛獣の皮の褌を締めこみ、突棒や手槍や鋸や斧、鉄棒に、長い火箸などを携へた奴がたくさんに出てくる。自分は芙蓉仙人の案内でズッと奥へ通ると、その中の小頭ともいふやうな鬼面の男が、長剣を杖に突きながら出迎へた。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著)

 

そもそもこの八衢の関所は、天国へ上り行く人間と、地獄へ落ちる人間とを査べる二つの役人があつて、天国へ行くべき人間に対しては、色の白き優しき守衛がこれを査べ、地獄へ行くべき人間に対しては、形相凄じい赤い面した守衛がこれを査べることになつてゐる。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

人の死後におけるや、神はただちに生前の悪と善とを調べ、悪の分子を取り去つて、なるべく天国へ救はむとなし給ふものである。ゆゑに吾々は天国は上り易く、地獄は落ち難しと言ひたくなるのである。(『霊界物語』第五十二巻 出口王仁三郎著)

 

人間の死するや、神はただちにその霊魂の正邪を審判したまふ。悪しきものの地獄界における醜団体に赴くは、その人間の世にある時、その主とするところの愛なるものが地獄界に所属してゐたからである。善き人の高天原における善美の団体に赴くのも、その人の世にありし時のその愛、その善、その真は正に天国の団体にすでに加入してゐたからである。(『霊界物語』第十六巻 出口王仁三郎著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太