「神界」と「幽界」

金龍海

神界とは

神界は、霊界の三大境域(神界・中界・幽界)の一つで、神々や天人の居住する霊域を指します。
大本では神界のほかに天界、高天原、神霊界、神の国、天国、極楽浄土などの語を当てています。
神界にある一切のもの(山川草木など)は創造主神の〈愛善と信真〉の神格によって構成されているので、言語に絶するほど神々しく美麗といわれています。

神界は天国、霊国とよばれる二つの神域に分けられています。
天国、霊国とも上・中・下段の3つの階層で構成されています。
天国の最上位を第一天国(最高天国、最奥天国、最上天国ともいう)、中位を第二天国(中間天国ともいう)、下位を第三天国(下層天国、最下天国ともいう)と呼称しています。
この3段はさらに上・中・下に区分され、計9段階になっています。この区分は霊国も同じです。
さらに、この9段階は各段がさらに20段に分けられていて、合計百八十段階になります。これに創造主神の一段を加え神界は181の階位となります。

天国は創造主神の愛善の神格にみちた神域で、ここに住む天人たちは天国天人、天的天人、高所天人などと呼ばれ、創造主神にたいし祭祀を営み報恩感謝の生活をしています。
霊国は創造主神の信真の神格にみちた神域で、天使たちの居住する瑞の国土です。
ここに住む天人たちは、霊国天人、霊的天人、媒介天人、低所天人、神の使い、天使などと呼ばれ、創造主神の教えを顕幽(現界・霊界)両界に隈なく宣布しています。

 

天国の団体

 

大本のみ教え

天国の組織は、最高天国が上、中、下、三段に区画され、中間天国がまた上、中、下、三段に区画され、最下層の天国また三段に区画されてある。各段の天国は、個々の団体をもつて構成され、愛善の徳と智慧証覚の度合のいかんによりて、幾百ともなく個々分立し、到底これを明瞭に計算することは出来ないのである。
また霊国も同様に区画され、信と智の善徳や、智慧証覚の度合によつて、霊国が三段に大別され、また個々分立して、数へつくせないほどの団体が作られてゐる。さうしてまた一個の団体の中にも、愛と信と智慧証覚の度のいかんによつて、あるいは中央に座を占め、あるいは外辺に居を占め、決して一様ではない。かくのごとく、天人の愛信と証覚の上に変移あるは、いはゆる勝者は劣者を導き、劣者は勝者に従ふ天然律が、惟神的に出来てゐるがために、各人皆その分度に応じて安んじ、少しも不安や怨恨や不満足等の起ることなく、きはめて平和の生涯を送りゐるものである。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

神界の全体

神界の全体はその最小の雛形として人体に例えられています。天国は人間の心臓(意思の国土)に、霊国は肺臓(智性の国土)に相応しています。
そのほか、頭脳、各臓腑、肢体、筋肉、神経、繊維なども、すべて神界のそれぞれの部分の働きに相応しています。

人体

 

大本のみ教え

天国の全体は一つの巨人に譬(たと)ふべきものである。(中略)最上天国即ち第一天国は頭部より頸(くび)に至るまでを占め、中間即ち第二天国は胸部より腰および膝の間を占め、最下即ち第三天国は脚部より脚底と、臂(ひじ)より指頭の間を占めてゐるやうなものである(『霊界物語』十八巻 出口王仁三郎著)

 

神界の時間・空間

神界(霊界)には時間・空間が存在しませんが、神界(霊界)相応の時間・空間は存在します。
ただし神界(霊界)の時間・空間は想念や情動の変移によって生じるので、現界人には理解しがたいといわれています。

 

大本のみ教え

しかし天国においては、時間空間などといふものはなく、したがつて、午前午後昼夜などの区別はない。しかしながら情動の変異によつて、朝たり夕べたるの感覚が起るものである。しかして、朝は太陽の愛に相応し、天国の愛善に和合するものである。また夕べは信真に相応し、月に相応するものである。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

天国の団体

天国には、180の各段にそれぞれ無数の天人の団体があり、善良な現界人は死後、その精霊のもつ意志、想念にもっとも適合する団体へと導かれます。
一つの団体の構成員は、大きいもので10万、小さいもので4、50人といわれています。

 

大本のみ教え

また宗教の異同によつて、人霊の到る天国も違つてをる。仏教信者は仏教の団体なる天国へ上り、耶蘇教信者は耶蘇教の団体なる天国へ上り、回々教信者は回々教の団体なる天国へ上り、それ相応の歓喜を摂受して、天国の神業に従事してゐる。また神道の信者は神道の団体なる天国へ上り、神業に従事してゐる。そして神道の中にも種々の派が分かれ、各自違つた信仰を持つてゐるものは、またそれ相当の団体にあつて活動し、歓喜に浴して、天国の生涯を楽しんでゐる。(『霊界物語』第二十四巻 出口王仁三郎著)

 

高天原における団体は、大なるものは十万人もあり、五万人、三万人、一万人、五千人、尠い団体になると四、五十人のもある。ゆゑに各自の団体の天人は、自分の団体の一人でも多くなることを希望してゐるから、天国へ上り来たる人間に対して、非常なる好感をもつて迎へる。(『霊界物語』第二十四巻 出口王仁三郎著)

 

天国の風景

天国の風景は、人間の言語ではたとえることができないほどの美しさだといわれています。

 

大本のみ教え

高天原に発生せる樹木は、仏説にあるごとく金、銀、瑪瑙(めなう)、硨磲(しやこ)、瑠璃(るり)、玻璃(はり)、水晶などの七宝をもつて飾られたるがごとく、その幹、枝、葉、花、果実に至るまで、実に美しきこと、口舌のよく尽し得るところではない。(『霊界物語』四十八巻 出口王仁三郎著)

 

神界の気候

神界では一切のものが生き生きと繁栄しており、その気候は春・夏のようで、秋・冬はありません。
霊界での秋・冬の情態は、神界の神さまの熱や光から遠ざかっている霊域を意味しています。霊界における闇と寒さは、中界や地獄の情景といわれています。

 

大本のみ教え

太陽はあまり高からず頭上に輝きたれども、自然界のごとく焦げつくやうな暑さもなく、実に入り心地のよい温泉に入つたやうな陽気である。さうしてこの天国には決して冬がない。永久に草木繁茂し、落葉樹のごときは少しも見当らない。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

神界における方位

神界の天人は、いずれの方位を向いても、つねに東(神界の太陽または月)に顔をむけています。
神界の天人はつねに主の神さまに感謝の想念を抱いて生活しているため、自分の身体をどの方向に向けてもつねに目の前には、神さまのみ光が輝いている状態です。

 

大本のみ教え

高天原においては、大神様が日輪様と現はれ給ふところを東となし、これに対するを西となし、それから高天原の右の方を南とし、左の方を北とするのです。さうして天界の天人は、何れのところにその顔と体とを転向するとも、みな日月に向つてゐるのです。その日月に向うたところを東といふのです。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

天人

神界の天人は、すべて現界の人間が向上したものです。
すべての天人は、現界に生まれ、良心(直霊)に従って行動善徳を発達させて、死後、天国に昇ってきた精霊たちです。

 

大本のみ教え

すべて人間が、現実界に生れてきたのは、いはば天人の胞衣のごときものである。さうしてまた天人の養成器となり、苗代となり、また霊子の温め鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得るとともに、人間は天人そのものであり、また在天国の天人は、人間が善徳の発達したものである。さうして天人は、愛善と信真によつて永遠の生命を保持し得るものである。ゆゑに人間は、現界の生を終へ天国に復活し、現界人と相似せる生涯を永遠に送り、天国の円満をしてますます円満ならしむべく活動せしむるために、大神の目的によつて造りなされたものである。ゆゑに高天原における天国および霊国の天人は、一人として人間より来らないものはない。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

天人の容貌

天人の容貌は、きわめて善美で円満です。精霊が神を慕い神格に適合してゆけばゆくほど、その容貌はより善美になります。
また、天人は不老不死で、男子の場合は現界の年齢で30歳位、女子の場合は20歳位の若々しい容姿を持っています。

 

大本のみ教え

最高第一の天国および霊国の天人の面貌や姿の美しさは、いかなる画伯があつて、その技術をつくし麗筆を揮(ふる)ふとも、その美貌や光明なり、活気凛々たる姿の万分の一をも描き出すことはできない。されども最下層の天国霊国にある者は、最も熟練せる有名なる画伯が丹精をこらし、その技(ぎ)、神(しん)に入り妙に達したとき初めて、多少その面貌を描き得て、その真相の一部を現はし得るくらゐなものである。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

天人の夫婦

神界では、夫婦二人で〝一人〟と呼ばれます。これは、夫婦で完全な〝一霊四魂〟となることを意味しています。
通常人間は、自分のもつ一霊四魂のうち、二魂が〈主〉で他の二魂は〈従〉になっています。
男子の場合、幸魂(愛魂)奇魂(智魂)が〈主〉で、荒魂(勇魂)和魂(親魂)は〈従〉になっています。
女子の場合、荒魂(勇魂)和魂(親魂)が〈主〉で、幸魂(愛魂)奇魂(智魂)は〈従〉となっています。

夫婦で〈主〉と〈従〉が補い合うことで円満な一体の一霊四魂が完成します。この相互補完が、霊界にあっても現界にあっても〝完全な婚姻〟を意味しています。

 

大本のみ教え

夫婦は愛と信との和合によつて成立するものです。(中略)天国の婚姻は、すべて霊的婚姻ですから、夫婦は密着不離の情態にあるのです。ゆゑに天国においては夫婦は二人とせず、一人として数へることになつてゐます。現界のやうに、人口名簿に男子何名、女子何名などの面倒はありませぬ。ただ一人二人といへば、それで一夫婦二夫婦といふことが分るのです。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

天人の言語

現界・幽界・神界の三千世界には、神さまの言霊が遍満し一切の生成化育の原動力となっています。
天人の用いる言語もすべてこの言霊で、一切を育てる善言美詞であり、悪言醜語はありません。
また、神界の天人は、善(真)と和合しているため偽と和合することができず、心中に生じた想念を偽って言うことができません。

 

大本のみ教え

高天原の天国および霊国にあつては、人の言葉みなその心より出づるものであるから、その言ふところは思ふところであり、思ふところは、すなはち言ふところである。心の中に三を念じて、口に一つをいふことは出来ない。これが高天原の規則である。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

天人の感覚

人間の五感(視・聴・臭・味・触の五つの感覚)は肉体に属しているのではなく、精霊に属しています。
人間の五感が肉体に属していると信じられほど、精霊は肉体の諸器官、組織と緊密に融合し一体化しています。
肉体は、精霊の機能が現界において十分に発揮されるように構成され組織されています。
死後、精霊は肉体という物質的不純分子が除去され思考は、感覚は現界にいたときより鋭敏になります。

 

大本のみ教え

すべて人間の心霊は肉体の亡びたる後といへども、人間の本体なる自己の感覚や意念は、引続き生存するものである。ゆゑに天上に復活したる人の霊身は、あたかも肉体を去つた当時と同じ精神状態で、霊界の生活を営むものである。(『霊界物語』第二十三巻 出口王仁三郎著)

 

天人の職業

天国の天人はただ怠惰に遊んでいるのではなく、公共(天国がより円満化するために)のために嬉々として働いています。

 

大本のみ教え

天界にもまた士農工商の区別あり。されど現界人のごとく私利私欲に溺れず、ただその天職を歓喜して、天国のために各自の能力を発揮して公共的に尽くすのみである。天国における士は決して軍人にあらず、誠の道すなはち善と愛と信とを天人に対して教ふる宣伝使のことである。地上において立派なる宣伝使となり、その本分を尽くし得たる善徳者は、天国に住みても依然として宣伝使の職にあるものである。人間はどこまでも意志や感情や、または所主の事業を死後の世界まで継承するものである。(『霊界物語』第二十四巻 出口王仁三郎著)

 

天人の資格

出口王仁三郎聖師が世界最高の神学者と評した、エマニュエル・スエデンボルグは、天人になる資格を次のように述べています。

「第三天国に入れるものは神の存在を信じることのできる者」

「第二天国に昇れる者は神の存在を信じ神の教えにもとづく生活をしなければならないとして努力することのできる者」

「第一天国に入れる者は神の教えを聞くとすぐ実行することのできる者」

また、ヘレンケラーは「私にとってスエデンボルグの神学教義がない人生など考えられない」と述べています。

 

大本のみ教え

すべて天国の団体に加入し得るものは、神を固く信じ、篤く愛し得るものである。不信仰にして天国に到る者もあるが極めて少数である。いづれの宗教も信ぜず、守らず神の存在を知らずして天国へ往つたものは、大変にまごつき、後悔し、かつ天国や死後の生涯のありしことに驚くものである。(『霊界物語』第二十巻 出口王仁三郎著)

 

何となれば、人の生れたるは現界のためにあらず、その目的は天国の団体を円満ならしむるためである。ゆゑに何人も、神格の概念なくしては、天界に入ることは出来ないのである。高天原および天国霊国の団体を成すところの神格の何者たるを知らざる者は、高天原の第一関門にさへも上ることを得ない。(『霊界物語』第四十九巻 出口王仁三郎著)

 

天人の住居

天人の住居は、一切のものが神的順序のもとに位置づけられていることと、荘厳美麗で新鮮であることを除いて、現界の住居とあまり変わりません。

 

大本のみ教え

天人の住宅は、地上の世界の家屋と何等の変はりもない。ただその美しさがはるかに優つてゐるのみである。その家屋には地上の家屋のごとく奥の間もあり、寝室もあり、部屋もあり、門もあり、中庭もあり、築山もあり、花園もあり、樹木もあり、山林田畑もあり、泉水もあり、井戸もあつて、住家櫛比し都会のごとくに列んでゐる。また坦々たる大道もあり、細道もあり、四辻もあること、地上の市街と同一である。(『霊界物語』第二十四巻 出口王仁三郎著)

 

霊国

霊国は霊界の中枢部にあり、天国のみでなく中界、幽界などに隈なく霊国天人(天使)を派遣するため、髙からず低からずの中間的位置にあり低処天界ともいわれています。
霊国の団体は天国の団体と同様に組織されていて、ほとんど変わるところはありません。

霊国と天国の関係は、ともに霊・体、陰・陽の関係のように、密接不離の関係にあり単独で存在することはできませんが、相互に独自性をもっています。

 

大本のみ教え

霊国は天使として天国、中有界、地獄界にわたり、神教を伝達し、神の仁慈に浴せしめんと努むる媒介天人の安住する国土なり。(『道の栞』 出口王仁三郎著)

 

大神のしろしめす天国団体を組織せる天人は、大抵高い所に住居を占めてゐる。その場所は、自然界の地上を抜く山岳の頂上に相似してゐる。また大神の霊国団体を造れる天人は、少し低い所に住居を定めてゐる。あたかも丘陵のやうである。されど、高天原の最も低き所に住居する天人は、岩石に似たる絶景の場所に住居を構へてゐる。しかして、これらの事物は、すべて愛と信との理によつて存在するものである。
大神の天国は、すべて想念の国土なるをもつて、内辺のことは高き所に、外辺のことはすべて低い所に相応するものである。ゆゑに高い所をもつて、天国的の愛善を表明し、低い所をもつて、霊国的の愛善を現はし、岩石をもつて信真を現はすのである。岩石なるものは、万世不易の性質を有し、信真に相応するがゆゑである。しかしながら、霊国の団体は低き所に在りとはいへ、やはり地上を抜く丘陵の上に設けられてある。ちやうど綾の聖地における本宮山のごときは、その好適例である。霊国は、なにゆゑ天国の団体よりもやや低き所に居住するかといへば、すべて霊国の天人は、信の徳を主とし、愛の徳を従としてゐる、いはゆる信主愛従の情態なるがゆゑに、この国土の天人は、智慧と証覚を研き、宇宙の真理を悟り、次いで神の愛を能くその身に体し、天国の宣伝使として、各団体に派遣さるるもの多きをもつて、最高ならず最低ならず、ほとんど中間の場所にその位置を占むることになつてゐるのである。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

 

八衢の最上層と天国の最下層とは、最奥最貴最妙なる霊国をへだてて相隣る。
霊国は宇宙の中府にして、ここにおり得るものは、天国をも地国をも卒業したものでなくてはならぬ。
霊国天使は天国をも地国をも自由にするの力あれども、天国天使は、その性質上、地国とは全然無関渉におかれてあるゆえ、地国を見ることもなければ、また地国に直接力をおよぼすこともなし。もし強いて地国と交渉する時には、たちまち地国人となってしまうのである。ただし、天国領域内にありては、その上位なるものほど力あり。
霊国人にも、無論、ピンからキリまであって、第三霊国人は第三天国と第一地国(上から数えて)とを按配する力あり、第二霊国人は第二天国と第二地国との範囲を、第一霊国人は、上は第一天国より下は第三地国(最下層)までを指導する力があるのである。
(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

幽界とは

大本でいう幽界とは、霊界の三大境域(神界、中界、幽界)の一つで、地獄とも呼ばれています。他にも、根の国底の国、根底の国、黄泉の国、邪神界、などとも呼ばれています。

一般的に地獄は、現世で悪事を働いた人間が死後、神仏の裁きによって刑罰を受ける霊域とされていますが、大本でいう幽界はそうした概念と異なります。

幽界は、神さまの意志によって造られた霊域ではなく、愛善と信真を嫌う精霊たちが神さまから逃れようとして集まり形成された霊域で、邪悪な精霊が自らおもむく悪と虚偽(愛悪と信偽)にみちた、真の愛や自由のない至醜、至悪、至苦、至寒、至暗の霊域を指します。

精霊の生前における行いにもとづくもので、神さまが強制的に連行されるものではありません。

大本では、邪神、曲津神、曲神、曲霊、悪霊、邪霊、悪魔、妖魅など幽界の精霊の数多くの呼び名があります。

 

根の国底の国

 

大本のみ教え

幽界は神道家の唱ふる根の国底の国であり、仏者のいふ八万地獄であり、またキリストのいふ地獄である。(『霊界物語』第一六巻 出口王仁三郎著

 

根の国、底の国に墜ちて、無限の苦悩を受けるのは、要するに自己の身魂より産出したる報いである。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著

 

曲霊は世俗のいはゆる悪魔なり、邪神なり、妖魅なり、探女なり。(『霊界物語』第十巻 出口王仁三郎著

 

神は決して世界の人間の精霊を、一人も地獄へ堕とさうとはお考へなさるのではない。その人が自ら神様に背を向け、光に反き地獄に向かふのである。その地獄はお前が現世にをつた時すでに和合したところのもので、悪と虚偽とを愛する心の集まり場所である。 大神様はエンゼルの手を経たり、かつ高天原の内流によつて、おのおの精霊を自分の方へ引き寄せむと遊ばすけれども、もとより悪と虚偽とに染み切つたお前たちの精霊は、仁慈無限の神様のお取計らひを忌み嫌ひ、力かぎりこれに抵抗し、自分の方から神様を振り棄て離れ行くものである。自分が所有するところの悪と虚偽は、 鉄の鎖をもつて地獄へ自ら引き入るるが如きものである。言はばお前たちが自由の意志をもつて自ら地獄へ堕落するものだから、神様はこれを見て愛と善と真との力を与へ、一人も地獄へ堕とそまいと焦つてござるのだ(『霊界物語』第五十六巻第三章 出口王仁三郎著

 

 

幽界への道

中界から幽界に通ずる道は、幽界に相応する想念の持ち主(精霊)でなければ見つけることも、立ち入ることもできません。
幽界の入口で見られる情景は、幽界とその精霊がもつ醜悪な想念に相応して写し出されます。

 

大本のみ教え

しかしながら、地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊すなはち副守護神は、この暗黒にして悪臭紛々たるを、此上なく悦び楽しむがゆゑに、喜んでこれを求め、勇んで地獄の入口に飛びこむものである。世間のおほかたの人間が、おのれの自性に属する悪を喜ぶごとく、死後霊界に至れば、その悪に相応せる悪臭を嗅ぐことを喜ぶものである。この点においては、彼ら悪霊の人間は、貪婪(どんらん)あくなき鷲や鷹、狼、虎、獅子、豚の類に比ぶべきものである。彼らの精霊は、腐つた屍骸や堆糞等の嘔吐を催さむとする至臭至穢物を此上なく喜び、その臭気を尋ねて、糞蠅のごとくに集まつてくるものである。これらの人間の霊身は、高天原の天人の気息や、芳香にあふ時は、内心の苦しみに堪へず、悲鳴をあげて泣き倒れ、苦しみ悶えるものである。(『霊界物語』第四七巻 出口王仁三郎著)

 

これに反して直ちに地獄に陥る精霊にあつては、現界において表面にのみ愛と善とを標榜し、かつ偽善的動作のみ行ひ、内心深く悪を蔵しをりしもの、いはゆる自己の凶悪を糊塗して人を欺くために、善と愛とを利用したものであります。中にも最も詐偽や欺騙(ぎまん)に富んでゐるものは、足を上空にし頭を地に倒(さかさま)にして投げ込まれるやうにして落ち行くものです。この外にも種々様々の状態にて地獄へ陥ち行くものもあり、あるいは死後直ちに岩窟の中深く投げ入れられるものもありますが、かくのごとき状態になるのは凡て神様の御摂理で、精霊界にある精霊と分離せむがためであります。ある時は岩窟内より取り出され、又ある時は引き入れられる場合もありますが、かくのごとき精霊は生前において、口の先ばかりで親切らしく見せかけて世人に油断をさせ、その虚に乗じて自己の利益を計り、かつ世の人に損害を与へたものですが、斯様な事は比較的少数であつて、その大部分は精霊界に留められて神教を授かり、精霊自己の善悪の程度によつて神の順序に従ひ、 第三下層天国、または地獄へ入るの準備を為さしめらるるものであります。(『霊界物語』第六十三巻第十章 出口王仁三郎著

 

そこには地獄へ墜ちて行くものと見えて、真黒の汚い顔をしたものが打ち倒れてゐる。これは現界で今肉体が息を引取ったもので、その幽体がこの所に横たはったのであり、また先の大きな叫び声は、親族故旧が魂呼びをしてをる声であることが分った。さうすると見てをる間に、その真黒い三十五、六の男の姿が何百丈とも知れぬ地の底へ、地が割れると供に墜ち込んでしまった。これが自分には不審でたまらなかった。といふのは、地獄に行くのには相当の道がついてをる筈である。しかるに、たちまち急転直下の勢で地の底へ墜ちこむといふのが、不思議に思はれたからである。とにかくかういふふうになる人を現界の肉体から見れば、脳充血とか脳溢血とか心臓破裂とかの病気で、遺言もなしに頓死したやうなものである。そこで天然笛を吹いてみた。天の一方から光となって芙蓉仙人が現はれ給うた。
『いったい地獄といふものには道はないのでせうか』とたづねてみた。仙人いふ。
『この者は前世においても現界においても悪事をなし、ことに氏神の社を毀(こぼ)った大罪がある。それは旧い社であるからといふて安価で買取り、金物は売り、材木は焼き棄てたり、または薪の代りに焚いたりした。それから一週間も経たぬまに病床について、黒死病のごときものとなった。それがため息を引取るとともに、地が割れて奈落の底へ墜ち込んだのである。すなはちこれは地獄の中でも一番罪が重いので、口から血を吐き泡を吹き、虚空を掴んで悶え死に死んだのだ。しかもその肉体は伝染の憂ひがあるといふので、上の役人がきて石油をかけ焼き棄てられた』との答へである。(『霊界物語』第一巻第十四章 出口王仁三郎著

 

 

根の国底の国

幽界は、神界の〝霊国〟と〝天国〟の対極に位置し、〝根の国〟と〝底の国〟と呼ばれる二大霊域に分かれ、さらにそれぞれが大別して三段に区画されています。
上位の階位から順に第一地獄(第三神界の対極)、第二地獄(第二神界の対極)、第三地獄(第一神界の対極)と呼ばれています。この三階層は神界と同様にさらに幾層にも区分されており、各層にはその悪と虚偽に相応した無数の団体があります。

幽界の中でも〝底の国〟は神界の〝天国”と対極的位置にあたり、〝根の国〟は〝霊国〟の対極にあります。

また、神界では、霊国の方が、天国にくらべ働きが大きいと示されており、同様に、幽界では根の国の方が底の国にくらべ凶悪の度が強いと示されています。

 

大本のみ教え

霊界には、天界と地獄界と中有界との三大境域があって、天界は正しき神々や正しき人々の霊魂の安住する国であり、地獄界は邪心の集まる国であり、罪悪者の墜ちてゆく国である。そして天界は至善、至美、至明、至楽の神境で、天の神界、地の神界に別れてをり、天の神界にも地の神界にも各自三段の区劃が定まり、上中下の三段の御魂がそれぞれに鎮まる楽園である。地獄界も根の国、底の国にわかれ、各自三段に区劃され、罪の軽重、大小によって、それぞれに墜ちてゆく至悪、至醜、至寒、至苦の刑域である。(『霊界物語』第一巻 出口王仁三郎著

 

「地獄の絵に、鬼が人間の舌を抜いたり、人を臼に搗いたりするところがありますが、あれはほんとうですか」
「ほんとだ。この世におこなわれて来たあらゆる残虐なことは、みな地獄において絶え間なく行われている」
「臼につき砕かれたならば、その人は粉になってしまうじゃありませんか」
「しかし、やがてまた元の人間になるのだ」
「どうしてです?」
「いくら外的に、強いて一時形を打ち砕いてみても、想念を左右するだけの力がない間は、相手の想念は依然としてそのままであるから、こちらの手がゆるむと同時に、また元の形をとるのだ、霊界は本質的に想念の世界なのだから。これは、現界においても同じことであって、いくら他から強いても、本人の意向が内から変わって来ないかぎりはダメのことだ。いな、かえって、一層決意を強めるだけのことになるのだ。それで霊界では、なるべく本人の意志のままにやらせてみて、内的に、なるほどと得心のゆく時を待って、上へ引きあげてやるのだ。内省力の強い決団力のある霊魂は、ほんの少しの事件からヒントを得て悟ってゆき、ズンズン向上してゆくが、内省力の弱い、実行力に欠けた霊魂は、いつ迄もいつまでも、同じつまらない状態にウジウジしているのだ」
「そういう者に対しては、神さまは打ち棄てておかれるのですか」
「全然打ち棄てておくわけではないが、いま、声をかぎりに救いを叫んでいる者を、まず先にするのは当然だ」(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著

 

地獄にもいろいろあるから、簡単にいうことは無論できぬが、一般に通じて、万事が消極的である。栄え、喜び、朗かさ、感恩、柔順、無邪気、活発等に反することのみが行われている所である。これは要するに、地獄の心はいずれも利己中心であるからである。
この現界もまた、時としては地獄の映写であるから、現界人の心も知らずしらず地獄的である時もある。それで現界人としては、つねに直日の魂(良心)に省みて他を恨んだり、そねんだり、侮ったりすることは絶対に悪いと覚悟して、つとめてこうした想念を排除するよう懸命に意志を練らねばならない。地獄からの霊線がかかている時には、よほど省みておらぬと、知らずしらず地獄的の気持になりきってしまっていて、気がつかぬ場合がある。
地獄的の気持になることは、自己に業因のある場合はいたし方がないが、なりきってしまうことは自己を地獄的に染着してしまうことになるので、容易に浮かび上がられなくなる。つねに心がけて、自分で悪いと思い、汚いと思い、卑怯と感じ、地獄的と思惟する想念と勇敢に決然と力闘する習慣をつけねば、いつ迄たってもその境涯を脱することができなくなってしまう。
他を恨み、ねたみ、あなどる心、すぐに気を悪くまわすこと、これらはことごとく利己心より発するもので、地獄所属の想念であって、どんなに自己弁解し、自分だけの理由があってもダメである。
概して、他を悪く思うのは、自分に相応の悪いところがあるからである。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著

 

 

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太