仕事の本来の目的
仕事がつらくて仕方がないと感じている人は大勢いると思います。人間関係がつらい、仕事がつらい、働かずに暮らしたい、など仕事に行きたくない理由は人それぞれです。
対処方法として、転職をするなど環境を変えることも必要ですが、必ずしも上手くいくとも限りません。そのようなときは、自分の仕事が何に繋がっているのかを考えることが大切です。
仕事の本来の目的は、自分が働くことで生み出した価値を誰かに提供することです。人生において、自分が誰かの役に立つということほど大きな喜びはありません。
誰かの仕事によって自分の生活は支えられ、逆に自分の仕事も誰かを支えています。
また、二宮金次郎(二宮尊徳)は働くのは自分のためでなく、「端(はた)を楽(らく)」にするためだと説いています。
人は「何のために働くのか」と考えたとき、自分の仕事で誰かを幸せにし、社会に貢献し、支えることだと思います。これは、人生の目的でもあります。
※「仕事」と「労働」は違う意味で定義されることもありますが、本稿では同義とします。
仕事に対する心構え
神さまの本性は、万物を創造することです。人間には神さまの神性が宿っています。物を造ることに真の喜びを感じるのは人に宿る神性によるものです。
もちろん、過重な強制労働が苦痛であることは、言うまでもありませんが、労働とは、本来、神さまの神性の働きのひとつで、神聖なものといえます。
大本のみ教え
平素、バケツ一つさげたことのない人にとっては、ちょっとした労働も苦しいつらいことに相違なく、つねに筋肉労働をしているものにとっては、少々の荷物をかついで行くくらいのことは、一向苦にならぬ。
客観的に見れば、後者の方が余計労働しているのであるが、主観的にみれば、前者の方が余計苦しんでいるのである。ここが大事なところであって、人間の苦労するとか、楽をするとかいうことはことごとく主観であって、決して絶対値ではない。しかして主観というものは、同一事物に対しても常に変動するもので、ちょっとしたことにも「苦しい苦しい」と思っておれば、ますますその苦しみは増してき、少々苦しいことでも「ナニ、平気だ」と考えておれば、大して苦しいとも思わなくなって来るものである。
この世の中で、鬼を出そうと仏を出そうと心ひとつというのである。自己の思いよう一つで、より苦しくもなれば、より楽しくもなり得るのである。
誰だって、より楽しくなりたいと願わぬものはない。そうなるためには、まず第一条件として必要なことは、いかなる境遇に出会っても、つねに心を愉快に、はつらつと持つということである。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)
大きな器には大きな蔭がさす。大きな仕事を初めれば、それに伴ふて種々の失敗も起り、批難攻撃もあるものである。悪い方は消して、よい方面ばかり見て、勇敢に進んで行けばよい。弱くてはいけない、強くなれ。強くなつて、物事をやり通せばよいのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)
仕事をやるには、自信をもつことがいちばん大切である。年が改まるとともに、だれも心機一転大事業をやろうと考える。ところが手をつけないさきから、大事業などと、大の字をつけるようでは成功おぼつかない。それはもう仕事に呑まれているからだ。仕事は呑んでかからねばならぬ。
他人がみて大事業だと思うことでも、ちよつと小さな仕事をはじめるくらいに思つてやることだ。それではじめて成功することができる。もつとも何事をなすにも、細心の注意は必要だ。しかし大胆であることは別である。元来、私には大事業というものがない。(『出口王仁三郎著作集』第三巻)
誰でも、どんなみたまのよい人でも、めぐりの除れぬ間は、何ひとつ思うように出来るものではない。
仕事をしようと思うよりは、めぐりを除ろうという考えで苦しまねばならぬ。
(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)
仕事に伴わねば、真の悟りは開けぬ。
だから人間は、少々は無理からでも実地に仕事をするに限る。
ただし、いくら仕事をしても、ただ単に、機械的にしているのではダメだ。ちょっとのことをしても、普遍的の呼吸をつかむ工夫をせねばいけない。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)
どんな仕事にも霊を篭めてやらねばよい結果を得らるるもので無い。(『水鏡』 出口王仁三郎著)
勤労感謝
農家の作物をつくるという行為は、世話をするということであって、本当の意味でのつくるという行為ではありません。
日、月、大地、空気、水、生命力をもった種という、神さまから与えられた大きな恩恵の中で、作物はつくられています。これは、工場でつくるさまざまな工業製品でも同じことがいえます。
第一次的な原料は、すべて天地の恵みによって与えられたものです。人間はそれらに対して、第二次的、第三次的に手を加えるに過ぎません。
人々が労働に励むことができるのは、神さまから与えられた様々な恩恵によるものです。
国民の休日である勤労感謝の日は、五穀豊穣を祝う「新嘗祭」が起源とされています。新嘗祭とは、神々に、その年の収穫に感謝して新穀をお供えし、来年の豊穣を願うお祭りです。
神さまから与えられた天地のご恩や、働くことができる環境に感謝する気持ちが労働するうえで最も大切なことです。
大本のみ教え
万公『アヽア、エライ労働をやつたものだ。よほど報酬を請求しなくちや、バランスが取れない。御苦労さまだつたくらゐな報酬では、ねつから有難くないからな。夜業までさされて、幾分かの割増しをもらつたて、やりきれないワ』
五三『オイ万公、労働は神聖だ。おれだつて労働は貴様と同様にやつたのだ。労働の量に相当しただけの報酬を、権利として要求するのは道徳的には根拠のないものだよ。労働の報酬のみを以て当然の権利とみるならば、それこそ社会に弊害百出して世を混乱に導くより仕方がない。老者、病者、小児などは労働をせないからパンを与へない、といつたらどうするのだ。労働させてもらふのもヤツパリ神様のおかげだよ。現代やかましく持ち上つてきた労働問題は、人類の集団もしくは階級間の問題でなくして、神様と人間との問題だ。われわれ三五教の宣伝使または信者たるものは、いかなる場合にも、永遠の真理の上に立ち、時代を超越してゐなければならない。神聖な神の道でありながら、労働問題を云々するやうなことは、チツと謹まねばなるまいぞ』
『それだとて、労働は天の恵みを開拓するのだ。宣伝使だつてヤツパリ労働者でもあり、また報酬を要求する権利がなくてはヤリきれないぢやないか』
『宣伝使、信者の、神より賜はる報酬といふものは、信と愛と、正しき理解との歓喜の報酬を、即時に神から賜はつてゐるぢやないか。たとへ世の中の物質生産の労働に従事し、相当の報酬を得るのを、今の人間は自分が儲けるのだといつてゐるが、決して儲けるのではない、神から与へられるのだ。おかげを頂くのだ。自分が儲けるなんて思つたら大変な間違ひだ。人間といふものは、自分から生きるこたア出来ない。許されて生きてゐるのだ。それだから、人はパンのみにて生くるものに非ず、と神がおつしやるのだよ。パン問題のみで、人間の生活の解決がつくのならば、世の中は殺風景な荒野のやうなものだ』(『霊界物語』第四六巻 出口王仁三郎著)
人の天職開発
天職とは、人が神さまから与えられた使命です。すべての人に神さまから与えられた使命が存在します。
一方、職業とは、社会生活を営むために、それぞれの事情に応じて適宜に従事するものです。
すべての人が理想の職業につくことはできませんが、現代社会では、生活するために何らかの職業に就くことが必要です。
職業に励みつつ、その職業を通して、天職を果たしていくことが人生の本分です。
大本のみ教え
人間は天賦の使命と天職を覚りはじめて生き甲斐あるなり
(『霊界物語』第一二巻 出口王仁三郎著)
人間の天職は人類共通のものであて、神の子神の生宮としての本分を全うすることである。しかし職業は決して神から定められたものではない。みずから自己の長所、才能等を考究して、自分にもっとも適当とするものに従事すべきである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)
目は目、鼻は鼻、口は口、みなそれぞれの職能がある。目をして鼻の代りをつとめさすわけにはゆかず、鼻をもって口の代りをさすことはできぬ。人おのおのその長あり。他人のまねの出来ない、その人独得の能を持っているものである。ゆえに、お互いに相互の長所を学び、これをもって相助け合うてゆくならば、自然に世の中は円満無碍におさまってゆくのである。
こういうと、「しからば百姓は百姓、役人は役人と、もうちゃんと先天的にきまっているのか。それでは人にはげみというものがなくなるではないか」と問う人があるかも知れぬが、決して人間の考えるように簡単に決定しているというわけではなく、大将となるべき人なら、最初から大将の仕事ばかりしているのではなくして、いと低い仕事からだんだんに仕上げていったのちに、はじめて大将なり、大臣なりになれるわけである。こういう人は、決して、下僕の役目に心の底から満足することはできぬし、また百姓たるべき人に大将の役目をさせてみたところで、苦しくてやり終うせるものではない。こういう人は、なんとなく百姓たることに心のくつろぎを感じ、平和を味わうことができるのである。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)
真の個人主義とは、天より特に自己に賦与されたる職能を、能うかぎり完全に発揮することである。ただこの場合、おうおう、自己のために他を排すということになり勝ちであるから、他に大した迷惑をおよぼさぬ範囲において、真の自己を発揮するように努力すべきである。
真の共栄主義とは、できる限り、他をして、その特能を発揮さすようにつとめることである。ただこの際、あまりに、単なる認容にすぎて、自己というものをないがしろにするようなことがあってはならぬ。
安っぽい犠牲にながれてはならぬ。自己なるものが、この世に生まれ出たのは、とりもなおさず、自分でなければ果たせない仕事があるからである。これと同時に、自己以外のすべての人々もまた、そうである。だから、吾々は、相互に、このことをよく自覚して、それぞれの天職使命を果たし、果たさすようにと気を配らねばならぬのである。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)
人間の一生というものは、ただ社会的な業務にはげむだけでは、ほんとうは生きがいがないのです。もちろん、その人の社会的業務は、その人の天職とおもって、これを軽んじるわけにはいきませんが、それだけでは、その人の魂を満足さすわけにはいかないでしょう。それだけでは、夜半しずかに自分というものを凝視したとき、たえきれない寂寥におそわれるのではないでしょうか。
それで、自分の性格にむいたものによって、精神的に満たしてくれるよろこびがなくては、人生とは言いがたいように思います。
それが充たされないということほどさみしいことはありません。それは、その人の体質が要求するように充たされるべきものです。それにしても自分の職務だけは、第一に一生けんめいに、さしていただかなければなりません。(『寸葉集』第一巻 出口直日著)
東海教区特派宣伝 前田茂太