「お土のご恩」

大本の田植え

お土のご恩

人間はお土を離れて生きてゆくことはできません。国祖・国常立尊のご神体であるお土は、地球上に生きる全ての生物にとってとても大切なものです。出口なお開祖は、お筆先を通じて、物質至上の金の世の中こそ理想世界だと見誤っている人々への厳しいご警告と、お土のご恩の広大無辺なることを諭しています。

微生物とは

「微生物」とは、肉眼で捉えることができない小さな生物の総称です。現在、人間が研究室で培養できるのは全体の1%に過ぎず、地球上の微生物については、99%が謎に包まれています。つまり、私たちが知っている微生物はほんの一部であり、その存在や機能の大部分は未知のままです。ただし、微生物が私たちの生存や健康に重要な役割を果たしていることは確かです。微生物は私たちの身近な存在であり、私たちの生活を支えています。

生態系の中での土壌微生物の役割

土壌微生物の主な役割は分解です。植物が枯れ、動物が死んだ後、微生物は落ち葉や枯れ枝、死骸などを分解します。このプロセスによって、植物や動物の残骸が栄養分に変わり、土壌に戻されます。これが、農作物などが成長するための重要な栄養循環です。そして、健全な土壌の条件の一つとして、「土壌中の生物多様性」が重要であると言われています。土壌には多くの種類の微生物が存在し、それらが共存することで土壌の健康を保ち、植物の成長を促進します。

2015年のノーベル医学・生理学賞を受賞した北里大学の大村智教授は、土壌で見つけた微生物の力を利用して、感染症に苦しむ数億の人々を救ってきました。大村智教授は、「人の病を微生物の力で救いたい」という信念のもと、1974年、静岡県の土壌から新種の放線菌「ストレプトマイセス・アベルメクチニウス」という微生物を発見しました。この微生物が作り出す化学物質には、動物の体中にいる寄生虫を殺す働きがありました。その科学物質は「エバーメクチン」と名付けられ、牛など家畜用の薬となり、ヒトの感染症に効く薬「イベルメクチン」となりました。「イベルメクチン」は、アフリカや南米の熱帯地方で発生する感染症の予防薬として、これまで10億人以上を救ったといわれています。

日本の食料自給率は大丈夫?

日本を始めとする先進国では、人口減少の局面に入っていますが、中国やインドをはじめとする新興国では人口の増加が著しく、2050年には世界の人口が90億人に達し、世界的に食料需要が増大すると予想されています。温暖化のような地球規模での環境変化も加わり、近い将来、世界中で慢性的な食料不足が起こることが危惧されています。一方で、日本の食料自給率(カロリーベース)は40%で、アメリカやヨーロッパの国々と比べても低くなっています。すべての人々が、安全で健康に適した食料を得るためには、できるかぎりの食糧自給を目指す必要があります。

人間の身体は、生まれ育った住んでいる風土や環境と密接に関係していて、その土地の自然に適応した旬の作物を育て、食べることで健康に生きられるという身土不二という考え方があります。大本神諭には日本だけでなく、艮の金神が守護するようになれば、世界の各国においても、その国の人々が必要とする食糧は、その国で生産できるように仕組がしてあると示されています。

「農」は国の礎

農業は国の根幹を左右する大切な産業です。大本では、農は国の根幹を支えると同時に人間性を高めるため、心を鍛えるためにも必要だと教えられています。国際紛争において、食料の支配は武力の支配よりも強力だと言われています。有事の際、食料自給率が低いと、貿易が停止される可能性があり、それが簡単に食糧不足につながります。

たねの支配

種の支配は食料支配に繋がりやすく、日本は主要農産物種子法の廃止に伴い種の支配を受ける危険な方向へ進んでいます。

2018年4月1日、主要農作物種子法(以下、種子法)が廃止されました。種子法は「主要農作物である米や大豆、麦など野菜を除いた種子の安定的生産及び普及を促進するため」に制定された法律で食糧として 重要な米、麦、大豆の種子の開発や生産、 品種改良、普及を各都道府県に義務付けて います。

米、麦、大豆は野菜などと違い、短期間での種子の開発や品種改良、普及が困難であるために、この制度の下で都道府県は試験や研究などを行い、地域に合った品種開発や種の保存などを行ってきました。
この種子法は戦後の食糧難などの背景から制定されましたが、政府は「種子法は現代においてその役割を終えている」と説明し、2017年3月23日に「主要農作物種子法を廃止する法律」を成立させました。

種子法が廃止されたことで、都道府県には種子の安定供給を行う義務がなくなりました。これにより、安定的な種子供給ができなくなることや、種子価格の上昇などが懸念されています。また、種子法廃止によって、単一の品種の大量生産が進み種子品種の多様性が失われることも懸念されています。多様性が失われることで気候変動の影響を受け易く、病害虫による凶作のリスクが高くなります。

さらに、多国籍企業による種子市場の独占が進む懸念もあります。2021年の種苗・種子・シード業界の世界市場シェアを簡易に算出すると、1位は「バイエル」、2位は「コルテバ・アグリサイエンス」、3位は「シンジェンタ」となっています。この3社が全世界の種子市場の7割を占めています。
こうした多国籍企業による種子市場の独占が進むことで、安全性に疑問がある遺伝子組み換え作物の種子しか手に入らないという可能性が現実味を帯びてきました。

一方で、種子法の廃止後、市民や生産者が声を上げ同法と同じ趣旨の条例を制定する都道府県が増えています。2023年4月1日現在、34道府県が制定しています。

大本のみ教え

大本神諭

金銀を余り大切に致すと、世は何時までも治まらんから、艮の金神の天晴守護になりたら、天産物自給其(おつちからあがりたその)の国々の物で生活(いけ)る様にいたして、天地へ御目に掛ける仕組がいたしてあるぞよ。「明治二十六年旧七月十二日」(第一巻)

政治界実業界教育界宗教界思想界軍人界等(よ)に活動(で)ておいでる神にも御存じ無き事が、人民に知れそうな事は無いから、申すように致して、天然惟神之清心(かみごころ)に成りて居りたら、二度目の世の立替えも速やかに成りて、心安静き尊厳而平穏(おだやか)な世になりて、運否運の無きように致して、御土を大事に敬うて作物(つくり)を栽培(す)れば、天から守護(かま)うし、地から守護(かま)うし、中界を守護(かま)わすし、思うように何事も成就(い)くなれど、肝腎の世界を守護致す大元(もと)の神を、他所(よこ)におしこめて置いて、世に出て居りて世を構うて居りた神が、此の世は自己慾主張(いさみ)さえすれば良いのじゃと申して、前後(あとさき)構わん方針(やりかた)の世の経綸策(もちかた)で在りたから、世界中動きも微躯(びく)りとも成らん様に成りて了うたのじゃ。「明治三十六年旧六月七日」(第五巻)

お土から出来(でき)た物であれば、ドンナ物を喰ても辛抱が出来るから、大根の株(めん)でも、尻尾でも、赤葉でも、常から粗末にするで無いぞよと申して、毎度気を付けてあるぞよ。平生(つね)から心得の良いものは、最后(まさか)の時に能(よ)く判るぞよ。お土を大切に思う人は、神が天地から何時も見届けて在るぞよ。「大正七年旧正月二十三日」(第三巻)

結構な田地に木苗を植えたり、色々の花の苗を造りたり、大切な土地を要らぬ事に使うたり致して、人民の肝腎の生命の親の米、麦、豆、粟を何とも思わず、米や豆や麦は、何程でも外国から買えると申して居るが、何時までもそうは行かん事があるから、猫の居る場にも、五穀を植え付けねばならんようになりて来るぞよ。「明治三十六年旧十一月九日」(第一巻)

出口王仁三郎聖師

日本は充分天産自給の出来る国なのである。しかし外国の物を使っていてはできぬ。日本の物だけ使わなできぬ。国によっては天産自給のできぬ国もあるが、日本には何でもあるから出来るのである。(『玉鏡』 出口王仁三郎著)

天産物自給の国家経済に就て少しく述べむに、天産物とは天賦の産物である。自給とは自ら支給し自ら生活する事である。この文字は頗る簡単であるけれども、是世界の人類に取っては生活上の大問題であらねばならぬ。皇道経綸の本旨に於ては、頗る高遠なる意義の存する事であって、衣食住の根本革新問題である。
(中略)
人類生活の根本原料なる食料品は、各自天賦的に発生する土地の生産物を以て、需要供給の原則とする事は、世界的通義である。然るに古来金銀為本的国家経済の流行するに及んで、遂に其本末を転倒して怪しまないのは、現代の通弊である。これ全く天理人道の不明に帰するのであるが、天運循環神威顕現の今日に於ては、根本革正の時機が到来したのである。古今国家の治乱興廃の原因は、必ず、政権及び土地を獲得し、以て衣食住の慾望と虚栄とに満足し、且つ之を我の子孫に享受せしめむとするが為である。要するに食料問題がその最要件なのである。
人生の根本義は、生活せむが為に世に生れ出たるものでない事は、敢て疑ふ可き余地は無いけれども其慾望を満たさむが為に、世界の人類が相競ひ相争ひつつある事は、疑ひなき事実である。冠履転倒本末矛盾せるは、世界的国家の経綸である。食料問題も亦之に準じて居るのである。即ち大にして天賦所生の土地を遊猟場と化せしめ、或は工業地と為し、一は以て残忍酷薄なる遊戯に耽溺し、一は以て金銀財力の収穫を目的とするものである。然して野獣的慾望の窮極は、利害相衝突する所、国家の存亡を賭して戦争するに立到ったのである。これ世界の平和を破り、人生の不安を醸す原因である。日本皇国の天職は、是を根本より革正して、世界永遠の平和を確実ならしめ、人生の本義を明かにするにあるのである。
西洋野蛮人種の真似をして、猥(みだり)に動物を屠殺して食料に供給するのは、神聖なる皇典に垂示し玉へる天理人道に違反する悪魔の行為である。即ち皇典に示し、開祖の神諭に示させ給ふ所に因れば、動物中、人生経綸の労力を補助すべき種類のものと、肉体を供すべきものとの、二つの種類があって、前者の多くは陸上動物である。後者は多く水産動物である。古来屠殺的弱肉強食を為す事を敢て憚らなかったのは、天理と人道の不明なりしに起因したのである。第一に食料の根本問題から解決せなければ、世界の平和を期する事も、救世安民の経綸を実現する事も出来ないのであるが、一度神聖なる祖宗の御遺訓と、大本神諭を拝すれば、忽ち解決が付く筈である。(後略)』「皇道維新に就て」 (『出口王仁三郎全集』第一巻)

人生の本義たるや、其の天賦所生の国家を経綸するを以て根本原則となす。されば其の人類の生活に適当する衣食住の物は、必ず其の土地に産出するもの也。故に天賦所生の人間は其の智能を啓発し、以て天恵の福利を開拓して、文明の利用を研究し、その国土を経営するは人生の根本天則たる也。(『出口王仁三郎全集』第六巻)

また植物などは各その特性を備へ、自己特有の甘さ、辛さ、酸いさ、苦さ等の本能を発揮し、幾万年の昔よりその味を変へないのである。要するに芋は茄子の味に代ることを得ない。また唐辛は蜜柑の味に決してなるものでない。また同じ畑に植ゑつけられ、同じ地味を吸収しながらも、依然として西瓜は西瓜の味、唐辛は唐辛の味、栗は栗、柿は柿の特有の形体および味をもつてゐるものである。しかして、この特有性はすべて霊的より来たり、その成長繁茂の度合は、自然界の光熱や土地の肥痩等によるものである。
しかるに人間は理性なるものを有するがゆゑに、少々土地が変つた時または気候の激変したる土地に移住する時は、たちまちその意思を変移し、十年も外国へ行つて来た者は、その思想まつたく外人と同様になつてしまふものである。これが人間と動物または植物と異なる点である。かくのごとく人間は理性によつて自由に思想ならびに身体の色までも多少変ずる便宜あるとともに、また悪に移り易く堕落し易きものである。ゆゑに動物、植物に対しては大神は決して教を垂れたまふ面倒もなく、極めて安心遊ばしたまへども、人間は到底動植物のごとく神的順序を守らない悪の性を帯びてゐるがゆゑに、特に予言者を下し、天的順序に従ふことを教へたまうたのである。しかしながら人間に善悪両方面の世界が開かれてあるが故に、また一方から言へば神の機関たることを得るのである。願はくは、われわれ人間は神を愛し神を信じ、しかして神に愛せられ、神の生宮として大神の天地創造の御用に立ちたいものである。(『霊界物語』第五十巻「常世闇」 出口王仁三郎著)

夏は光も熱も共に強烈であるから、その関係で一切の植物も動物色素が沢山に消耗される。光熱に対応した色素が豊富になくては、光熱の強さのために圧倒されてしまう。そこで、花でも強い色素のものができるし、葉などでもみどり色が豊かである。その如く、人間にもそれだけの色素が消耗されるのであるから、どうしてもそれを補給する必要がある。
勿論自然に光熱に当れば、身体はそれに相応して色素を益すように、生理的に調節されるのではあるが、食物の上からも補給することが良い。五色のものをとるようにすることで、キウリとか茄子とか、南瓜(かぼちゃ)とかトマトとか、、その季節になると色素の豊富なものがあるはずだから、偏食しないように、あれもこれもと喰うことである。いまのが学問はまだ色素の問題にまで考えが進んでいないから、まだ真実の生理作用や、気候に依る栄養のことが明瞭にならない。
神様は、人間に必要なものを自然に与えていられるのであるが、学問は、自然の全部をとり入れて研究しようとしない。土と人間、自然の全部をとり入れて研究しようとしない。土と人間、植物と人間、気候と人間というように、基本的なものが研究され、それが如何に身体に影響するか、また精神的にも相応するかを研究するようになると、国土と国魂というものが判るようになって来るのである。世界中、地質の同一であるところは、人間も生理的にみても精神的にみても、共通のところがある。勿論植物等も、それに共通する種類か、または類似の性を持つものが多い。(如是我聞――瑞言滴々、「神の国」昭和二十六年九月号)

王仁『(前略)国家のたいほん大本は百姓せねばすべては固まらぬ。一切のものは、工業でも商業でも農から始まるものだ、百姓は造化の神と一緒に働いとる。農業をやってると、耳で聞かず口で教えられない教訓を受ける。だから学問にいわれぬ教育を受けとる。農をやれば政治もわかれば何でもすべてがわかる。昔から親族家族(うからやから)という言葉がある。百姓は「おほみたから」というて天族の意味で田族(たから)だ。世の中の宝は百姓よりほかにない。……』(『出口王仁三郎全集』第五巻「農村座談会」)

ヤク『治道さま、世の中は心配せなくてもいいものですな。私たちは昨日から一食も碌にせず、山坂を下り、スタスタここまでやつて参りましたが、もはや腹はすき、喉はかわき一滴の水もなし、進退これ谷まるといふところでございました。九分九厘で既に息つかうとした時に、かやうな尊い苺を下さるとは、何とも、たとへがたない有難さでございます。これを思へば、決して神様は吾々を見殺しにはなさりませぬな』
治道『さうだ。人間は神様の与へて下さるものを頂いてをりさへすれば安全だ。今の人間は食つた上にも食ひ、飲んだ上にも飲み、贅沢三昧をして、これは甘いの、不味のと小言ばかりいうてゐるから、生活難の声が起るのだ。それで物価はますます騰貴して人民はいよいよ苦しむのだ。万人が万人ながら神の恩恵を有難く感じ、与へられたものを頂くといふ事になれば、世の中は貧乏もなく、病もなく、また争ひも起らぬ。だから吾々はどこまでも、惟神の道を歩まねばならないのだ。これで神様の有難いことが分つただらうな……。オイ、バット、お前はバラモン軍を離れてから、泥棒とまで成り下がつてをつたが、その間に何か愉快だと思つた事があるか。あるならその時の感想を私に聞かして欲しいものだ』(『霊界物語』第六五巻 第一二章 出口王仁三郎著)

あゝ立派なものだ。この光景を見ると、まるで天国のやうな思ひがするね。世界中の人間が、かうやつて一生懸命に働かうものなら、世の中に一つも苦情は起りはしない。吾吾は宣伝使が辛いと思つてをるが、この百姓の働きを見れば、別にどんな苦労艱難しても足りないやうな心持がする。粒々みな辛苦になつた米を吾々はいただいて、神様や社会の恩に浴し、手厚い保護を受けながら、御道の為だの、国の為だのといつて、宣伝使面を提げて歩いてゐるのは、実にお百姓に対しても、天の神様に対しても、恥づかしいやうな気がする。ひとつ吾々は冥加だ、百姓に頼んで手伝はしてもらひたいものだナア(『霊界物語』第六巻第四四章 出口王仁三郎著)

その他農業で云へば―今迄の農業といふものは日本人の戸数の少ない時で、地面の沢山ある時の何百年、何千年前からの、農業を踏襲して、年に一回で差支へなかつたが、今日の人口がこれ丈殖えて来てゐる。人口が殖えて却つて不毛の土地が沢山出来る。家を余計建てて行けば、そこに物が出来なくなる。そして喰ふものは余計必要が起つて来る。これはどうしてもその侭にして居つたならばいかんから、矢張り二度作をやる。一年に二度取る。三度取るといふ事を考へねばならぬ。陸地に稲が出来なかつたのも、これは陸地に稲を作る様に水田と同じ様に作つたならば山や畑に、稲が出来る様になつて来る。更生といつても日本は農が国家の大本であるから、農業から更生せねばいかん。で農は国家の大本であると共に、皇室が国家の大本であるのである。何故かと云へば大嘗会の時にも、天皇自ら稲をお作り遊ばされる。皇后陛下は蚕を飼つて、機を織られる。
これは農業の型を示されたのである。天照皇大神以来農業を以て国を建てられたのである。農は国家の大本といふ事は、皇室の大本であるといふ事である。農業といふのは皇祖皇宗が教へられて、皇室に伝はつてゐる所のものである。農業がなかつたならば、日本の国民及び世界の国民は一日も命を保つ事が出来ぬ。それから今日は生活費が沢山要るといふけれども、これは自分等の若い時分から云ふと非常に贅沢になつて居る。百姓といふものは働いても働いても麦飯が―麦飯だぞ―喰へなかつた。現今では一日が十銭位にもならない。わし等の子供時分には、一年を平均すると一日に八厘位にしかならなかつた。それでも大根の葉を入れたり、赤葉を入れたり草も混ぜて喰ひ、喰へるものは木の葉も喰つて、そこに麦飯を入れてやつと百姓が生命を保つてゐた。それでもウンともグウとも云はず、其が為に又死ぬ者もなく、痩せ衰へるものもなかつた。
今日は世の中が文明のお蔭で非常に結構になつて、そんな事はせなくてもよいけれども、もう少し生活費の倹約といふ事を考へ実行する事が、これが第一更生だと思ふ。農家を更生させるには取入れの事を考へる事も大切だが、冗費を省くといふ事が非常に大切である。一方には収穫を多くする事一方には冗費を省く事を考へたならば、農村の更生は数年の間には幾分かよい方に向ふと思ふ。個人の家で云つても、貧乏になるのと金持になるのとの境はどこにあるかと云へば、只一日の事である。明日働く金で今日喰ふ人は貧乏である。昨日働いて得たものを今日喰ふ人が金持である。それ丈で金の延びないものが出来る。働かん先に明日働くものを今日喰ふのは、これは貧乏になる分水嶺である。昨日働いたのを今日喰ふのが、これが金持になる分水嶺である。なんでもない。一寸の心得様でどうでもなつて来ると思ふ。此の更生運動もさういふ小さい所にあると思ふ。(『出口王仁三郎全集』第一巻)

豊受の神のめぐみに食物と
衣類のたねは生り出にける
(歌集『東の光』  出口王仁三郎著)

玉の緒のいのちの糧となりいでて
神の守らす瑞穂の稲種
(歌集『東の光』  出口王仁三郎著)

天の狭田長田に生ひし稲種は
人の生命をつなぐ糧なる
(歌集『言華』  出口王仁三郎著)

出口すみ子二代教主

「(前略)それから愛善苑ではとくにお土の御恩を知れということが教えられています。たとえ猫の額ほどの土地でも遊ばすことはならん、草を生やすことはならん、とやかましくいわれた。私どもが未決監から帰って来まして落ちついたのは今の農園(中矢田農園)です。そのほかの建物は何もかも弾圧で破壊されてしまった。いやがおうでも土に立ち上がらなければならない。愛善苑はここから開けて来たのです。それは日本の現状と少しも違いません。
それから思いますと、日本の一番大切なことは、お土の御恩を感謝し増産をすることだと思います。日本はやはり農業国です。みんなその気持ちでお土を大切にしなければなりません。大切にするということはお土に感謝し、お土から一粒でも多く増産をすることであります。(後略)」(昭和二十二年七月三日本部道場月次祭。(「愛善苑」誌昭和二二年七月一五日号)

「お土を拝むような心になったら、なんぼでもご神徳がいただかれます。大地は国祖大神様のおからだであるということに気がつき、もったいないという心になったら、なんぼでもお米でも、野菜でもなんでも穫らさしていただけますよ。」(「愛善苑」昭和二二年一一月一日号)

「人間がこの世に生まれて、夫婦、親子むつみあい、子孫が栄え、大きく言えば一つの国として隆盛を見ているのは何のおかげでありましょうか。日の恩、月の恩、土の恩によるところであります。この三つの恩によるより外に、人生というものはないと思います。これはわたくしがことあたらしげに言いませんでも、皆さんご承知でありましょう。
このご恩を、最も身近に感じていられるのは、お百姓さんたちだと思います。お百姓さんのことを昔から「おほみたから」と申しますが、この大御宝にとって、お日さま、お月さま、お土さまは、やはり大きな宝であり、親さまであります。蒔いた種を育てて下さるのはお土さまです。これに恵みを与えて、すくすくと伸びさせ、花を咲かせ、実を生らせて下さるのはお日さまです。また、水のことを司って下さるのはお月さまです。都会に住む人たちにとっては、お月さまはただ美しいと見るだけのものかも知れませんが、土を耕す人たちにとっては、その満つること、欠くることが絶対の関係を持つのであります。これによって見ましても、どんなにそのご恩が深いかがわかると思います。
いまでも地方の純朴な人たちは、朝起きるとすぐに東に向かって合掌し、お上がりになるお日さまを拝んでいられます。これを笑うのが新しい時代の思想だそうでありますが、それは、お日さまの照っていて下さるのを当然なことだと思い、恩を恩と考えることのできない人たちのものでありまして、直接に苗を育てていただき、花を咲かせていただく人たちにとりましては、お日さまはただちに神さまであられます。拝むのは当然であり、拝まねばならないと考えます。わたくしは、人間がお日さま、お月さま、お土さまを拝む精神を失ったときに、不幸がやって来たのであると信じております。もう一度素直になって、みんなで拝む心になりましたら、世界に競争というものはなくなり、人と人とが憎みあったり、疑いあったりすることがなく、本当の地上天国が参ると思います。苑主(出口王仁三郎)の常々説かれるところも、ここにあるのです。

あめつちの神の心を心とし今日の一日をむだに送らじ

これは、わたくしの詠みました歌でございますが、天地の神のみ心とは、とりもなおさず日地月のみ心であります。この心を持たれるお百姓さんのことが、いつかの「愛善苑」誌にも出ておりましたように記憶いたします。土は耕すのではない、耕させていただくのである。そう信じて、お百姓さんは朝の田や畑へ足を踏み入れるとき、かしわ手を打ち、神さまを拝む心でお土さまを拝み、それから仕事にかかられる。その心が大地に通じて、その人の作っていられる田畑は、ほかの田畑よりもずっと出来がよいということでございました。本当に、聞いただけでもうれしく、有り難いことと思います。

拝む心には、素直さがあり、畏れ、敬い、尊ぶ心があります。この心は、耕す土に行き届きまして、ここには肥料が足りないとか、ここには何を蒔かねばならないとか、わかるのでありましょう。また、このお土には少し負担をかけすぎている、もっと深く掘ってみねばいけない、というようなこともわかるのであります。そういたしますと、土の心と人の心とがぴったりと一致して、おたがいにわかり合い、立派な作物ができるのであります。

潮の満つること、退くことは、お月さまによってなされるのでありまして、この干満が人間の生死に直接の関係があるのを、皆さまもご存じであろうと思いますが、このことは、ただ海に起こる現象であるだけでなく、大自然の全体におよんでいるのでございます。そして、人間の生活に直接必要な水に関係するのでありますが、耕すために、水がなければどうすることもできません。お日さまのご恩によって木も、草も育ち、茂り、実るものではありましても、それが過ぎますと干ばつというものが参ります。そのようにならなぬよう、適度に天を降らせていただく、川の水をひくことができる、露が降りて田畑のものをうるおす、これらのはたらきは、お日さまとお月さまのなされるところであります。それは自然の現象である。拝まなくても自然にそうなるようにできているという考え方が、いまの人々の頭にはあるように見えますが、それは心得ちがいでございます。その証拠には、拝む人と拝まない人との田畑の成績が違っているのであります。

この土が瓦となりて雨露をしのぐは神のめぐみなりけり

これも私の歌でございます。土のご恩、神さまが人間に土を与えて下さったご恩を申したのであります。恩に馴れて、人間はお土さまを何心なく足で踏んでいる。これは親の恩に馴れて恩を思わぬようなものですが、これを瓦に焼いて屋根に乗せ、頭の上にいただいたとき、ご恩はよくわかるのであります。瓦の一枚、それは土でできて、そのおかげで雨にも雪にもあたらないのであります。これを思えば、土のご恩を受けているのは耕す人たちばかりではございません。わたくしたちの、日々使わせていただいている茶碗、土びん、湯飲み、その他さまざまのものは、多く土で作られております。そして、生命をつなぐ食べ物はほとんどお土様からいただいたものであります。

耕す方々が、お土さまを拝み、祈って作られるのでありましたならば、これをいただく人たちも、お日さま、お月さま、お土さまのご恩を拝み、お礼を申し上げていただくべきだと思います。(「愛善みずほ新聞」昭和二十三年一月号「お土さまを拝む心」初代総裁 出口澄子)

それから愛善苑ではとくにお土の御恩を知れということが教えられています。たとえ猫の額ほどの土地で遊ばすことはならん、草を生やすことはならん、と喧しくいわれた。私どもが未決監から帰って来まして落ちついたのは今の農園です。その外の建物は何もかも弾圧で破壊されてしまった。否が応でも土に立ち上らなければならない、愛善苑はここから開けて来たのです。それは日本の現状と少しも違いません。それから思いますと日本の一番大切なことは、お土の御恩を感謝し増産をすることだと思います。日本はやはり農業国です。みんなその気持ちでお土を大切にしなければなりません。大切にするということはお土に感謝し、お土から一粒でも多く増産をすることであります。(二代教主さま「愛善苑」昭和二十二年七月十五日号)

出口直日三代教主

私の父は――人間は、一生の間に、少しでも百姓をしておかないと、人生の妙味は味わえない。ことに、政治にたずさわる人は、お土の尊さ、ありがたさを体験して、ほんとうの仕事ができるものである――といっていましたが、これは真実の言葉であると思います。日本人はすぐる戦争の中でお土の尊さ、お土のありがたさを充分に学ばしていただいただけに、日本独自の美しい田園の荒らされることは、現代日本の倫理に、とてつもない割れ目が生じているのではないかと、憂うるものです。美田のつぶされることも、日本の発展のためにはやむをえないでしょうが、開発企画の基本に大きな忘れものがあるのではないでしょうか。これほどの犠牲をはらわなくても、日本の自然を高度に生かしてゆく工夫によって、目的が達せっれないものでしょうか。美田とともに日本特有の可愛らしい丘や小山がこわされることも、なんとか防げないものでしょうか。その場ふさぎの一時仕事でなく、長い目でみた日本の自然を生かした開発が企画されないものでしょうか。(『私の手帖』 出口直日著)

さらに開祖さまはその精いっぱいのくらしの中に埋没されることなく、天下万民のしあわせをお祈りになることに、身命をおかけになったのでございます。当今の食糧事情は自給自足に程遠く、日本は海の彼方の物資に依存しており、一朝それが断たれましたら、それこそお米一粒、菜の葉一枚もとうといことを思いしらされるはずですのに、そのありがたさを忘れ、さらにすべてを産み出すお土のご恩も思わず、神さまのものであるお土を投機の対象にさえするというような、恐ろしい世相だと申します。
私どもは、くり返し申しますことですが、お土のご恩に感謝し、ものをまつべるという、開祖さまがおん身をもってお示しになりましたくらしに、どうしても立ち帰らなければならないと存じます。(三代教主さま開祖大祭ご挨拶・「おほもと」誌昭和六十二年十二月号)

大本開祖の筆先には大峠のくることを明らかにお示しになっています。筆先に示されてありますことは、みなその通りになって来ます。これは、これまでの歴史が証明しています。ここ五六十年の、思ってもみない世の変わり方を見てもそれはわかります。――といって、いたずらに心を奪われ、騒いだところで、人間にどんなことができましょう。お筆先のお示しは、人の心をおどかすためでもなく狼狽さすものでもないことは分かり切ったことで、その一つ一つを、心をしずめていただき、そのみ旨にそう心構えと、日々の行ないを高めることが大切でしょう。
百姓であれば、神さまにご守護をねがって米や麦を熱心につくる暮し、人間の努力をかたむけて、なお神に祈り、力かぎりの努力をしてゆく、それは自分の暮しの上だけでなく、広く世の中のために働き、意義ある運動に奉仕し、そういう生活の中で、人間が天国に帰る日のために、自分のこころを養い育ててゆく、ゆとりのある暮しを怠らないことであると思います。(『私の手帖』 出口直日著)

日本の立直しは、どうしても―農民を大切にすること―から始まらなければと思います。古い諺に“腹がへっては戦ができぬ”とあります。この言葉は、今も、働く人々が昼餉時などによく口にするもので、実際、どんな偉い人でも、ご飯がいただけなければ、まいってしまいます。これは、第二次世界大戦中に日本国中の人々が、一度は肝に銘じて体験させられたはずで、したがって、食べものの極度に不足した社会が、どのような世相を描き出すことかは想像にかたくないところです。(『私の手帖』 出口直日著)

「食」というものが、私たちの人生にとって、人間社会にとって、どれだけ重要な地位にあるかは、だれでもがチョット考えてみれば分かることでありながら、実際には「食」について根本的なことがらが、あまり考えられていないのではないでしょうか。ことに食物をつくる「農」というものは、この現実において、何に先行さしても考えるべきことがらでありましょう。

政治は、百姓を大切にしてこそ、ほんとうの正しい政治が行われるのです。農を中心にしてこそ、国の経済も文化も、本当に立直るものであることを、わたしはかたく信じます。

わたしの経験では、農の楽しみは、ものを産みだしていく喜びではないかと思います。種を播く、芽を出す、こちらが、力をそそいだだけの結果を、正直に、如実に示してくれ、そして実りを与えてくれます。この喜びではないかと思います。

土を耕す苦しみも、真夏の草とりの苦しみも、日々に育ち実っていく喜びが、はっきりと裏づけられているので、苦しみの中からも喜びが流れてきます。それが疲れも忘れさせ、苦しみもいやしてくれます。

こうした苦中の楽が、人の気持ちをやさしくしてくれ、かつ強靭にしてくれ、豊かにしてくれます。しかし、農の経験もなく、自然との素直な結びつきを味わっていない人は、どういうものか、ものごとをひが目で見るくせがあるのではないかとおもわれます。

それで、人間は、ある時期に、どうしても農の体験を多少とも経ておくことが、その人の人生にとって、必要ではないかと思われます。

わたしが農業に専念していたころ、都会に住む知り合いの子供をさそったところ、薯畑の中をころぶようにして働きました。採り立ての薯をふかし、ふるまった時、こんなに美味しいものは初めてだといった、いかにも満ちたりた表情でした。

人は、普通に健康であれば、誰でも農業は楽しいといいます。ほんとうのことをいうと、今天下で一ばん美味しいものを食べているのは、農民ではないでしょうか。

トマト一つにしても、店頭から買ってきたものと、畑で熟れたのを直ぐにいただくのでは、あまりにも大きな差があります。茄子、胡瓜、枝豆と数えてみると、それの美味しいものを頂いているのは、農民ではないでしょうか。これは、汗して働く農民への神様からのごほうびでしょう。

この喜びを、土の上に生をいとなむ人間は、一度は会得すべきでしょう。それが今なお虚構の多い世の中をよくしてゆく上に、欠かせないばかりか、ほんとうの信仰も芸術も、やはりお土への感謝から芽生えるのではないかと思われます。一九七六・一)(『三代総裁お言葉集』(一))

農薬がわるい、化学肥料はいけないといっても、近代農法のすべてを否定して、原始に帰れということではないはずです。しかし、その中の人間の思い上りからおこしている害毒、われよしから生み出している罪悪はあまりにも大きく、これは早急に改められなければなりません。これは、農法だけにとどまらず、企業のいっさいに通じることがらではあっても、農法は、一ばん大切な生命の糧につながる第一のものとおもいます。(「おほもと」誌 昭和四十六年二月号「続・朝陽記」 出口直日)

人間はある期間は何らかの方法で土に親しみ、農を体験さしていただくことによって社会の底深いなりたちを感じることが出来、それによって私たちの生涯を尊いものとし、生活の上に文化の上に浮き上ったものでない地についたものを求めるようになることを信ずるのであります。(『私の手帖』 出口直日著)

食というものが、私たち人生にとって、人間社会にとって、どれだけ重要な地位にあるかは、ちょっと考えてみれば分かることでありながら、実際には食についての根本的な事柄が、あまり考えられていないのではないでしょうか。ことに、食物をつくる〈農〉というものは、この現実において、何に先行さしても考えるべきことでありましょう。政治は、百姓を大事にしてこそ、ほんとうの正しい政治が行われるのです。農を中心にしてこそ、国の経済も文化も、本当に立ち直るものであることを、私はかたく信じます。(三代教主さまのお言葉、「人類愛善会昭和四七年新発足のお言葉」)

出口聖子四代教主

昨年は陽を待ち望み、今年は水を乞い願うという異常な夏がつづいて、思い知らされるのが二代さまのお歌です。
〝火のご恩水のお恵み土の恩これが天地の神のみすがた〟
これは大本信徒が食前にいつも唱えさせていただいているお歌で、信徒の皆さまがよくご存知の一つです。病になって健康のありがたさをわからせていただくように、こんな事態になりますと平凡な日々が如何にありがたいかを痛感させられます。
聖師さまは、
〝大三災小三災の頻発も人のこころの反映なりけり〟
とお詠みになっています。
このような異状事態が起こりますのも、人々の日常の思いあがりと心得違いによるものではないでしょうか。人の心が直くなれば、五風十雨の頃合いが良く、豊作に恵まれると教えられています。
人は神さまに生かされ、使われていることを忘れ、自分が何でもしているつもりで感謝の気持ちを忘れ、何時の間にか慢心しおごった気持ちになりがちです。
事の多いこの頃、大本信仰の根本である〝天地のご恩〟をしっかりお腹に入れて、一日も速く当たり前の気候にもどりますように、皆さまと共に天地の神さまにお祈りし、知らず知らずの心得違いをお詫び申し上げましょう。
ではみなさま、またお目にかかる日までお元気で、気をつけてお帰りください。(『教主御教示集』出口聖子四代教主)

タイ米は日本のお米と違って、日本人の好みにあいにくいためか、各地でさまざまな物議をかもしています。タイ米を何とか美味しくいただけないものかと、マスコミでもさまざまな料理方法を取りあげています。大本の信者さんにはないかと思いますが、世間では美味しくないと決め込んでしまって、配給されたタイ米を何の工夫もせずに平気で捨ててしまう人があると聞きます。中には美味しいお米を求めて海外までツアーを組んで買い出しに行かせる旅行社もあるそうです。二代教主さまは、「一粒の米の中にも三体の神いますことをゆめな忘れそ」とお詠みになって、食べものの大切さをおさとし下さっています。タイ米でも日本米でもお米に違いはありません。どちらも同じご三体の大神さまのご守護によるものです。天地の大神さまのみ恵みに感謝して、ありがたくいただきたいものです。
あれやこれやの話を聞きますと、口にできるものは何でもいただかざるをえなかった第二次世界大戦末期から戦後の、いつも空腹だった数年間を思い出さずにはおれません。
そして世界ではいまだに餓死者のでる国があるのに、米不足、経済不況と騒ぎながらも今の日本は豊かなんだナーと半分あきれ、半分は感心しつつもこれでよいのかと思わずにはおれません。今はお米を買い出しにいく余裕はあっても、不況と、天候異変がこのあと数年も続けば買い出しにいくにも経済的な余裕はなくなるでしょう。しかも、不況も天候異変も日本だけのものでなく世界的な事柄です。世界の米の生産国も、いつ日本と同じ不作に見舞われるかわからないのです。
聖師さまは、『お土からあがりしものを大切にせざればこの世は治まることなし』と教えて下さっております。このようにお米だけでもさまざまな問題、考えねばならぬことがたくさんあります。人々の意識を変えてゆかないとやがてはこのお土の上に生かさせていただけなくなるかもしれません。
大神さまのご意志どおり、長生殿が建ち上がってから世界中が、良きにつけ悪しきにつけ大きく変化してきています。
今日の世界はミロクの世への胎動期なのです。人類は渡らねばなら大橋にさしかかっています。
今の世界の困難は、ほんの暫くか、数年か、あるいは何十年か予測はできません。それは私ども人間の心次第で長くも短くもなるでしょう。この重大なときを皆さまとともにひたすら大神さまにお縋りして素直に明るく、前向きに凌いでまいりましょう。
ありがとうございました。またお参り下さい。そして天地の親神さまのおしずまりなさっているこの長生殿で皆さまとともにお祈りいたしましょう。(『教主御教示集』出口聖子四代教主)

東海教区特派宣伝使 前田茂太