「死後の世界」

夜の鳥居と蛍

世間の人々は、寡婦や寡夫、貧しい人、重病人を不幸だと言います。しかし、本当の不幸はこれらの人々よりもさらに深いところにあります。それは、莫大な富や高い地位を持っていながら、死後の世界を知らないことです。

どんなに貧しくても、寡婦や寡夫であっても、死後の永遠の生命を感じている人は、心の中に静かな安らぎがあります。現実の生活を見ると、実に寂しく、はかないものです。人間は産声を上げた瞬間から、死刑の宣告を受けているようなものです。

毎日少しずつ成長する赤ちゃんも、一日一日とその運命に近づいています。それでも私たちは、まるで永遠に生きられるかのように安心し、地位や名誉、富といったさまざまな欲望に駆られながら、現実世界で忙しく生活を続けています。そして、日々死に近づいているという事実に気づいていません。

少し想像してみてください。

拘置所に10年以上収監されている60代の死刑囚の手記です。

「毎日、自分が執行されるのではとおびえています。夜が明けるたびに脂汗をかき、針が落ちる音さえ聞き逃すまいと職員の行動に異常に敏感になり、朝食の味がわからないほど緊張します。朝が怖く、憎いとさえ思います」

重罪を犯し、裁判官から死刑宣告を受けた者が、刑の執行日を待つ間の気持ちはどのようなものでしょうか。寂しさや苦しさを抱え、食事の味も分からないような、ほとんど死んだも同然の状態で日々を過ごすことでしょう。

ですから、どんなに学識があり、地位が高く、富を持つ人であっても、明日のことや死後のことがわからない不安の中で日々を過ごすことほど不幸なことはありません。

大本では、私たちは本来霊的存在であり、この世で死ぬことは霊界への誕生に過ぎないと教えられています。死という言葉は人間に恐怖心を抱かせますが、実際には人間は死んで初めて真の世界で生きることになるのです。私たちが死後無になると思われている世界こそが、霊的存在である私たちの帰るべき場所なのです。

肉体が死ぬことはあっても、魂には死は存在しません。魂は肉体の死後も生き続け、生きていたときのまま、個人という存在は存続します。死後も意識があり、自覚があり、記憶があり、理性を働かせ、愛を表現することができるのです。この視点から死という概念を捉えると、私たちは物質的な肉体を超えて、永遠の存在としての本質を持っていることが分かります。

「今度生まれ変わるとしたら・・・」
「死んだ母が見守ってくれている・・・」
「あの世で再会して・・・」

これらの言葉は日常生活でよく耳にしますが、その中には永遠の存在としての真理が示されています。

死は一時的な段階に過ぎず、私たちの魂は永遠に続きます。
当然、愛する人の魂も永遠に続いています。

 

大本の教えには霊界に関する内容が豊富に含まれています。

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「冥界の審判」

「われなる精霊と守護神」

「再生と前世の記憶」

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「霊的なこと」に対する心構え

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東海教区 特派宣伝使 前田茂太