「霊的なこと」に対する心構え

みろく殿の入り口

大本における霊界観

大本では、霊界とは現界(顕界)・幽界(中有界)・神界(天界)の三つの世界からなる壮大な霊的世界を指します。現界も霊界の一部であり、私たちが日々経験する出来事すべてに霊的な意味があると考えられています。

死後の世界と人生の目的

「もし死後の世界がないとしたら?」そんな疑問を持ったことはありませんか?
もし存在しないならば、「今さえよければいい」という考えが広がるかもしれません。
しかし、それでは人生で培った知識や経験、愛情や記憶までもが無意味になってしまいます。
それはあまりにも虚しいことではないでしょうか。

大本では、霊界の存在を確信することで、人生に潤いと指針が生まれると説いています。
人生の目的は、死後により高い霊界へ進むための資格を現世で培うこと。
現世での幸福や享楽だけを追い求めることが、人生の最終目的ではありません。

現世での学びと霊的成長

霊界を信じることは大切ですが、現実世界をおろそかにしてはいけません。霊的なことばかりに気を取られると、現世で果たすべき目的を見失ってしまう可能性があります。

大本では、「改心と身魂磨き」を通して自らを高め、神さまに感謝の祈りを捧げながら正しく生きることが重要だと説いています。霊的な成長は、特別な場所や時間に限られるものではなく、日々の生活の中にこそその機会が潜んでいます。たとえば、感謝の気持ちを忘れずに人と接したり、善言美詞を心がけたりすることなどが挙げられます。

つまり、日々の小さな行いの積み重ねが霊的成長を促し、霊界との調和を深め、より良い自分に近づくための一歩となります。

霊感・霊覚・霊媒とは

「霊感」とは、通常の五感を超えた感覚のこと。一方で、「霊覚」は、精神界に対する深い悟りを持つ人格者に備わるものです。霊覚を持つ人は、日常生活でも礼儀正しく、愛情深い傾向があります。ただし、霊覚者であっても、人間的な弱さから神の声に自身の考えを混ぜてしまうことがあると言われています。

「霊媒」とは、霊の影響を受けやすい体質や状態を指します。霊的な現象を目にすること自体は珍しくありませんが、それを正しく判断するには、冷静な直観力が不可欠です。そのため、霊媒の人格や日頃の言動を慎重に観察し、安易に信じ込まないことが重要です。また、霊的な現象が見えることが、人間としての優れた資質を意味するわけではありません。

さらに、霊界には多層の階層があり、神界は基本的に人間に神通力を与えないとされています。なぜなら、神通力は現実の秩序を乱し、人々の自由意志を尊重するという神界の原則に反する可能性があるからです。

邪霊の見極め。霊的な言葉に惑わされないために

現代は情報があふれ、価値観も多様化しています。そのため、善悪の判断が難しくなり、特に霊的な事象は真偽の見極めが困難です。

出口王仁三郎聖師は、「正神に百八十の階級があるように、邪神にもほぼ同数の階級がある」と述べています。上級の邪神になると、正神と区別がつかないほど巧妙です。正神と邪神を見分けるには、「動機」に注目することが大切です。

正神は、愛と善を体現し、世界の調和を目指します。一方、邪神は自己中心的な考えを持ち、善を装いながら勢力を拡大しようとします。

邪神は常に甘い言葉で人々を誘惑します。そのため、表面的な利益に目を奪われず、「その行動は利他的か、それとも自己中心的か?」を見極めることが重要です。

霊媒と呼ばれる人たちの霊的な言動には、特に注意が必要です。邪霊に支配された人には、精神的な不安定さが見られ、その兆候は多岐にわたります。例えば、異常な食欲や色欲に溺れる、些細なことで激しく怒る、常に悲観的な考えに囚われるといった状態が挙げられます。

邪霊の目的は、人を弱体化させ、苦しめることにあります。そのため、手段を選ばず、心の弱みや執着につけ込み、否定的な想念を増幅させることで影響を及ぼします。

また、憑依された人の記憶や感情を利用し、現実の悩みや後悔、不安をさらに深めることで、精神的な混乱を引き起こします。つまり、邪霊は、その人の心理状態を基盤にしなければ作用できません。

出口王仁三郎師は、こうした霊的影響について次のように述べています。

「すべての偽予言者、贋救世主などは、この副守の囁きを、人間の精霊みづから深く信じ、かつ憑霊自身も貴き神と信じ、その説き教へるところもまた神の言葉と、自ら自らを信じてゐるものである。すべてかくのごとき神憑は、自愛と世間愛より来る凶霊であつて、世人を迷はし、かつ大神の神格を毀損すること最もはなはだしきものである。かくのごとき神憑は、すべて地獄の団体に籍をおき、現界の人間をして、その善霊を亡ぼし、かつ肉体をも亡ぼさむことを謀るものである。近来天眼通とか千里眼とか、あるいは交霊術の達人とか称する者は、いづれもこの地獄界に籍をおける副守護神の所為である。」(『霊界物語』第四十八巻)

この言葉からもわかるように、邪霊は人を欺き、あたかも正しい教えを説いているかのように思わせます。しかし、実際には「自愛と世間愛より来る凶霊」であり、人々を惑わせ、真の神の教えを歪める存在です。

邪霊の影響を受けた人は、周囲の人々に対して過敏に反応し、特に自分にとって不都合な言動をとる人を強く嫌悪する傾向があります。その結果、社会との関わりを避け、孤独を好むようになり、華やかな環境を嫌うことが多くなります。また、霊的な力を誇示する者の中には、「地獄の団体に籍をおく」存在が少なくないため、見極めが重要です。

ただし、邪霊にも様々な種類があり、その影響の現れ方には個人差があります。重要なのは、霊的な事象に対して冷静に向き合い、盲信することなく慎重に判断することです。

霊界との調和を目指して

霊界の真理を理解し、現世での学びと魂の成長を両立させることは、調和の取れた人生を送る上で不可欠です。霊的な探求は、自己の内面と向き合い、人生の目的を深く考察する機会を与えてくれます。しかし、霊的なことに執着しすぎると、現実世界での暮らしや責任、人間関係をおろそかにする恐れがあります。

大本では、霊界と現世は互いに影響し合い、密接に結びついていると考えられています。

そのため、霊的な成長は日々の生活の中で実践されるべきであり、現実世界での行動や選択を通じて、神さまの教えを実践することが重要です。

 

大本のみ教え

霊覚霊感とある。霊感といふ奴はまだええ事はない。霊覚といふのは、所謂神は愛善だから神の心を覚つたのが霊覚だ。ほとけは覚者といふことで、愛と善とが徹底したのが霊覚なのだ。神様を見たとか何とかいふのは霊感だ。(『出口王仁三郎全集』第二巻)

霊覚と霊感とを混同してはならない。霊覚とは霊妙なる悟覚の意であって、各人が身魂みがきを十分した後に、神から授かるものである。霊感を強いて求めると、時には魔道に陥ることがあるから、注意せねばならない(「おほもと」誌 昭和五十六年七月号 出口王仁三郎)

霊感と霊覚とははっきりと区別せんといかん。一般に霊感というのは、正常の人の感覚以外のものであって、極端に言えば世人のいう狂人もまた霊感者に属することになる。それに対して霊覚というのは霊妙な悟覚(さとり)ということであって、現界の日常生活において礼儀正しく、愛情が深く、また言葉も慎ましやかな所謂人格者であるとともに、なお深く高く精神界のことについても覚りを開くことである(出口王仁三郎)

わたくしたちの住んでいるこの世の中にいろいろの階層がある以上に、霊界にはさまざまな段階、区界があります。
現実界の一個の人間の成長過程をみましても、幼稚園の子どもに理解できる世界と、大学生に理解できる世界との間には、自からなるいくつかの段階がありましょう。けれども、大学生に理解できることが、幼稚園の子どもに理解できないからといって、幼稚園の子どもが真面目に考えている世界を正しくないとか、真実でないとは言えません。幼稚園の子どもの考えていることは、それなりに真実です。だといって、幼稚園の子どもの考えていることを、そのまま大学生におよぼすことはできません。
そのように、いちがいに霊覚者といっても、その情態においては、幼稚園の子どもと同じような過程の方もあり、高校生とか大学生と同じような過程の方もあります。したがって霊覚者だからといって、その理解にはさまざまの断層があって、何もかもそのままに聴き入れて同様に受けとることは、そのこと自体に問題があります。(中略)
霊的事象の理解においては、さまざまであるのが実際です。そのことを、先ずわきまえてからかからなくてはなりません。
それと、もう一つ注意しなければならないことは、霊覚者には、おうおう自分の弱い面を、自分の人間的な考えで無意識に補いやすいことです。そのために、神さまのみ声と伝えていることの中に、自分の考えを混ぜ合わしていることがしばしばです。これがものごとを誤らしめる要因になりがちです。
霊界の事象(ことがら)が目にみえる人はよくあるものです。よそではどうか知りませんが、大本では別に不思議なことではありません。
この世界には、そのまま、さまざまの霊界が充満しているのです。それがすっかり見えたりなどすれば、あまりの驚きのため、誰でも平静に生きていられるものではありません。それで、霊眼がみえるといっても、霊界のごく一小部分を見せられているにすぎません。それは、大海の一滴ぐらいの存在を知ったにすぎないかも知れません。それでも人間というものは浅はかなもので、少しでも霊界が見えると、これを不思議とし、にわかに自分が偉くなったような気持ちになり、そこから慢心に傾きます。そういう霊眼はものの五年とつづくものではありません。始めは、いろんなことを当てたり不思議を見せますが、つづくものではありません。そのため、自分も家族も他人をも不幸にしてしまった実例を、わたくしはたくさん知っています。
霊眼が見えるということは、先天的な体質によるものですが、霊眼が見えたことにより、自分も家庭も良くなっていくのでなければなりません。霊眼の見える人の雰囲気が清浄でなく、気持ちのよいものでなければ、その霊眼をあまり信用することはできません。(中略)
なにによらず、家庭の本質がよりよくなるのでなければ、どこかにくるいがあるわけです。世に不思議といわれているものも、よくみつめてみれば、つまらない霊的現象にすぎないことが多いものです。言ってしまえば、ロクでもない霊の仕わざが多いのです。霊的現象の不思議さに、自分の気持ちが浮き足だつようなのは本当でないのです。
正しい霊覚は正しい信仰を育てるもので、それは、気持ちを安らげてくれ、家の中を、和気あいあいたるものにしていくものです。
霊がかりの言うことも、身辺的なことは当たりますが、大きなことになるとさっぱりダメで、当たらないものです。
霊界は無限界です。これをかりに有限界として、一軒の家にたとえてみると、玄関あり、居間あり、応接間あり、神前の間あり、客間あり、書斎あり、子供部屋あり、手伝人の部屋あり、台所あり、便所あり、湯殿あり、茶室あり、庭園あり、菜園ありと、目的の国土である霊界はそれぞれの用にしたがって区画されています。
霊がかりが霊界に通じているといっても、大方は台所の、それもごく一部に通じているだけのものです。そのため、低い身分的なところを見ているだけで、その家のことについてはもちろん、次の間が何であるかも知らされてはいないものです。
ところが、現実界はさまざまの霊界の投影面であり、非常に複雑です。したがって、霊がかりの言っていることが、私たちの人生にどれだけ役立つものか分かりましょう。ちょっとした不思議を見せるからといって、霊がかりに夢中になっていると、しまいにはとんでもないことになってしまします。
人は霊界が存在しているということが分かれば、あくまで現実界に生き、相応の理によって、霊界の実相にふれるべきです。ただし、もともと最もすぐれた霊的存在であった人間も、今では、その能力を低下さしているので、正しい霊覚者の指導を受けながら、現実に生きることは意味あることです。
それには正しい信仰をもった清い体質の霊覚者でなければならず、また偉大な師につながる霊覚者でなければなりません。(中略)
ともかく人間は、七生かかっても、この世には学びきれないものがあるのですから、この世ではこの世のことを学び楽しみ、霊界に行けば霊界のことを学べばよいでしょう。この世で霊界のことを学ぶのは、特別の方、専門の人におまかせして、この世を楽しく過ごさしていただくべきでしょう。(『寸葉集』第一巻 出口直日著)

ご神業でも華やかなことには目がうつりやすく、自然に興味もわいてくるようです。しかし心の問題や、人としてどうあるべきかなど、身魂磨きにつながってくるような地味なことに対しては、意外と気持ちが向きにくいようです。特に若い人は地味なことを嫌がります。しかし地味なことを続ける中で、本当のものが生まれてくるのではないでしょうか。
神さまへの感謝と祈り、そして人としての正しい生活の積み重ねがあってこそ、信仰者らしい雰囲気も滲み出てくるように思います。
せっかく大本の信仰に入れていただいているわけですから、どこか違ったところがなくては、神さまに申し訳ないと思います。(H5・7・10)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

普通に信仰をしていれば、霊的なこと、人間の理屈で説明できない不思議なことは、あって当たり前です。それをいつまでも珍しがっているというのはおかしいでしょう。また霊的なことばかりを求めることも良いことではありませんし、そんなことにだけ興味を持っていたら、本当の信仰から離れてしまうでしょう。
また病気を治していただき、それを大本の特長のように思っている人がおられるようですが、それだけが大本の特長ではないでしょう。大本という名前がある限り、最終的にはどうしても「改心、身魂磨き」というところにいくのではないでしょうか。そういう方向に向かって努力していこうという姿勢が大事だと思います。そうでなければ、開祖さまにかかられた艮の金神さまに対して申し訳ありません。
大本という名前がある限り、心の問題からは、はずれることはできないと思います。それが大本の大きな特徴ですから、それを無視してほかのことばかり言っていたのでは、本筋からはずれてくるでしょう。(H8・8・29)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

霊的なことがきっかけで大本に入信される人もいます。それ自体は、結構なことだと思いますが、いつまでも霊的なことばかりに興味を持ち、それ以外のことに関心を示さない信仰のあり方はいかがなものでしょうか。神さまがいらっしゃり、日々ご守護していただいているということが分かればそれで十分だと思います。霊的なことばかりに興味を持たずに、もっと自分自身の心と行いに目を向けるようにならないと本当ではないと思います。(H4・12・25)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

祖霊さまのことだけを熱心にお話しして、それがきっかけで入信され、その後も「大本はご先祖さまをおまつりしてくれるところ」という認識しか持っておられない信者さんも、地方によってはあるように聞いています。しかし、それはお導きされた側の人に問題があるのではなく、お導きした人の導き方に問題があると思います。祖霊さまのことだけで導いて、その後の指導ができないと、なかなか本当の信仰に入れないようです。
入信の経路はそれぞれでしょうが、指導される人は、大神さまにきちんとつながるような、正しい信仰に導いていただきたいと思いますね。大本の神さまは、どのような神さまなのか、また人は何のために生まれてきたのか、という信仰の本筋につながってくるようなお話をしてあげてほしいですね。
日ごろから、霊的なことばかりで導いたりしていては、なかなか本当の信仰に入りにくいのではないでしょうか。また導いてくれた人が昇天されたりしたとき、ちゃんとした信仰を頂いていなかったら、そこで信仰を中止してしまうことにもなりかねません。
もし、次の段階まで導くだけの力が自分にはまだない、と思われたら本部から講師を呼び指導してもらうとか、また特派、特任宣伝使の人にお願いするとかしたらいいでしょう。(H7・1・31)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

霊的なお話しをしたら目を輝かし、心のあり方などのお話しをしたら居眠りをするという人もあるようです。そういう人は、いつも霊的な話題がなかったら満足できなくなってしまいます。しかしそれは、大本の開教の精神とははずれているのではないかと思います。ご神諭に一貫して求められているものは、改心、みたま磨きです。これはたいへんに難しいことであり、いちばんやりにくいことかもしれません。
興味をひきやすい霊的なことばかりを言っているほうが楽でしょう。
しかし私の立場で、そのレベルで満足していたら、大本の教主としての資格はないと思います。(H8・10・23)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

霊的なことばかりに興味をもったり、求めたりするようになると、本来の信仰と違うものになってしまい、いわゆる低い動物霊などがついてきたりするようです。霊界があるのも当たり前ですし、奇跡があるのも当たり前です。当たり前の中で信仰をさせていただいているのです。
結局、自分たちが普通と思っていること、偶然と思っていることの中にこそ、本当のおかげがあり、奇跡があると思います。でも人間には分かりませんから、そう思わずに、何かあっても偶然だったと表現し、理解するのですが、それは偶然ではなく、おおきな神さまのみはかりであり、お導きではないでしょうか。私自身のまわりに起こってきたことでも後で考えたら、不思議だったなあと思うことは、いっぱいあります。(H9・5・19)(『つるかめ抄』信仰編 出口聖子著)

霊媒などになる人を、身魂が磨けて居るから霊覚がある、などと思うて居る人がだいぶんあるやうであるが、決してさうでは無い、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。霊の方では使ひやすいから使ふので、かうした人間には大した仕事は出来無い、確かりして居て、しかも霊覚があると云ふやうな偉人は、滅多に出るものではない。大抵意志薄弱で、一生涯憑霊に支配されて、真の自我と云ふものの確立がない、情ない状態で終つて仕舞ふのである。霊媒になるやうな人は、一寸人がよいやうで、さうしてどこかにぬけた所がある。しまひには悪い事を仕出かし勝である。命も短いものである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

すべて霊的事実を判断する場合には、よほど明敏なる直覚力を持っておらねばならぬ。すべて霊的の事柄は、現界へ対してはある譬喩(ひゆ)であり暗示である。あやしい霊眼などを信じきっていると、ついにはとんだ目に会わされることが往々ある。これが霊眼そのままを信じて、正しき審神をなさないからである。
現界にもピンからキリまであるように、霊界にも無限上から無限下まである。うかつに霊眼者などの言にまよわされてはならぬ。そしていつも言うように、正神界はよほどの場合でないと、人間に神通力などを授けるものではない。というのは神通力なるものは、すでに超現界的のものであって、これを現界人が使用する時は、たちまちに現界的順序というものを破ることになり、現界は成立しないことになる。
であるから、神通力を目あてに信仰にはいるが如きは、これ明らかなる神律無視者であって、みずからつとめて迷信のふちへ飛び込むものである。しかし信仰へ引き入れるための、やむなき一時の方便として霊的現象を体験せしめられることもあるが、いつまでもこんなことに捉われている間は、いまだ決して真の信仰にはいっているのではない。
真の信仰にはいった人は、あくまでも現界的に、全人類の幸福をきたすべく活躍するものである。いったん霊界の存在を知り、死後の霊魂の存続をさとった人であるならば、も早これ以上霊界の諸事情に通じようとあせるのは無駄である。なんとなれば、霊界は無限であって、いくら研究したところでその真相を知りつくせるものではない。いわんや、吾が精霊を中有界におきながら、天国の模様を知らんとするのは、あたかも地上から恒星を調査せんとするようなものであり、厳寒に凍死せんとしている際に、春陽のうららかさを謳わんとあせっているようなものである。
現界にいる間は、あくまで現界人として積極的、楽天的に現界の神業につくすことのできる人が、これ真の信仰家であり、悟入の士である。(『信仰雑話』 出口日出麿著)

霊界も現界もおんなじで、霊界にある事物は、かならず、現界の、ある時に、ある所にあらわれている。霊界は時間と空間とを超越しており、現界は、それらに制限されているだけだ。ゆえに、霊界の秘事は、ことごとく現界にあらわれている。ただ、これを如実に悟ることが、普通には、できないだけである。世に、偶然なるものはひとつもない。その時の自己の気持と周囲の状況とを、よくよく(霊的に)考えてみれば、いま、いかなる(霊的の)世界に自分があるかが、ほぼ分かるものである(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

憑霊の目的は、その人をして弱らしめ、苦しめさえしたらよいのであるから、何事でもかまわぬ、その人の心に悩んでいること、執着していることに乗じ、その想念の中に潜入して、それに混じてその思いをますます助長し悪化せしめて、かくて、その人をいよいよ苦しめ、さいなむものである。
憑霊自体の性状、欲望をそのままに現わして、その人にいろいろと誘いをかけている場合がむろん普通であるが、ともかく、憑霊はその人の記憶を基礎としてでなくては、思わしめることは出来ないのだから、かならず、何か現実に思い悩んでいる事件、あるいは悔いていること、案じていることなどに依拠して、その人を苦しめるのである。
だから、その人に、ある地獄霊がついておれば、その人は、見る人、会う人に対して不快の念をいだいており、とくに自分に対して、少しでも言動上、不快をあたえる人を忌み嫌うことはなはだしいのである。かかる人は、どうも「人嫌い」であって世間に出るを喜ばず、孤独をよしとし、つねに何かしら思案にふけり、はなばなしきを嫌うものである。
ただし、地獄霊にもいろいろあるから、一概にはゆかぬ。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太