「実るほど頭が下がる稲穂かな」

稲穂

慢心は天下の大罪

『広辞苑』によれば、慢心は「おごりたかぶること。また、その心。」と説明され、傲慢で高慢な態度や心が含まれています。慢心していると、自分の能力や知識に対する過信から新しいことを学ぶ意欲が低下し、成長が停滞する可能性があります。
この過度な自信は状況を適切に評価せず、誤った判断を下すことにもつながります。さらに、慢心することで他者との協力を妨げ、提案や意見を重視せずに他者を無視し、不快な思いをさせることにつながります。

近年、個人が自らの知識に頼り、高圧的な態度をとったり、他者の意見を頭ごなしに否定したりする傾向が増えています。自らの意見の正当性のみを主張し、相手の意見を論破することが主眼となっており、これが人間関係や社会全体に緊張をもたらしているように思われます。

『大本神諭』には、「慢心いたすと、誰に由らず大怪我が出来るぞよ。神の道では、慢心と慾とが一番気障りで在るぞよ。」との教えがあります。この教えは、「慾」だけでなく「慢心」にも戒めが示されています。欲望や慢心が絡むことこそがこの世で最も恐ろしいものであり、真実を見失わせる要因とされています。

日常生活でも、慢心から悪口を言い合い、対立し、不平不満を抱くことがあります。また、過去の成功体験が重なり、自信と呼ばれる慢心を生み出します。これが災いとなり、自分の考えに固執して執着心を生み出し、そこに悪魔のつけ入る隙を与えることになります。

「大本」では、人は慢心との闘いを通じて心を成長させ、慢心を克服することが神さまの意志に従う道であると教えられています。 常に自己評価を冷静に行い、他者との協力を大切にし、日々の生活で慈悲心、抱擁力、他者に対する寛容性と忍耐を持つことで、人々は互いに理解し合い、協力し、より調和の取れた社会が築かれ、個々の幸福感も向上することに繋がります。 そして、継続的な学びと成長を心がけることが良い結果を生む要因となります。

実るほど頭を垂れる稲穂かな

「実ほど頭を垂れる稲穂かな」という言葉は、「故事・俗信 ことわざ大辞典(小学館)」によれば、「稲の穂は実が入ると重くなって垂れ下がってくる。学問や徳行が深まるにつれ、その人柄や行為がかえって謙虚になることのたとえ」と説明されています。私たちが思い上がりや自惚れに陥らないようにするための自戒を促す言葉と言えます。

思い上がりや自惚れは、自らの魂を曇らす原因となります。『実ほど頭を垂れる稲穂かな』という言葉を肝に銘じて、謙虚な態度を持ち続けることが大切です。

大本のみ教え

「改心なされよ。我を出したならば、直ぐに気付け致すぞよ。誰に由らず、慢心と我を出さぬように致して下されよ。慢心いたすと怪我が出来るから、宜く成りても慢心致すで無いぞよ」(『大本神諭』第三巻)

余り慢心致して居ると、良き事を申して与りても皆悪く見えるから、慢心致すと大怪我が出来ると申して気が注けて在るのに、余り鼻高に成りて人を見下げると、恥ずかしき事に終局(なる)が、気の注いて居る人民は少ないぞよ。(『大本神諭』第六巻)

慢神と誤解(とりちがい)が一番こわいぞよ。たれに由らず慢神すると、我の心が大変えらい様に思えて、人から見て居ると、 鼻が高うて見にくいぞよ。(『大本神諭』第一巻)

肝心の結構な事が解らずに、悪く申して反対を致して、そこら中を交ぜ返しに廻りて居る守護人は、此の先で気の毒が出来るから、何時までも念に念を入れて気を付けるぞよ。慢神と誤解(とりちがい)が大怪我の元と成るから、是だけに気を付けてやりても解らずに、大きな邪魔をいたす守護神、人民は、腹の中に誠が無いので在るから、ドンナ結構な事を知らしても、心の持ち直しがチットも出来んのは、霊魂の性来が悪いのであるから、根本の心を取り直す事が出来んのを、何うしても今度は取り直しをいたさねば 成らんので、神は誠に骨を折りて居るぞよ。(『大本神諭』第一巻)

我ほどの立派な利発ものはなしと慢心して獣族(けもの)境界に安んじ、親子兄弟他人の区別もなく、利害の為には互いに敵視する今の世の中の有様。こんな没義道な汚らわしき世が、いつまでも続きそうなことはないぞよ。(『いづのめしんゆ』)

慢神と誤解が大怪我の基になると申してあろうがな。早く心を入れ替えて我を捨てて神の申すように致さぬと、取り返しのならぬ不調法が出来するぞよ。(『いづのめしんゆ』)

一、枉津神、悪魔も真の神の尊き、有難き畏るべきことを知れり。尊きこと、畏るべきを知るのみが信心というべからず。
一、畏れ慎み、神に親しみ、神を愛し、心をつくし、力をつくして神のために働く、これまことの信仰にして、神の御心にかなうものなり。
一、神の教は結構じゃが、なかなか神の教は実行不能と錠をおろすものは、神のめぐみに離るるものなり。神の教の模倣なりとなして、小なる神になり、またならんことを祈りて心をつくせよ。
一、神の教は結構じゃ、有難い、ちょっとも抜け目がないなどとほめるばかりで、その教によりて、わが身の行状を省み、改めんとする者のなきは、うたてきことなり。
一、神の教のいと尊きことを知りながら、その身に行うことあたわざる人は、その心に住める鬼、枉津神どもに妨げらるるがゆえなり。
一、口先ばかり神をほめたたえ、心の内にて神の御旨にそむくものは、偽信者にて、神の御心を軽んずるものなり。神を軽んずる、これを慢心という。慢心は天下の大罪なり。(『道の光』 出口王仁三郎著)

慢心と野心のある人ほど、真に公平にものを見る度量なく、ややともすれば人を見さげ、なんでもないことに偉ばってみたいと焦るものである。そして自己の尊厳のちょっとでも傷つけられると考える時は、妙なところへ力コブを入れて争うものである。神の裁断を信じ、天の意志のままなることを知っておりながら、しかも実地においては自我を立て通し、力もないくせに妙に勿体ぶってみたりするものである。かかる人にかぎり、少しく上位の者より忠告さるる時は、却ってこれを悪意に解し、その人を恨み立腹するという場合が往々ある。実際、うぬぼれている人ほど始末におえないものはない。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

慢心というもののいかに恐ろしいものであるかということを悟らしていただきました。何事をするにも、決してこれに執着や名誉心などを抱いていてはいけません。ただ、その時その時を、赤子のような心になって生かしきればよいのだと思います。少しでも、自分はえらい、人はあかん、というような気持で仕事をしているようなことでは、決してよい結果をもたらすものではありません。無批判に、ただその仕事をなせばよいのだと存じます。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

ちょっとでも名利心や執着心があったなら、えたりかしこしと、悪魔につけ入れられるにきまているから、すべてを惟神にまかして、正しき内流によって活動するようにせねばならぬ。赤児のごとき無邪気な恬淡な気持にさえなっていたら、真の活動ができるのだ。人間の知恵や利巧にたよるのが一番いけない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

心に隙があり、慢心野心が少しでもきざすから、得たりかしこしと邪霊に乗ぜらるるのだ。邪霊の捕虜となりおわった者の身魂は、実に気の毒なことである。慢心と野心とは、つねに省みて、こっから先も持たぬようにせねばならぬ。これが一番大切なことである。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太