エマヌエル・スウェーデンボルグ(Emanuel Swedenborg・スエデンボルグ・スヴェーデンボリ)(1688-1772年)は、スウェーデン王国出身の科学者・神学者・思想家で、生きながら霊界を見て来たという霊的体験に基づく大量の著述で知られ、その多くが大英博物館に保管されています。
ヘレンケラーは「私にとってスウェーデンボルグの神学教義がない人生など考えられない。」と述べており、他にもカント(『視霊者の夢』)、バルザック(『セラフィタ』)など、多くの著名人に多大な影響を与えています。
日本では、仏教学者、文学博士で禅学の大家である鈴木大拙(1870-1966年)が紹介したことで知られています。
出口王仁三郎聖師は、スウェーデンボルグのことを世界最高の神学者と評しており、霊界のことは、スウェーデンボルグの本を読めば分かるとも述べています。
『霊界物語』第47・48巻の天界の様子は、スウェーデンボルグの著作と同じ内容が散見されますが、出口王仁三郎聖師は、神さまの意思に合っているところだけ使ったと、次のように述べています、
「唯二頁か、三頁、四頁位は是は参考としてセーデンボルグのそれを少し出した所があります。神様の意思に合うて居る所だから出したけれども、(中略)セーデンボルグだけですわ「天国と地獄」の天国の所をちよつと……(中略)口から出て来るのです。」(『大本史料集成』三・第二部「第二次事件関係」)
霊界は現界の移写である
けれども死後の生活や何かはあれ(霊界物語)を見たら大底わかるはずだ。芦田はんの書いたのに詳しく書いてあるが、スエーデンボルグだつたかなあ、「霊界は現界の移写である」と、これだけ考へて居つたらええ。正しい人の現界と天界とは同じことだ。この世は形の世、型の世で、お筆先にも、「十里四方は宮の内、福知舞鶴外囲い」とあるが、お宮さんのこんな小さい形が一つあつたら、無限大に想念で延びる。富士山の写真をとると、小さな写真でもそれで富士山で通るぢやないか。現界は何千何百哩とか云ふて居るが、霊界で見たらどの位になるかわからん。人間も五尺の躯殻だけれども、想念に依つては太陽に頭を打つやうな処まで拡張するかも知れない。霊魂上の世界と、肉体上の世界とは違ふのだから』(『出口王仁三郎全集』第二巻「宗教・教育編」)
死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎない
人間の肉体の死は確かにこの世の全ての終りだということは物質界、自然界的に見れば正しい。だが、死を霊の立場、霊界の側から見れば、単にその肉体の中に住んでいた霊、肉体の中に住んでその肉体をこの世における一つの道具として使用して来た霊が、肉体の使用を止め、肉体を支配する力を失ったということに過ぎないのである。そして、霊はその後は霊界へと旅立って行くのだ。死は霊にとっては霊界への旅立ちに過ぎないのだ。
(『エマニュエル・スウェデンボルグ「私は霊界を見てきた」』今村光一抄訳・編叢文社)
死後2、3日間は死者の霊はまだ死者の肉体の中に残る
人間が死ぬと、その肉体に住んでいた霊は霊界へ旅立つことになるが、それまでには普通、この世の時間でいえば2、3日の間がある。死と同時に肉体の中の霊は眼ざめるが、このことを知って霊界からは他の霊(導きの霊)が死者の霊のところへやって来る。これは霊同士の感応が起きる結果である。そして、霊界からやって来た導き霊と死者の霊は、死者の死せる肉体の場所で、お互いの想念(考え)の交換を行なう。この交換のことは、また別の所で詳しく述べるが、これは死者の霊が、その後永遠の生を送るための大事な準備の一つなのだ。
さっきいった死後2、3日間は死者の霊がまだ死者の肉体の中に残るという理由は、この想念の交換のためなのだ。そして、この間は死者の霊は死せる肉体の中で静かに音のない霊の呼吸を続け、また霊としての考えをめぐらしているのだ。
「死者も考えている!」のである。
(『エマニュエル・スウェデンボルグ「私は霊界を見てきた」』今村光一抄訳・編叢文社)
人間が死んでまず最初に行く場所が精霊界である
この世の人間が死んで、まず第一にその霊が行く場所が精霊界である。人間は死後ただちに霊となるわけではなく、一たん精霊となって精霊界に入ったのち、ここを出て霊界へ入り、そこで永遠の生を送る霊となる。精霊が人間と霊の中間的な存在であるように精霊界も、人間の世、この世の物質界、自然界と霊界との中間にある世界なのだ。
精霊界の広大さがどれほどのものであるかは私にも、あまりに広すぎて実はわからないくらいだが、日々何万、何百万という人間が肉体の生を終えて精霊界に入ってくることからだけでも、その広さは想像を絶する。
精霊界はその広大な周囲を巨大な岩山、氷の山、どこまでも連なる峯々からなる大きな山脈に囲まれた中にある。その広さにおいては、この世に比べることのできるものとてないが、形と様相だけからいえば、山間にある大きな窪地だといってもよい。
精霊界からは、その周囲を取りまく巨大な山脈の間のここかしこに霊界への通路があるのだが、この通路は精霊界に住む精霊たちの眼にはふつうは見えない。彼らが精霊界において霊界へと移転する準備が終わったときだけ眼に見えるようになるのだ。だから、精霊界に住む精霊たちは霊界が存在することすら知らず、彼らは、ちょうど、この世の人々がこの世だけが世界だと思っているのと同じように、精霊界だけを全ての世界だと思って生活している。
(『エマニュエル・スウェデンボルグ「私は霊界を見てきた」』今村光一抄訳・編叢文社)
死んだと思ったのにまだ生きていることに驚く精霊
精霊界があまりに人間界と似ているため、自分は死んだと思ったのに、まだもとと同じように生きていることに驚く精霊も非常に多い。そして、この中には精霊界と人間界の類似に驚くものと、死んだと思った自分が生きている不思議さに驚くものの、二とおりがある。
「われ死せるものと思いしにかくの如く生きてあり。こは如何なる不思議ぞ。わが死せると思いしは幻想なりしか? はたまた、いま生きてあること幻想なりしか?」
このような精霊はきまって、こんな自問自答に自分の頭を悩ますのだ。このような精霊には霊界から来ている指導の霊(つまり精霊にとっては霊界の経験豊富な先輩である)が教えることがある。
「汝、精霊なるを忘れまいぞ。汝、死せるというは肉体の人間として死せるなり。しかし肉体の人間として死して汝は精霊として生まれたるものなり。汝が死せるは事実なり、だが汝いま生きてあるもまた同じく真実なり、益なき妄想に迷うことなかれ、汝は精霊として生きてあり、こは万に一の偽りもなき真実なり」
そして霊はおおよそつぎのように精霊に教えるのだ。
人間はもともと霊と肉体の二つからできているものであり、肉体のみが人間と思うのは浅はかな間違った考えであること。そして肉体が死ぬと霊は精霊となって精霊界へ導かれ、そこで永遠の生の準備をすること。準備が終われば霊となって、霊界へ行き、そこで永遠の霊の生に入ること、したがって、いまはそのための準備期であること……等々といったことを説いて聞かす。
だが、これに対しては、やはり驚きを示す精霊が多い。
「われ、人間の世にありたるとき、その如きこと全く聞かず、また、われにその如きこと教え聞かすもの一人もめぐり会いたることなし。われ、初めて聞けることばかりなり。また、われ、その如きこと初めて聞きて眼の前、闇に閉されし思いと眼の前開ける思いと交々(こもごも)混じり合い、わが心騒ぐばかりなり。われ、世にありしとき愚かなりしや」つまり、人間は肉体が死ねば、それが全ての終わりだと思っていた。また霊界とか霊などということは聞いたこともなかった、だが現実にいま、こうして死んだと思った自分が生きているのを知れば、どうしても自分のそれまでの考えが浅はかだったのは認めざるをえない。だが、それにしても人間であったとき想像さえしなかったことばかりであるので心と頭は混乱するばかりである……というのがこの精霊の率直な感想なのだ。
(『エマニュエル・スウェデンボルグ「私は霊界を見てきた」』今村光一抄訳・編叢文社)
人間が死んで精霊界へ行くと次第に元々の霊になっていく
一口でいえば人間の心の本性、心そのもののうちもっとも内面的なもの、本当の意味の知恵、理性、知性、内心の要求といったもの、その人間を本当に心の底から動かしているものは霊の領域で、これらは全て霊の働きなのだ。これに対し、肉体はもちろん、眼や耳、鼻、舌、体の感覚といった肉体的、表面的感覚は全て物質界、自然界にそのもともとの住み家を持っている。
人間が肉体的に死に霊(精霊)となって霊界(精霊界)へ行くと、その霊はもともとの霊そのものに次第になっていく。精霊でも初めのうちはまだ外部的感覚の残りかすや外部的記憶を持っているが、次第にこれらを捨て、もともとの霊の姿になり、また霊的感覚がすぐれてくる。もともとの霊の姿とは人々にもわかりにくいかも知れないが、もし人が社会や人との関係を全て捨てて夜半自分の部屋で瞑想にふけり自分の心の真の姿をのぞいたとすればこれが、その人のもともとの心の姿、霊の姿に近いといえよう。
人は世間にあるうちは道徳、法律、礼儀、他人への顧慮、習慣、それに打算など網の目のような外面的なものにしばられ、あるいは知識のような表面的な記憶にわざわいされている。しかし、霊界ではこんなものは全て不要なばかりかじゃまものに過ぎない。これをだんだんに捨て霊のもとの姿に帰るために精霊界はあるのだ。
(『エマニュエル・スウェデンボルグ「私は霊界を見てきた」』今村光一抄訳・編叢文社)
東海教区特派宣伝使 前田茂太