「合気道創始者 植芝盛平翁、モンゴルへの道」

雪の長生殿

大本との出会い

大正9年(1920)12月、北海道に入植していた植芝盛平翁は、父の危篤の報を受け、故郷の和歌山県田辺市に向かう途中で大本の存在を知り、父の平癒祈願のために綾部に向かいました。綾部に到着した盛平翁は出口王仁三郎聖師と出会います。聖師は盛平翁の父についての質問に対し、「あなたのお父さんはあれでよいのや」と諭し、盛平翁はその言葉に感銘を受け、三日ほど綾部で大本の教えを聴講しました。その後、盛平翁は一家を挙げて綾部に移住し、聖師の近侍として活動しました。

綾部移住後、聖師は盛平翁に植芝道場を開くよう勧め、盛平翁はこれに応じて本宮山麓にある住居を改築し植芝道場を開設しました。植芝道場ができたその場所には現在、大本の神殿『長生殿』が建立されています。

植芝道場は大本の関係者の多くが稽古に通う場となりました。当時十代だった三代教主出口直日もその中にいました。直日は植芝道場での経験について、
「幹部もみなお弟子でね。もちろんわたくしもお弟子です。道場へはたびたびまいりまして、柔の型を教えてもろうたり、剣道を教えてもろうたり、おなごやからとて手加減されるようなお方ではありませんでね。運動神経のにぶいわたくしでも多少の心得ができたのは、厳しい稽古のおかげやと思うてます。大正10年の大本事件で聖師さまが獄におられた留守中には、母やわたくしを誘うては、よう走りっこして遊んでくれたものでした」と語っています。

第一次大本事件

大正10年(1921)には第一次大本事件が勃発し、大本は不敬罪の汚名を着せられ、出口王仁三郎聖師ら幹部が逮捕されました。その中で、盛平翁は聖師の帰りを待ち続けました。大正11年(1922)には大本の幹部として活動し、天王平※の開墾に携わりました。その後も盛平翁は大本を支え、聖師が精力的に始めた『霊界物語』の口述に側近として立ち会っていました。『霊界物語』の神観、教理が後の合気道誕生に大きく寄与することとなります。

大本には、「一神即多神即汎神」という神観があります。一神より多神を生じ、宇宙全体に神の霊が分け与えられるという汎神論的な要素を含んだ特徴があります。
また、大本の教理のひとつに『万教同根』があります。すべての宗教は教えの表現や説き方が異なりますが、その根源を辿れば、すべてが絶対主神に帰一します。つまり、『根』を同じくする、というのが『万教同根』という教理です。
※(綾部市の大本梅松苑近くにある、開祖出口なおと出口王仁三郎聖師らの奥都城、大本信徒共同墓地)

モンゴルへ

大正13年(1924)2月、第一次大本事件で責付出獄の身だった出口王仁三郎聖師は盛平翁らと共に、モンゴルへ向かいました。モンゴル入りの目的は、世界の恒久平和実現のため、精神的、宗教的楽園を建設しようとする壮大な計画で、その最終目的地は中東の聖地エルサレムでした。
この壮大な計画も満洲軍閥、張作霖の裏切りから、中途で挫折しましたが、それは形の上のことに過ぎず、神的には偉大な意義があったとされています。
聖師と盛平翁らの一行は、7月になると日本に強制送還され、帰国しました。

帰国後、盛平翁は再び綾部での農耕生活に戻りました。しばらくして、聖師は盛平翁を大本とは直接かかわりの無い立場に切り離そうと配慮しました。

昭和7年(1932)聖師からの要請で盛平翁は大日本武道宣揚会の会長に就任し、武道の真の意義について、次のように述べています。
真の武は神より来るものであります。武はほこを止めしむる意であり、破壊殺傷は真の武ではありません。否かかる破壊の道を亡ぼして、地上に神の御心の実現する破邪顕正の道こそ真の武道であります

第二次大本事件

昭和10年(1935)には第二次大本事件が勃発し、日本近代史上最大の宗教弾圧となりました。この事件で大本関係者の多くが逮捕されましたが、盛平翁には累が及ぶことはありませんでした。盛平翁が無傷であった事情には、先の聖師の配慮に深い関連があると考えられています。
第二次大本事件は昭和17年(1942)には第二審で無罪判決が下り、昭和20年(1945)には全面解決しました。
その後、昭和29年(1954)に盛平翁は大本参議に任命され、昭和44年(1969)4月26日に老衰のため昇天しました。

盛平翁は晩年、合気の極意についてこう語っています。
三千世界一度に開く梅の花、これが合気の極意デス。合気は神の立てた神の道であって人間の作ったものではありません。一度に開く梅の花とは、神が表にあらわれるということじゃが、合気は体の上に霊をのせることデス
三千世界一度に開く梅の花とは、国常立尊が大本開祖出口なおに帰神し、最初に出された葉です。

「奇蹟の連続 蒙古における聖師」植芝盛平

出口聖師の蒙古御進出の大業については既に「王仁入蒙記」等が世に出ているのと、早くも三十年の昔となったので、精密な記憶もありませんが、当時、聖師様のお伴をした幾人かのうち私だけが只一人生き残っているわけで実に感慨無量に堪えません。只、淡い記憶をたどって、今でも、まざまざと肝銘させられる二、三をお伝えさして頂きましょう。
大正十三年三月三日、用意万端整えた一行が、いよいよ奉天をあとにして蒙古の平原に向って進発をはじめて聞もなくのことでした。真暗闇の夜の行軍です、開原の手前で、凌河にさしかかろうとした時、突然乗っている自動車が、急停車しました。何ごとかと、驚いて飛び降りてみれば、眼下十数メートル下に凌河の流れが無気味に漂っている。全く寸前一歩の危ないととろでよくも止めたものだと思っていたところ、実は、暗夜で河のあることなど気がつかなかったが、エンジンが故障したので、やむなく急停車したのだというのです。まず最初にこのような奇蹟的な命拾いをしたのでした。その後、枚挙にいとまのない神助と奇蹟の連続でしたが、このことは今でも忘れられません。

開原のある旅宿に泊った夜でした。聖師様と私は薄汚い一室の片隅に、毛布にくるまって眠っていたところへ、支那官憲七、八名と日本の領事官員がドヤドヤと這入って来て「日本から出口が来ている筈だ」と言って、一斉に取調べるのです。御承知のように当時聖師様は第一-次大木事件で仮保釈中の御身分だったので、国内はおろか、海外などへ無断で旅行するなどは到底許されないことでした。ここで発見されれば万事休すです。壮途に着いたばかりなのに、ここで挫折するとは無念残念と一時は観念をしましたが、あにはからんや、官憲達は片隅にいる二人に気づかずに出て行ってしまいました。明朝九時頃いま一度来るから、と言いのこして帰りました。この時も自動車が故障していたので徹夜で修理を急がせ、午前二時過ぎ、やっと修理が出来たので聖師様達に先発して頂きました。
暁方、私がこっそり出かけたのと入れ違いに官憲がまたやって来ました。私は一目さんに逃げ出したので一斉射撃を喰いましたが、幸い追跡もして来ず、ようやく、聖師様一行に追いつくことができました。

四平街の村はずれだったと思います進行中の自動車が大きな柳のどっかに引っかかったらしく、たちまち柳の枝が自動車の窓にのしかかって、あっという聞に窓ガラスをメチヤメチャにたたきわってしまったのです。ガラスの破片が無数に車内に飛散し、私の顔面に、無数に突きささって顔中血だるまになりました。聖師様は直ぐお取次ぎをして下さいました。この時聖師様は「何時の場合でもわしばかりを頼ってはいかん。お前のことはお前自身がよく神様にお願いするととだ。神様にお願いをして、自分の呼吸を吹きかけるがよい」とのおさとしを頂いたので、早速突き刺さったガラスの破片を一々抜きとって、両掌を顔面に近ずけ、呼吸を吹きあてました。息吹の狭霧というのでしょう。たちまち血は止まり、傷あとは拭うがごとく、二十分程の聞にすっかり元通りの顔になってしまいましたあまりの素晴らしい御神徳に、ただ呆然、感謝の涙がこみあげるばかりでした。

鄭家屯まで来たある日、聖師様。両掌一面から血がにじみ出るように吹き出したのです。不思議な現象です。間もなく出血は止まりましたが、フト私には前途の多難、困難さが予感されて来るのでした。
私達の修行が至らぬため、ここで二十一日聞の修行がはじめられました。時にみそぎもやりました。松村眞澄氏等は観世音の慈悲の力徳を現わし、さかんに附近に出かけて、病気取次ぎをして廻り、聖師様一行こそまことの救世主だと、民衆が随喜し、讃仰して集ってきました。
ある時、張作霖の将領だった王文海将軍が、誤って自分の足にピストルの弾丸を打ち込んだのです。痛さに耐えかねて七転八倒の苦しみかたです。
私は聖師様の命令で直ちに王にお取次ぎをしたところ、痛みはピタッととまったのですが、どうしたものか弾丸が抜き出せないのです。聖師様に伺いますと、はげしい念力でチンコンしたからであって、鎮魂を戻さにゃいかんと仰有って、御自分で神様にお祈りして下さいました。すると、同時にこの弾丸が抜きとれたのです、王のおどろきと感激は大変なものでした。

パインタラに入る手前に、非常に大きな沼沢地帯があります。ここで幾日間かの露営がつづきました。どうも周囲の空気が不穏なのです。一寸したイキサツからわれわれ一行は蒙古兵に包囲され、さかんに射撃されたので、一行は三々五々になって難を避けました驕車のなかで眠っておられた聖帥様はこのさわぎを全然知られないのです。豪胆というか無頓着というか、また反面、子供のような臆病なところもあったりして、いよいよ聖師様がわからなくなったものです。どう勘違いしたものか、われわれ一行の行手には次から次に匪賊が待ち受けている、という情報がしきりに入ってきます。
いよいよパインタラに入る前夜でした。その夜は物凄い風で砂塵が吹きまくり、あやめもわからない状態でしたが、どうしたものか一行はこの平原をグルグル旋廻をつづけているのです。大分進んだと思っていると、不思議に同じところを何回も廻っていて、前進が出来ないのです。悪いことにはこの時、私の乗馬のくつわがなくなりました。広漠たる夜の平原でこの疾風です馬のくつわを失った者の哀れさは誰方にも御想像願えると思います、全く弱りました。ところが相変らず闇の平原をグルグル廻っているうちに、フトくつわが足にひっかかって来ました。落したくつわにめぐり合ったのです。あとでわかったことですが、この時、われわれ一行の前方に張作霖の部隊三、四万が銃をかまえて待ち受けていたのでした。夜明け前まで、こんな不思議なグルグル廻りをさせられていたことが実はよかったのです。
神様の御守護というものは、人聞が想像できるようなものではありません

この機会に一言申しあげたいことは当時の信仰というものが生命がけの信仰だったということです。私のことを申しては恐縮ですが、この一行にお伴させて頂いた私は他の先輩と異なり、聖師様の従者として、つねに聖師様のお傍につききりでした。
三月を過ぎたと言っても、大陸の夜などはとても寒かったので、聖師様にお障りがあってはと思い、私の肌着なども聖帥様に召して頂いたので、私は何時も風邪を引き通しでしたが、少しも悪化することなく終始お伴が出来ました。なんでもないことのようですがやはり大きな御守護の賜でした。信仰に真剣さが加われば、それだけ大きな神徳を授けて頂けます。大本愛善苑の重大使命を考えるとき、絶大な御神徳を頂かねばなりませんが、やはりそれには生命がけの真剣さが必要だと思うのです。(「神の国」昭和二六年八月号)

東海教区特派宣伝使 前田 茂太