大本万祥殿
コラム

「善言美詞」

言葉の力

人間の脳は常に、記憶に残すべきことと、忘れてもいいことを選択して、大半の出来事は忘れるようにできています。記憶に残すべきことの判断基準のひとつとして、強い感情が伴うか否かがあります。否定的な言葉を受けると、受けた人間は心に強い負の感情が伴うため、記憶に残りやすくなるといわれています。

言葉の暴力は、身体的暴力よりも脳に大きなダメージを与えるといわれています。ちょっとした言葉の使い方で、人間関係を破綻させてしまったり、自ら命を絶つところまで、人を傷つけたりしてしまいます。

人は、人生に行き詰まったとき思いやりのある優しい言葉で救われることがあります。
どんな人間でも心の奥底に神性を宿しています。美しい言葉(善言美詞)は人の神性を引き出し、人の心を豊かにし生きる力を与えてくれます。

言葉は人の心を深く傷つけたり、人を癒し励ましたりできる大きな力を持っています。

 

口の先より毒をはき、刃を出だす

兄弟姉妹よ、なんじら口をもっとも慎むべし。口の先より毒をはき、刃を出だす。世界のもろもろの罪けがれ、おおかたは口より出ずるものなれば、もっとも口は慎まざるべからず。
人をののしる口をもちて、人を誉めたとうべし。人は神のみ子なれば、人をののしるものは神をののしるがごとし。わざわいの報いたちまちにいたらん。恐れ慎むべきなり。
誠の道にある者、誠の道を学ばんとする者よ。かならず人を嫉むなかれ、ののしるなかれ、みだりに人を審判(さば)くなかれ。人の身を悪しざまにいいなすものは、その身の悪しきと暗きとを、みずから人の前に自白するがごときものなり。(『道の栞』 出口王仁三郎著)

 

慎むべきは貪欲と瞋恚(しんい)と愚痴

第一に吾々神人として、もつとも慎むべきは貪欲と※瞋恚と愚痴である。また第一に日月の高恩を悟らねばならぬ。いたづらに小智浅才をもつて、大神の聖霊体を分析し、研究せむとするなどは以てのほかの僻事である。すべて吾々の吉凶禍福は、神の命じたまふところであつて、吾々凡夫のいかんとも左右しがたきものである、これを惟神といふ。諸神人らはわが唱ふる宣伝歌を高唱し、天津祝詞を朝夕に奏上し、かつ閑暇あらば「惟神霊幸倍坐世」と繰返すのが、救ひの最大要務である。(『霊界物語』第五巻 出口王仁三郎著)※瞋恚=自分の思い通りにならない事への憤り

 

祝詞のことばが真の善言美詞

今後世界を愛し、人類を愛し、万有を愛する事を忘れてはならぬ。善言美詞を以て世界を言向和はす事が最も大切である、神の前のみでなく人の前でも同様に善言美詞を用ひねばならぬのである。神に救はれむとして却(かえ)て神に反(そむ)くことが少くないから、決して他人を排したり非難したりするものでない。
祝詞のことばが真の善言美詞であって、実は今の日本語も外国語を輸入した言葉が大部分であるから、中途半端の日本語は決して善い事はないのであって、外国語を排するならば現今の日本語も同様の意味で外国語として排斥せねばならぬ訳になって了ふ。(『出口王仁三郎全集』第二巻)

 

善言美詞は愛に発するもの

他人の悪いと思ふ所は直接其人に忠告をし、決して他人の非を言はぬに限るのであります。即ち善言美詞に限るのである。さればとて巧言令色とは違ふのである。善言美辞は愛に発するものでなければならぬ。愛は善のため愛のための愛であって、決して自己のための愛であってはならぬ。戦争に立って国のためになったと言ふが、それも実は矢張り自己愛の拡張に過ぎぬのであって、もひとつ大きい『世界愛』でなければならぬのであります。人類人主義、万有愛の神愛でなければならぬ。(『出口王仁三郎全集』第二巻)

 

人をやわらげ睦ましむるものは言霊である

人をやわらげ睦ましむるものは言霊である。
いくら言霊を用いたとて、決して減るものでも、損のいくものでもないから、われわれは生涯のうちに、できるだけ多く善言美詞を使用して、その効果を発揮すべきである。
人間が人間を嫌うというようなことは、ぜんぜん変態である。厭(えん)世(せい)家(か)、偏見哲学者などには、この類の人が往々あるが、これは心身のどこかに欠陥があるからである。
生が愉快であり、人がみな親友にみえるのが自然なのである。われわれは、大いに言霊の媒介によってお互いに睦び、愛し合うて行かねばならぬ。
犬の子や猫の子を無茶苦茶にかわいがる人があるが、わたしは同じことなら、人間の子の方がいく層倍かわいいか知れぬ。犬や猫をかわいがる暇があったら、人間の子をかわいがる。
この世は無限の肯定であって、否定はその過程にすぎない。
言霊を二大別すれば肯定と否定とである。しかして生成化育は、肯定の言霊の支配であり、消滅遅滞は否定の言霊の支配するところである。ゆえに人は肯定の言霊を愛好し、否定の言霊を嫌悪す。
吾人は日常生活において、つとめて肯定の言霊を使用して、やむをえざる場合の外は、断じて否定の言霊を使用すべからず。このことは人間の気分を左右する鍵であって、非常に重大なことである。
人こころみに、その肯定と否定との言霊が、おのおのいかに人間心理に影響するかを験(ため)すべし。われわれは知らず知らずの間に、なんでもなき場合に否定の言霊を使用して、他人に非常な不快の念を与えていることが、非常に多いのである。
(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

否定的な言霊の使用をやめよう

否定の言霊は、非常にわるい影響をおよぼす。善悪すべてを、その位置において肯定せねばならぬ。
たとえば、「それは悪い」といわずに、「こうした方が一層よい」というべきだ。「彼は悪人だ」と言わずに、「ああいうふうの人だ」といいたい。悪い言霊は、その相手にばかりでなく全般の人になんとなく否定的、壊滅的な気持ちをあたえるものだ。ちょっとした言句の使い方で、相手の人へはもちろん、周囲の人へも非常な影響をあたえるものだ。
自分は今日ただ今から、大いに注意して、否定的な言霊の使用をやめよう。あれは地獄に属するものだ。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

悪い言霊を使って叱るより、良い言霊で善導へ

小学児童などに「咳をするな」と教えれば、かえって相ついで咳をするものなり。これ“咳”なる言霊の影響暗示にして、たとえ「するな」と打ち消すとも、そのこと却って児童の心に一種の恐怖と執着とを起させる結果、児童は相ついで、忘れていた咳をするものなり。
これを思えば、決して吾々は悪い言霊を使用してはならぬのである。
叱って善へ導くよりは、ほめて善導する方が、よほど良結果をもたらすなり。人はあく迄も感情の動物にして、叱られてよい気持ちのする者は一人もなく、ほめられて怒る者もほとんどない。
とくに言霊の活用の上から言っても、「お前は悪人だ」といえば、たとえ悪人でなくても「おれは悪人だ」という気持ちが、どこともなしに湧いてくるし、「お前はよい人だから……」と諭せば、たとえ大した善人でなくても、悪を恐るるにいたるものである。(むろん、大きい立場からみれば、真の悪人というものがこの世にあるはずはない)
吾々はあくまでも、善言美詞をもって混濁紛糾せるこの世の中を言向け和わさねばならぬ。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

 

人間を華やかに愉快にするものは言葉である

人間を華やかに愉快にするものは言葉である。言葉をつつしむべしということは、虚言悪口は出さぬということであって、決して強いて口数を少なくせよということではない。善言美詞はできるだけ盛んに用ゆべきである。別にさしつかえないのに、言いたいことも言わずに、腹へ溜めておるような人間は、神より遠ざかる者である。
(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

善言美詞を盛んに

世の中を美しく穏やかにせんとせば、人の心を然かせざるべからず。人の心を、然かせんとせば、善言美詞を盛んにせざるべからず。よき歌舞音曲は、すなわち、もっとも人の心をなごめ美しくする善言美詞なり。(『信仰覚書』 出口日出麿著)

 

善言は善意を喚び起こし、悪言は悪意を呼び起こす

ほめられて怒る者はなく、けなされて喜ぶものはない。
暴言悪語ほど人を後悔せしむるものはない。
たとえ大悪人にしたところで、その素質のどこかには神を宿している。善言美詞は、やがてその神を引き出してやることになるのだ。
相応の理によって、善言は善意を喚び起こし、悪言は悪意を呼び起こすことになる。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

 

おおそうだ、愛は無限だ

おおそうだ、愛は無限だ。他人にやさしい言葉をあたえるために、わたしの言葉は貧弱にはならない。他人に好意を寄するために、わたしの好意は減るものではない。
たがいに争い、たがいに憎み、たがいに恨み合っていて、この世が、いつの時か平和になろう。
目に見える神は人間だ。人間自身の努力によらずして、この世に幸福がどこから来よう。
(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

手紙の返事はすぐ出すこと

日常の交際、手紙のやりとりなどにおいても、人は増えることを喜び、与えられることを愉快とするものであるから、お互いに増やしあい与えおうて、その喜びを共にするようにせなければならぬ。手紙の返事はすぐ出すこと。なるべくお互いに気安に往復しあうこと。人に会うたら、お互いに愛想よき言霊を与えあうこと。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

自然で美しい言霊

言葉というものは、言葉の言いまわしよりも、お腹の中の気持ちが大切でしょう。こころが美しく真情がこもっていれば、その言葉は、そのまま善言美辞であるとおもいます。
その人の属している環境によって、あるいは、職業によって、同じ気持ちを現わすにも言葉の使い方は変わってきます。たとえば、「そうや」という肯定の気持ちを伝える言葉も、「そうです」とか「さようでございます」という違いはあっても、意味は同じことですから、おかれているその時の立場に順応して、気持ちのままに、つくらないで、素直に発言するのがもっとも自然で美しい言霊ということになりましょう。時と場合によっては、違いもしましょうが、あんまり無茶苦茶に行儀のよい言葉は、聞いていて却って固苦しいものです。だいたいは、私たちの間がらでは気楽に語り、気楽に聞いてもらえる、気楽な話し合いというのが、きれいな言葉に通じるかとおもわれます。
(『寸葉集』巻一第 出口直日著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太