「われなる精霊と守護神」

宣霊社

〝われ〟なる精霊

〝われ〟なる精霊とは、人間の本体となる精霊で、死後、中界で善悪を審判される主体的精霊です。
〝われ〟なる精霊は、現界に生まれ、さまざまな経験を積み、生涯をかけてさまざまな悪と戦い、それらに打ち克つことで、霊界に帰って天人となる資格を得ることができます。

現界で〝われ〟なる精霊に大きな影響を与える精霊に、正守護神と副守護神があります。
人間の肉体には少なくても〝われ〟なる精霊の他に、この正守護神、副守護神の三つの精霊が宿っています。
さらに物心がつく頃になると、多くの「邪霊」が憑依するようになります。

人の心は普段、これら複数の精霊がもたらす、錯綜化した想念で成り立っています。

守護神図

大本のみ教え

「われ」は或る天人、または精霊の分霊にして、現界生存の必要上より、副守護神と和合し、また霊的順序にはいるがために正守護神と和合す。
通例、一個の人格として顕現する「われ」は、この和合の状態においてなり。
分霊としての「われ」は、決して、単に唯一の正守護神および副守護神と和合するのみでなく、時によって、また幾多の守護神(ただし、何らの因縁なきものとは和合し得ず)と和合することができる。かかる場合は、一個の肉体をもって、幾多の人格を顕現するは明らかである。
和合の程度にもいろいろありて、それに応じて、その顕現する状態も異なる。
ある霊と和合した場合には、もはや双方ともに、その和合の状態においてのみ「われ」であって、それ以前の「われ」は単にかすかに記憶にのこるのみである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

 

何十という狐狸につかれている人はめずらしくない。これらに頤使されて、当然をなしつつありと思っている人は、もはやダメである。一たんは邪霊の容器となりいたる人も、反省の力つよく、克己の力大なる人は、かならずや、ついには正道に立ち返りうるものである。
まぜりない分霊そのままという人は、実にまれである。ほとんど皆無といってよい。それでも、山間僻地の人はみたまが純であるが、都会人は実に百鬼昼行である。
(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

本守護神

本守護神は、天界に籍をおく天人で「真霊」とも呼ばれています。すべての人間に一柱の本守護神が守護していますが、平時は天界に居て、人間が危急の場合などに天界から降り、人間を守護するといわれています。
この本守護神と“われ”なる精霊は、親と子のように密接不離の関係にあります。

 

大本のみ教え

日本の人民には、一人に一柱ずつ神が付いて居るから、改心さえ出来たならば、直ぐに聞き済みああるぞよ。(『おほもとしんゆ』第五巻)

 

神界には至善至美の神人をはじめ、各階級の諸多の神霊あり、かつ現界における正しき人人の本霊ここに住して、現界人を守護す、これを本守護神といふ。ゆゑに吾人の霊魂、正神界に籍を置くときは、現世において行ふところの事業ことごとく完成し美果を結び、概して神に仕へ公共に奉仕し、至誠一貫克く天地の経綸を全うするものである。(『霊界物語』第六巻 出口王仁三郎著)

 

霊主体従とは、人間の内分が神に向かつて開け、ただ神を愛し、神を理解し、善徳を積み、真の智慧を輝かし、信の真徳にをり、外的の事物にすこしも拘泥せざる状態をいふのである。かくのごとき人はいはゆる地上の天人にして、生きながら天国に籍をおいてゐる者で、この精霊を称して本守護神といふのである。至粋、至純、至美、至善、至愛、至真の徳にをるものでなくては、この境遇にをることは出来ぬ。(『霊界物語』第五二巻 出口王仁三郎著)

 

そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、(後略)(『霊界物語』第五二巻 出口王仁三郎著)

 

心のままにということは、欲情のままにということではありませぬ。本霊の声に聞くということであります。ただし、終局は、どうしても本霊と欲情とが一致しなくてはならぬものであります。ただ、そこまで達するまでに、多少の取捨が必要なのであります。すなわち常に、直霊に省みるということを怠ってはならぬのであります。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

上級の神霊と和合することにおいてのみ、人の霊(本守護神)は向上するなり、下級の霊と和合せば堕落するなり。すなわち、これを分かりやすく言えば、神を思えば神、鬼を思えば鬼たるなり。
ゆえに人は、日常、より清きを念じ、より美しく、より善く、より真ならんことを念じて絶えざるようにせねばならぬ。このことによってのみ人の魂は、無限に、より高く挙げらるるなり。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

守護神と交通するにはどうすべきか。いわゆる鎮魂を実修せねばならぬ。心をあつめて、守護神を念ずることである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

たいていの人は、自己の内に貴重な玉を蔵していることを気づかない。だから、この玉をいかにして光らそうかということなどをテンで知らない。この玉は伸縮自在、出没自由のものであって……外部の状況に応じて、光ったり隠れたりするものである。隠れていることは、全然、その素質のないこととは非常な相違である。
人間の今までの進化の跡を考えてみても、その素質というものは、ズッと大昔から非常に立派なものであったのだが、ただこれを引き出す術を知らなかったために、その文化が低かったまでである。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

すべて下腹で事をせなければいけない。下腹は守護神の宿る所であるからである。
なんとなく、下腹から、そうせずにはおれなくなってするのは、一時的行為の善悪は別として、その結果はよい。
すべて物ごとは、下腹で決するように心掛けねばならぬ。事に迷うような時には、神前でお祈りして、下腹の充実する時をまって、その時の最初に浮かんだ考えを採用すべきである。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

人体では、臍下丹田は霊界である。頭脳部は現界である。
ゆえに、つねに、本守護神に通ぜんとせば、万事を腹でする心がけが必要である。頭よりは、直接腹に適従する心持にならねばならぬ。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

自分の本体はなかなか分からぬ。
しかし、本守護霊の発動した時の気持を、よく記憶に止めて、平素は、つとめて、その時の状態にならんことを努めねばならぬ。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

各人が副守護神の支配を脱して、本正守護神の真の活躍に移らなくてはミロクの世は永久に来ない。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

 

正守護神

正守護神は善霊で、ほとんどが天人で、因縁のある現界人の体内に宿り〝われ〟なる精霊の乳母役、指南役として常時指導にあたっています。

 

大本のみ教え

正守護神とは、一方は内底神の善に向かひ真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊である。(『霊界物語』第五二巻 出口王仁三郎著)

 

正守護神は、神格の直接内流を受け、人身を機関として、天国の目的すなはち御用に奉仕すべく神より造られたもので、この正守護神は、副守護神なる悪霊に犯されず、よくこれを統制し得るに至れば、一躍して本守護神となり天人の列に加はるものである。また悪霊すなはち副守護神に圧倒され、彼が頤使(いし)に甘んずるごとき卑怯なる精霊となる時は、精霊みづからも地獄界へともどもにおとされてしまふのである。(『霊界物語』第四八巻 出口王仁三郎著)

 

正守護神なるものは、元来、本霊を補助しているのであるからよいが、副守護神というのは、いわば横紙破りの憑依霊であって、その肉体をほろぼし、その本霊を悪へ引きおとさんことをのみ考えているのが普通である。
真のわれなるものは、この本霊であって、正守護神は乳母のごときものである。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

 

副守護神

出口王仁三郎聖師は、この精霊を、「副守護神といふのは実際は、悪霊といふ事であります。もとよりの悪霊ではないが、人間の心が物質によつて曇らされて、悪霊になつて居るのである。けれどもすべての事を見直し、宣り直す教であるから、副守護神と云つて居るのであるが、実際は副守護神といふのは悪霊の意であります。(『神の国』昭和7年3月号)」と善言美詞に宣り直しています。

この副守護神は、人間の肉体に宿り〝われ〟なる精霊を自分の仲間にしようと全力を尽くしています。副守護神は嬰児期から人間の体内に宿っており、生涯肉体から離脱することはありません。生涯をかけて自らの体内で副守護神を改心させることが人生の最大要務とされています。

副守護神が持つ肉体を保持するために必要な三大欲求が存在することで、人間は肉体を維持し子孫を残すことができます。
また、〝われ〟なる精霊は、生涯をかけてさまざまな悪と戦い、打ち克たなければなりません。これが、〝われ〟なる精霊を鍛える磨き砂的役割をしています。

人間の肉体にこのような悪霊(副守護神)が宿る理由は、人間の肉体保持と〝われ〟なる精霊を成長させるためです。

 

大本のみ教え

人間の内底に潜在せる霊魂を、本守護神または正、副守護神といふ。そして本守護神とは、神の神格の内流を直接に受けたる精霊の謂であり、正守護神とは、一方は内底神の善に向かひ真に対し、外部は自愛および世間愛に対し、これをよく按配調和して、広く人類愛におよぶところの精霊である。また副守護神とは、その内底神に背き、ただ物質的躯殻すなはち肉体に関する欲望のみに向かつて蠢動(しゅんどう)する精霊である。優勝劣敗、弱肉強食をもつて最大の真理となし、人生の避くべからざる径路とし、生存競争をもつて唯一の真理と看做(みな)す精霊である。(『霊界物語』第五二巻 出口王仁三郎著)

 

猿であろうと犬であろうと、猫であろうと虎であろうと、すべてこの地表上の諸動物が進化したものが人間である。
なるほど、人間の形体は便宜上、ながい間に祖人猿のごときものから進化したのかもしれない。しかし、その魂は昨日の牛が今日の人間にもなり得るのである。
すなわち、われわれ普通の人間と呼んでいるものの霊魂そのものは、あらゆる動物からきているのであって、いわゆる転生輪廻ということは事実である。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

 

人間の肉体が、悪霊すなはち副守護神によつて、おのれの生命を保持し得ると同時に、また善霊すなはち正守護神によつて、この悪より脱離することを得るものである。(『霊界物語』第四七巻 出口王仁三郎著)

 

少し静思反省すると、何(ど)うしても吾々人間には、霊的性能と体的性能との正反対の二面が具(そな)わって居る事が判る。
霊能は、吾々に向上、純潔、高雅、正義、博愛、犠牲等を迫る。これが最高の倫理的感情又は審美的性情の源泉である。
之に反して体能は、吾々に食い度(た)い、飲みたい、着たい、犯したい等、少くとも非道徳的念慮を起さしめ、甚(はなは)だしきは堕落、放縦、排他、利己等の行為をも迫る。此二性能は、常に吾々の体内で両々相対抗して居る。人間として存在する以上、到底之を免れない。
若(も)し霊能が無いとすれば、吾々は忽ちに禽獣化し、人類として存在の価値を失う。若し又、体能が全然無いとすれば、それでは自己の保存が覚束ない。例えば食わない丈でも滅びて了う。両性能を具有する事は絶対に必要であるが、両性能の間には、主従優劣の区別を設けて、一身の行動の規準とせねば、人間は適従する所に迷うて了う。
乃(そこ)で霊能を主とし、体能を従とし、之を守るのが善、之に反くのが悪と規定せられて居る。大宇宙の原則は、矢張小宇宙たる人間に於ても、原則とせられて居る。ただ人類が未製品なので、大体之を原則として規定しても、実行の上には原則違反ばかり続けて居るのだ。(『出口王仁三郎著作集』第一巻)

東海教区特派宣伝使 前田茂太