R4.弥仙山ヤマシャクヤク
コラム

「何事も神意にまかせて」

日々の暮らし

大本では、今日のように不安定な世界情勢が続くときこそ、祈りに徹しなければいけないと教えられています。世界平和は一足飛びに築けるものではありません。
世界平和を実現するために、私たちは、それぞれが、自分の仕事に励みつつ、与えられた自分の環境の中で、神さまのみ恵みを発見し、感謝し、よろこび、勇みつつ、一つひとつ積み重ねて、日々を暮らしてゆくしかありません。

私たちには、現代社会を生きる上で、大小さまざまな不安が存在します。そうした不安に襲われたら、まず、物事を楽観的に捉えて、考えるほど心配になるようなことは考えず、その時にできることに集中し、考えても解決しないことは考えないように心掛けることです。

神さまに祈り、何事も神意にまかすことで、大きな問題も小さな問題も、やがて自然と解決してゆきます。

 

大本のみ教え

刑務所に入っているものは皆、明けても暮れても心配ばかりしている。わしはもうこれで何年も入っている。いつになったら出してくれるだろうか。自分の身の上は一体どうなるのだろうか。家族はどうしているじゃろうか、と心配ばかりして皆自分で自分の命を削っとる。わしらはそんな心配などはせぬ。人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。昨日刑務所へ入っていたことも考えなければ、明日刑務所へ入っていなければならぬと考えたこともないわい。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはないからな。未決が一年だろうが、七年だろうが同じことじゃよ。あはは……(「神の国」誌 昭和二十五年十月号~昭和二十六年二月号「事件を通して見た 聖師さまの言動」)

 

吾々は翌日のことは心配しなくてもよい。今といふこの瞬間に善を思ひ、善を言ひ、善を行つたらよいのだ。吾々はその刹那々々を清く正しく勤めてゆけばよい(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

 

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

自分のものという時間は瞬間、刹那、その「時」しかない。それを生かそうと殺そうと、その人の自由である。すんだことや先のことは、いくらクヨクヨしたところで意味をなさない(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

一口にいえば「赤子のような無邪気な心になって、一切を神にまかして、その日その時を感謝と歓喜との中に過ごせよ」というより外には出ない。
人間は必然的に、霊界の型をさせられているにすぎないのだから、肉体心で「ああしよう」「こうしよう」とあせったところで、どうすることもできない。
ある与えられた道筋より外へ出られないのである。しかし、その道筋というのは、決して、最初から一定不変の絶対的のものではなく、その方向は絶対的であっても、その長短や道幅は、人間の努力ひとつにて、どんなにでもなるものである。
たとえば、霊界での人殺しが、現界では、ちょっと人をつまずかしたくらいで済むこともあり、悪くすると、前よりは、多くの人殺しをやる場合もないとはいえぬ。
これらは、その時、その人の心がけ如何によるのである。
霊界は現界から出たものであって、しかも、次の現界へ必然的に映るものである。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

何ごともお蔭であると、善意に有難くすべてを解して、その日その日、その時その時の最善をつくせよ。神にさえ任しておけば、悪いことがよいことに変わる仕組である。
次第に外がわの汚い着物をぬいで、光る着物と変えるのである。一番外がわの着物が一番劣等な副守護神、それからだんだん向上して、最後は、天国の真のご分霊たる自分にまで成りきるのだ。
神さまは決して強制せられない。精霊の自由自意に、すなわち、差支えないかぎり、やりたいように任されているのである。
だから、精霊の奮起、精進、努力のいかんによって、どんなにでも、また、どの方向にでも変わることができるのである。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

いついつ迄に、ぜひこれこれのことを仕上げねばならぬというようなことが一番いやなことであります。小さい心で、一代や二代だけのことを計画してみても、スカタンを食うばかりではありませんか。なるようになって、その日その日を嬉しく、ありがたく暮らさしていただくのが一番よろしい。
食う心配、そのほか何によらず、或るもののために心がしばられて苦しむほど嫌なものはありません。こういう生活を送っている人々が一番気の毒であります。みたまのよい人は、なおさら辛いことだろうと思います。
金があったり、よい役をしているのが幸福ではありません。心にわだかまりがなくて暮らしてゆける人が一番幸福な人であります。
今のように乱れきった世では、どんな人でも多少の煩悶があります。だから、天地の親神さまを信じて、おすがり申しておる心にならねばなりません。(『信仰覚書』第八巻 出口日出麿著)

 

いまの、平和運動が、帝国主義は人類の敵だとか、資本主義が平和の敵だとかいうような言葉を使っているうちは、平和は世界に招来されないでしょう。といっても帝国主義を肯定しているのでも、資本主義を肯定しているのでもありません。
ただ、神さまの世界には、敵というこころが無いからです。したがって、東・西のいずれにも敵などは無いはずです。敵をもつようでは、もう信仰ではありません。
ところが、人間というものは、立場がちがうと、一度、相手を×に思いこむと、なかなかそこから脱けきれるものではありません。そこで、どちらにも、立派な言い分が成り立ってきます。その姿がいまの東・西の対立となって現れているのではないでしょうか。これを、脱けきるものは、もう祈りよりほかにはありません。祈りの力によってのみ、新しい和合の芽が生まれてくるものと信じます。
いまのように、東・西の対立を中心にして、世界的に騒がしいときこそ、大本は祈りに徹しなければいけないのです。〝さわがしくなるほど、山奥に鳥の啼(な)く声たよりにて、かごんでおりてくだされよ〟というお筆先の奥ふかい内義にふれさしていただき、自分の心を鞭(むち)うって、神さまを拝み、祈らしていただくことであります。そして、日々の起居のうちに、平和の心づくりに精進さしていただきたいとおもいます。
また〝神の心が、わかりたなれば、なにも言わずに、めいめいの仕事(かぎょう)にはげんでくだされよ〟とお示しになっています。このことをよく胸に腹におさめていただければ、別にわかったからと言って、どうの、こうのと、いうことではない、そこに、深いご意味があることが、わからしていただけます。自分だけ良ければ良いという態度ではいけないことを、おのずからに、言わなくてもわかってもらえるでしょう。
人間は形だけのものではなく、ものを思い考える心というものをもっています。いいものを食べていい家に住み、いいものを着ていたとしても、かならずしも楽しいものではなく、案外、そういう人から憂い顔をみせられることもよくあります。その反対に、はつはつの暮らしをしていられる方から、うれしそうな表情を感じることがあります。それに、この世界というものは、一足飛びに、立て直せるものではなく、一段一段とのぼりつめてゆくものですから、ともかくも、それぞれの仕事に励みつつ、現在の自分の環境の中に、神さまのみ恵みを発見し、感謝し、よろこび、勇みつつ、平和の世界を現出してゆくことに、日々をつとめてゆくことです。(『聴雪記』 出口直日著)

東海教区特派宣伝使 前田茂太