天恩郷紅梅
コラム

「つらいとき苦しいときに」

心配なことは考えない

 

米国ミシガン大学の研究チームの心配事の実地調査で、「心配事の80%は起こらない」ということが明らかになりました。心配事の96%は現実にならない、16%は準備をしていれば対応できる、4%は何をしても避けられない。

つまり、心配事のうち実際に起こるのはたったの4%です。ほとんどが、ただの”取り越し苦労”にすぎません。

不安な気持ちになったら、まず、まだ起こっていない未来のことや、過ぎ去った過去のことを考えるのをやめる。そして、現在していることに没頭してみる。何かの行動に集中して、余計なことを考えないようにすることです。

 

大本のみ教え

自分のものという時間は瞬間、刹那、その「時」しかない。それを生かそうと殺そうと、その人の自由である。すんだことや先のことは、いくらクヨクヨしたところで意味をなさない(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

どんな事件に出会っても、決して、これにショゲかえって悲観や絶望をしてはいけません。「これも何かの神さまのご慈悲である、大難を小難にまつりかえて下さったのだ」と、よい方に解釈して、有難く嬉しく日を送る心になりさえしたら、もう天国はその人の所有となっているのであります。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

吾々は翌日のことは心配しなくてもよい。今といふこの瞬間に善を思ひ、善を言ひ、善を行つたらよいのだ。吾々はその刹那々々を清く正しく勤めてゆけばよい(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

 

人間の分際で取越苦労をしたり、過越苦労をしたつて、何にもならない。マア何事も神様に任したがよからうよ。(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

 

神任せというのは、自分が最善を尽して「今」を生ききっており、あとはお任せすることである。これならほんとうに安心立命が得られる。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

 

過去を思わず、未来も思わず、その日その時に生きる子供のごとき心が自然なり。過去に執着せず、未来を計画せざるゆえに心平静なるなり。どうせ、つくられ、動かされている人間なり。あまりに自我に没頭するから苦しむのだ(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

考えすぎるから悩むのだ。あるがままに楽しむべし、なるがままに楽しむべし。その時、その日のベストに、われを忘れることのできる人は幸いなるかな、だ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、楽しくもあり、また悲しくもあるのだ。そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

すんだことは忘れることだ。くやしかったこと、恥ずかしかったこと、恐ろしかったこと、そんなことは、みんな忘れてしまって、ただ、より賢くさえなっておればよいのだ。われわれは、どんなことでも、それを踏台として、一段うえへ、より賢くなることを、まず第一に心がけねばならぬ。そして、その踏台に、いつまでも執着していてはならない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

 

一切過ぎ去りしことのために頭を悩まさざること
一切、未来を案じ過ぎぬこと
心身を神にまかして、現在のベストをつくすこと(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

 

苦楽一如 ~苦労の先にあるもの~

人は誰しも、つらいこと、苦しいこと、悲しいこと、自分ではどうすることもできない危機に直面して、落ち込んだり、悩んだりしながら懸命に生きています。そうした経験はできれば避けて通りたいのが人の心情ですが、全ての困難には大きな意味があります。

それは、魂の成長のためです。

すべてが順調に、穏やかに運んでいるような生活の中では、魂は成長しません。困難を経験し、それを克服することで魂は成長します。

私たちは、霊性の向上を目指してこの世に生まれてきた、肉体を纏った霊的な存在です。

やがて帰る霊界で、より高い世界に登るための準備として、生と死を何度も何度も繰り返しながら、人生の中で喜怒哀楽といった様々な体験を積み重ね、霊性の向上を目指して魂を成長させています。

 

大本のみ教え

人生に苦というものがあればこそ楽の味わいが判るのである。人間が飢えんとする時、凍えんとする時、あるいは重い病にかかる時、可愛い妻子と別れる時、汗を絞って働く時、峻坂を登る時などは、かならずこの苦というものを味わうものである。この苦があってこそ、楽しいとか、嬉しいとか、面白いとかいう結果を生みだしてくるのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

 

すべて人間が、現実界に生れてきたのは、いはば天人の胞衣のごときものである。さうしてまた天人の養成器となり、苗代となり、また霊子の温め鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得るとともに、人間は天人そのものであり、また在天国の天人は、人間が善徳の発達したものである(『霊界物語』第四八巻 出口王仁三郎著)

 

 

 

不幸を招く原因とは?

人間は、自分の心の中にある、”恨み”、”妬み”、”嫉み”、”憎しみ”といった”地獄的な想念”を追い払い、できるだけ清らかな気持ちでいること意識して過ごすことが大切です。

“地獄的な想念”を持ったままでいると、その心が、自分自身や世の中に災いとなって反映され不幸を招く原因となります。

すべての災害は、人間が発する邪気に原因があります。

大きな視点から見ればその「こり(邪気)」がたまって天災地変や戦争、テロなどを引き起こします。

個人の視点から見れば病気、心配事などによって、自分自身の身に降り掛かってきます。

 

大本のみ教え

むやみに人を疑いなどして独り心をいため、自己の魂を汚し、他人の霊をけがすこと、または過去をいつまでも悔い、未来を案じすぎなどして、われとわが心を損傷するなどの類は、今の世には、いと多きことなり(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

わが心陰うつなれば、相応の理によりて、陰うつなる霊子のみをわが身の周囲に引きよせて地獄を作るなり。何事もこの類にして、心と応ずるなり(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

自己の行動を他人が誤解して恨みたり、巻きぞえを食ったりする場合なり。これも自己の努力によりて、大部分除却し得るなり。他人に誤解さるるは、いく分、その罪は自己にあるなり。ゆえに、つとめてそれを釈明し、つねに言動をつつしまざるべからず。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

過去の因縁によりて来る場合多し。ただしその悪因縁は、なるべく希薄にすることに努力すべし。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

いかなる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さえあれば、すなわち根本に信をおいて、惟神の定めにまかせてさえゆけば、そこに変わりのない彩色があり音響がある(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

人生はいかなる難事にあうも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も、総てが花をうつ風雨とおもえばよい。富貴も、栄達も、貧窮も、すべてがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

すべて人間は常に心を平静にもち、愛善の誠をもって人の幸運を祈り悲しかったことや、口惜しかったことは全然忘れてしまい、楽しかりしことをのみ思い出し、世界人類に対して、誠をさえつくしておればそれでよいのである。これが惟神の心である。人生の努めである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

 

生まれてくる時に最大の関門を突破している

私たちは、この世に誕生するとき、すなわち産道を通る時すでに、人生の中でもっとも大きな不安や恐怖、苦痛を体験しています。死ぬ気で産道を通り、命綱であるへその尾を切られる恐怖を乗り越えています。

人生において、すでに最大の関門を突破しているので、大抵のことは、乗り越えられる力を持っています。

人間は、自分で解決できないほど大きな問題、背負えない重い荷を与えられることはありません。
それが与えられたのは、魂にそれだけのものに耐え得る力があるということです。

 

 

大本のみ教え

生れる時の苦痛が一番ひどいので、人は其苦しみによつて、自分の前生を総て忘れて仕舞つて、何も分らぬやうになるのである。次が病の苦しみ、これは大抵の人が大か小か味ははないものは少ない、次が年とつて行く苦しみ、だんだん苦痛が軽く死が一番苦痛が小さいのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

 

生、病、老、死、これを四苦といつて、人生で一番苦しいものである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

 

 

感謝報恩の生活

目の前の不平不満にとらわれず、感謝すべきことに目を向ける努力をすることが、人生を幸せへ導く第一歩となります。

 

大本のみ教え

人間の不平は千様万態であるが、まず生活問題から起こるのが多いようだ。この不平を解する唯一の方法は、報恩謝徳の意義を了解するにある。(『月鏡』出口 王仁三郎著)

 

米一粒が八十八回の労力を要して始めて人間の口にはいることに、おもいをいたす時は、吾人は四囲の総てにたいして感謝せねばならぬ。報恩の念は吾人に幸福な人生の温情をおしえてくれる(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

 

自殺についてのお示し

大本の教えで、自殺は、罪悪中の罪悪と示されています。自殺すると天の規則を破った罪で、現界にいるとき以上に苦しみ、地獄に落ちねばなりません。

出口王仁三郎聖師は、『水にドボンと飛び込んで自殺した人は、ドボンと飛び込んだ瞬間の世界しか霊界では与えられない』(「おほもと」誌「昭和四十七年七月号」)と示しています。

現界での苦しみが自殺によって解消されることはありません。

 

大本のみ教え

『ヤア高倉別殿、貴下は尊き神につかふる神司、この場におよんで神より受けし貴重なる生命をみづから捨てむとしたまふは何事ぞ。今のいままで全心全力をつくし、力およばずして後に運命を天にまかさむのみ。これ人を教ふる吾々の採るべき道にあらざるか。しばらく思ひとどまりたまへ。善悪邪正を鏡にかけしごとく明智したまふ誠の神は、いかで吾らを捨てたまはむや。自殺は罪悪中の罪悪なり。貴下はなにゆゑにかかる危急の場合にのぞみて神に祈願せざるや』(『霊界物語』第一二巻 出口王仁三郎著)

 

『いかなる事がございませうとも、よく耐へ忍び天寿を全うして、能ふかぎりの神業に奉仕しなくてはなりますまい。自殺は罪悪中の罪悪でございまする。あなたの肉体は決して貴女の物ではない。身魂ともに大切な神様の預かり物、左様な気儘なことをなさいますと、末代その罪は赦されませぬぞ。いかなる事がございませうとも、スマートボールが力かぎりお力になりませうほどに、自殺だけは、思ひ止まつて下さい』(『霊界物語』第二五巻 出口王仁三郎著)

 

『貴女のお言葉も一応もつともながら、あなたが一人残されたのも神界の御都合でせう。あなたが自殺するといふことは罪悪中の罪悪ですよ。やむを得ずして命が終つたなら天国に往けませうが、吾が身勝手に命を捨てたものは天国へは往けませぬ。きつと地獄に往きますから、お考へ直しを願ひます』(『霊界物語』第六五巻 出口王仁三郎著)

 

私は五六度死んだ事があるが、生きかへつてから後も二週間位はひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構な事である。三十才の生命を神様より与へられて居る人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うて居るのである。しかのみならず霊界へ行けば総てが定まつて仕舞ふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。人生の目的は地上に天国をひらく為であるから、魂を汚がさんやうにすることが一番大切な事である。刀身がゆがむと元のさやに納まらないごとく、魂が汚がれゆがむと元の天国にはをさまらぬ。人間に取つて一番大切な事は何といつても生きて居る中に死後の存在を確めておく事である。死後の世界が分ると五倫五常が自然に行へる。倫常を破ると云ふ事は自分の損になる事がハツキリ分るからである。人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。私は人生問題になやんで或時は爆弾を抱いて死んでやろうかとさへ思つた事がある。神様の御恵みによつて何も彼も知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入る事が出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、幾度か死を考へた事ほどそれが痛切であつたのである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

いたしかたない場合のほか、いかなる口実があるにせよ、人に迷惑をかけるというは悪しきことなり。多くの自殺などの類は、あまりに自己中心なり。自分さえ死んでしまえば、あとは野となれ山となれでは、この世はもてぬなり。死よりも苦しきを忍びて、他の者の犠牲となるこそ真の人たる道なれ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

 

万事が外的なる現界、利己執着のかたまりなる現界より、一時も早くのがれたい。たいていの人は、死ぬることをこの上もなくいやがるが、自分には、それが不思議でかなわぬ。束縛から自由へ、苗床から本床へと出ることが、なぜいやなのだろう。しかし、自殺は神の許したまわぬ罪悪であるから、自分はどんなことがあっても自殺だけはせぬ。しかし、死にたい、死にたいのではない。一時も早く、こんな不自由な、バカバカしい、とんでもない、けしくりからぬ世界からのがれたいのだ。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

 

生死はまったく神界からのことである。決して人為的のものではない。自殺などは、外見上は人為的のようであるが、真実は決してそうではない。神界から黙許された者は死ぬることができるが、もし神から殺すまいとされた時は、いかに人間が死のうと焦っても死ねるものではない。第一、そんな時には、死のうなどという考えが消えて(実は、消されて)しまうものである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

 

毎日の新聞紙上に一人や二人の自殺者の記事のないことはありませんが、大体、自殺者は利己主義であり、卑怯者であるように思えます。というのは、自分さえ死んでしまえば、あとは野となれ山となれ、どうなと勝手にやるがよいというふうに、生きのこった人たちに迷惑をかけることも考えずに、自分ひとりが連帯責任からのがれて、抜け駆け的に極楽浄土へ参ろうなどとは、どう考えても、利己的であります。尽すべき手段をつくさず、自分に負わされている重荷をまで他人につきつけて、自分ひとりが楽になろうとするのは、たしかに卑怯といわねばなりません。なるほど、考えてみれば、この世は苦しい、淋しい、辛い。しかしながら、ほんとうは、苦しいのも淋しいのも辛いのも、みな自分であって、世の中ではないのです。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太