「つらいとき苦しいときに」

心配なことは考えない

取り越し苦労や過ぎ越し苦労の状態を「マインド・ワンダリング(心の迷走)」と言います。2010年、ハーバード大学の心理学者マシュー・キリングスワース氏らは、2,250人を対象に、マインド・ワンダリングに関する大規模な行動心理調査を行いました。その結果、生活時間のうち47%もの時間を、このマインド・ワンダリングに費やしていることが明らかになりました。人間は本能的に「マインド・ワンダリング」の状態に陥りやすいと言えます。何か心配事があるとき、それに頭を支配されるのは仕方のないことかもしれません。

しかし、心配事のほとんどは「取り越し苦労」に過ぎません。米国ミシガン大学の研究チームが行った実地調査によれば、「心配事の80%は実際には発生しない」という事実が明らかになりました。具体的には、心配事の96%は現実化しない可能性があり、16%は適切な準備によって対処可能であり、残る4%はどのような対策を講じても避けることができないとされています。

つまり、心配事のうち実際に現実化するのはごくわずかな4%に過ぎないということです。ほとんどのケースは、単なる「取り越し苦労」に過ぎないと言えます。

したがって、もし不安や心配が押し寄せてきた場合は、まずはまだ起こっていない未来の出来事や過ぎ去った過去の出来事に対する思考を一時停止してみることが大切です。
未来の心配や過去の出来事を考えるのをやめて、現在の行動に集中し、余計な思考を排除しましょう。
具体的な行動に注意を向けることで、余計な心配事に囚われることなく、より前向きな状態を保つことができます。

人生の問題に悩むのではなく、今できることに焦点を当てて解決策を見つけることが大切です。明日のことは明日に考え、無理に悩んだり恐れたりする必要はありません。

自分の意志の力でどうにもならないことについて悩まないことが大切です。

 

大本のみ教え

自分のものという時間は瞬間、刹那、その「時」しかない。それを生かそうと殺そうと、その人の自由である。すんだことや先のことは、いくらクヨクヨしたところで意味をなさない(『信仰叢話』 出口日出麿著)

どんな事件に出会っても、決して、これにショゲかえって悲観や絶望をしてはいけません。「これも何かの神さまのご慈悲である、大難を小難にまつりかえて下さったのだ」と、よい方に解釈して、有難く嬉しく日を送る心になりさえしたら、もう天国はその人の所有となっているのであります。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

天国へ行くのも地獄へ落つるのも、みな自分自身が平素からの心の状態がつもりつもって、必然的にそうなるまででありまして、けっして、神さまが連れて行かれるものでも、また社会がそう強いるものでもありません。みな、みずからの心の持ち方ひとつが作り上げるのであります。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

吾々は翌日のことは心配しなくてもよい。今といふこの瞬間に善を思ひ、善を言ひ、善を行つたらよいのだ。吾々はその刹那々々を清く正しく勤めてゆけばよい(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

人間の分際で取越苦労をしたり、過越苦労をしたつて、何にもならない。マア何事も神様に任したがよからうよ。(『霊界物語』第七巻 出口王仁三郎著)

神任せというのは、自分が最善を尽して「今」を生ききっており、あとはお任せすることである。これならほんとうに安心立命が得られる。(『信仰叢話』 出口日出麿著)

過去を思わず、未来も思わず、その日その時に生きる子供のごとき心が自然なり。過去に執着せず、未来を計画せざるゆえに心平静なるなり。どうせ、つくられ、動かされている人間なり。あまりに自我に没頭するから苦しむのだ(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

考えすぎるから悩むのだ。あるがままに楽しむべし、なるがままに楽しむべし。その時、その日のベストに、われを忘れることのできる人は幸いなるかな、だ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

何事でも、出来てしまえば思ったほどでもないもので、その前に、いろいろと勝手な想像をめぐらすことによって、楽しくもあり、また悲しくもあるのだ。そして、人間の真の生活は主観であるから、その人の心の持ち方ひとつで、世の中は楽しくも苦しくもなるというのである(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

すんだことは忘れることだ。くやしかったこと、恥ずかしかったこと、恐ろしかったこと、そんなことは、みんな忘れてしまって、ただ、より賢くさえなっておればよいのだ。われわれは、どんなことでも、それを踏台として、一段うえへ、より賢くなることを、まず第一に心がけねばならぬ。そして、その踏台に、いつまでも執着していてはならない。(『信仰覚書』第四巻 出口日出麿著)

一切過ぎ去りしことのために頭を悩まさざること
一切、未来を案じ過ぎぬこと
心身を神にまかして、現在のベストをつくすこと(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

何事も神意にまかして、あせらず、あわてず、その日その時のベストをつくして、一生を一日のごとくに悠々とおくる工夫をせねばなりません。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

すべての病は百のうち九十九までは、心の罪穢れよりおこるものなり。心を清むるときは、病はただちに消ゆ。苦しむも心、楽しむもまた心なり。ゆえに心の病をなおさざれば、肉体の病は癒ゆることなし。根本より病を絶やさんと欲する者は、心の底に真の薬を飲み、心の奥の間に真の神を祭るべし。
霊魂の死ぬる病と、肉体の死ぬる病とあり。霊魂の死ぬ病は、いと重くして癒ゆることなかなかに難く、いつたん死したるうえは、元にかえることあたわざるなり。肉体の死ぬる病は軽し。肉体の死したるは真の死したるにあらず。霊魂の宿を替えて元の神の国に帰りゆけるなり。されば、よし肉体を殺すとも、霊魂を殺すことなかれ。肉体は従僕にして霊魂は主人なればなり。(『出口王仁三郎著作集』第三巻)

 

苦楽一如 ~苦労の先にあるもの~

人は皆、つらい出来事や苦しみ、悲しみ、自分ではどうしようもない危機に直面しながら、落ち込んだり悩んだりしながら努力して生きています。
これらの経験は、もし可能であれば避けたいと思うかもしれませんが、困難な状況には深い意味が内在しています。

それは、魂の成長のためです。

魂は、順調で平穏な生活の中では成長の機会を手に入れることが難しく、困難な状況を経験し、それを乗り越えることで成長します。

私たちは、霊性の向上を目指してこの世に生まれてきた霊的な存在であり、霊界から現界へと誕生する過程で肉体を纏います。

そしていずれ帰るべき霊界では、より高次の世界に到達するための準備として、生と死を繰り返し、人生の中で様々な感情や経験を積み重ね、魂の成長と霊性の向上を追求しています。

私たちの人生には、大きな悩みも小さな悩みも、真実の悩みも取り越し苦労も含まれています。しかし、これらは全て一時的なものであり、いずれは過ぎ去るものです。

大切なのは、その瞬間に焦点を当て、過去や未来の悩みに囚われずに、魂の成長のためであるという現在の状況を前向きに受け入れることです。

過去の経験や未来の予測にとらわれるのではなく、今この瞬間が成長の場であり、学びの機会であることを認識しましょう。

大本のみ教え

人生に苦というものがあればこそ楽の味わいが判るのである。人間が飢えんとする時、凍えんとする時、あるいは重い病にかかる時、可愛い妻子と別れる時、汗を絞って働く時、峻坂を登る時などは、かならずこの苦というものを味わうものである。この苦があってこそ、楽しいとか、嬉しいとか、面白いとかいう結果を生みだしてくるのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

すべて人間が、現実界に生れてきたのは、いはば天人の胞衣のごときものである。さうしてまた天人の養成器となり、苗代となり、また霊子の温め鳥となり、天人の苗を育つる農夫ともなり得るとともに、人間は天人そのものであり、また在天国の天人は、人間が善徳の発達したものである(『霊界物語』第四八巻 出口王仁三郎著)

 

不幸を引き寄せる原因

人間は、自分の心に潜む「恨み」、「妬み」、「嫉み」、「憎しみ」といった「地獄的な想念」を取り除き、できる限り清らかな気持ちで過ごすことが重要です。「地獄的な想念」を心に抱えたままだと、その想念が次第に自分自身や周囲に悪影響を及ぼし、結果的に不幸を引き寄せる原因となります。

すべての災害は、人間が発する「地獄的な想念」に起因しています。

広い視点から見れば、この「地獄的な想念」が蓄積されることによって、天災や地変、戦争、テロなどが引き起こされます。個人の視点から見れば、病気や心配事などが、自身の身に降りかかってくる原因となります。

「地獄的な想念」を取り除き、清らかな心で過ごすことは、自分自身や周囲の状況を良い方向に導く重要な一歩です。

大本のみ教え

むやみに人を疑いなどして独り心をいため、自己の魂を汚し、他人の霊をけがすこと、または過去をいつまでも悔い、未来を案じすぎなどして、われとわが心を損傷するなどの類は、今の世には、いと多きことなり(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

わが心陰うつなれば、相応の理によりて、陰うつなる霊子のみをわが身の周囲に引きよせて地獄を作るなり。何事もこの類にして、心と応ずるなり(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

自己の行動を他人が誤解して恨みたり、巻きぞえを食ったりする場合なり。これも自己の努力によりて、大部分除却し得るなり。他人に誤解さるるは、いく分、その罪は自己にあるなり。ゆえに、つとめてそれを釈明し、つねに言動をつつしまざるべからず。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

過去の因縁によりて来る場合多し。ただしその悪因縁は、なるべく希薄にすることに努力すべし。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

いかなる苦痛の深淵に沈むとも、心に正しき信仰さえあれば、すなわち根本に信をおいて、惟神の定めにまかせてさえゆけば、そこに変わりのない彩色があり音響がある(『月鏡』 出口王仁三郎著)

人生はいかなる難事にあうも恨まず、嘆かず、哀別も離苦も、総てが花をうつ風雨とおもえばよい。富貴も、栄達も、貧窮も、すべてがゆったりとした春の気分で世に処するのが惟神の大道である(『月鏡』 出口王仁三郎著)

すべて人間は常に心を平静にもち、愛善の誠をもって人の幸運を祈り悲しかったことや、口惜しかったことは全然忘れてしまい、楽しかりしことをのみ思い出し、世界人類に対して、誠をさえつくしておればそれでよいのである。これが惟神の心である。人生の努めである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

神経衰弱は霊のしわざなり。軽度なる時は運動と美食と睡眠によりて治すべし。本人もつねに理性に省みて「自分はいま、考え方も病的なり」ということを念頭においておるべし。歌舞音曲は凝らぬ程度においてすこぶるよろし。自分と気の合う人によりて慰めらるること大なり。家族の人たちは、病人に対してはつねに和気をもって対し、かりにも、本人をして疑いをおこさしむるが如き言語挙動あるべからず。
やや重き者は、しずかなる室におらしめ、滑稽物、講談本など適宜に読ましむべし。彼等はいたって疑いぶかく、つねに自己不安におそわれ通しなり。これ邪霊の本性なり。多少、教養ある者においては、みずから戒めてその常軌を逸するを制し得れど、平素より小胆なる人が、または身体虚弱なる人、またはわがままなる者等においては、邪霊のとりことなり終わる場合も往々あり。特に、身体虚弱となれば、いきおい本霊の活動にぶり、邪霊に乗ぜられがちなり。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

なんといっても、人間的活動の根源は食事にあり。健康者にありても、ちょっと飯を食わいでも、ウンと活動力にぶるものなり。いわんや、病患者においておや。ついでながら、人間は一種のカラクリであるから、ちょっと工合が悪くても、すぐに全体にこたえて悄(しょ)げてしまうものなり。精神的にもそうであって、一こと、他人から賞められれば、すぐに意気昂然となり、ちょっと悪くいわれるれば、また直ぐに無茶苦茶に悲観してしまうものなり。何によらずそうなり。理屈は一通り、えらそうなことを言っている人でも、実際にあたってみれば、何でもないようなことが出来ないなり。実に人間というものはデリケートなものなり。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

神経衰弱的傾向のある人は、あくまでも意志を強固にして、つねに直日に聴従することにつとむべし。これが最良の療法なり。いかなる悪魔といえども、その人に乗ぜしむる隙さえなかったら手のほどこしようはないなり。何か小さいことに心配したり、気にかけたりしているに乗じて、悪魔は得たりかしこしと、その人を自由にせんと猛威をふるうものなり。
「いま自分は死んでもかまわぬ」という真の大覚悟さえ、平常(へいぜい)からできておればなんのこともなきなり。人の肉体に巣くうている悪魔は、いろんな隙をねらってその人の心を撹乱せんとたくらんでいるものなり。(『信仰覚書』第二巻 出口日出麿著)

 

生まれてくる時に最大の関門を突破している

私たちは、この世に誕生する瞬間、具体的には産道を通る時点で、人生の中で最も大きな不安や恐怖、苦痛を既に経験しています。生まれるために産道を通り、へその緒という命綱を切る瞬間の恐怖を克服しています。

人生の早い段階で既に最大の試練を経験しているため、人間は本質的に多くの困難を克服する力を持っており、自分の人生に解決できない問題は生じないと言えます。

過度に重い荷を背負うような状況は与えられることはなく、私たちに与えられる試練は、魂がそれに耐える力を備えていることを示しています。

大本のみ教え

生れる時の苦痛が一番ひどいので、人は其苦しみによつて、自分の前生を総て忘れて仕舞つて、何も分らぬやうになるのである。次が病の苦しみ、これは大抵の人が大か小か味ははないものは少ない、次が年とつて行く苦しみ、だんだん苦痛が軽く死が一番苦痛が小さいのである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

生、病、老、死、これを四苦といつて、人生で一番苦しいものである。(『水鏡』 出口王仁三郎著)

 

感謝報恩の生活

目の前の不平不満に捉われるのではなく、感謝すべきことに焦点を合わせる努力をすることが、人生を幸福へ導く第一歩となります。

この努力は、私たちが自身の周りにある善や美、日常の小さな喜びを見つけることから始まります。一つ一つの小さな幸せに目を向けることで、大きな困難や挫折にも立ち向かうための心の強さが育まれます。
また、感謝の心を持つことは、人々との関係を深め、共感や協力の輪を広げる原動力ともなります。

人生には必ず苦難や試練が訪れますが、その中にも学びや成長の機会が隠れています。感謝の心を持ちながら前向きな姿勢を保つことで、困難な時でも希望を見失うことなく、幸福への道を歩み続けることができます。

大本のみ教え

人間の不平は千様万態であるが、まず生活問題から起こるのが多いようだ。この不平を解する唯一の方法は、報恩謝徳の意義を了解するにある。(『月鏡』出口 王仁三郎著)

米一粒が八十八回の労力を要して始めて人間の口にはいることに、おもいをいたす時は、吾人は四囲の総てにたいして感謝せねばならぬ。報恩の念は吾人に幸福な人生の温情をおしえてくれる(『月鏡』 出口王仁三郎著)

 

 

 

 

自殺についてのお示し

大本の教えによれば、自殺は極めて重い罪であり、天の規則を犯す行為とされています。自殺によって苦しみから解放されることはなく、むしろ現界にいるとき以上に苦しむことになります。

出口王仁三郎聖師は、「水にドボンと飛び込んで自殺した人は、ドボンと飛び込んだ瞬間の世界しか霊界では見ることができない」と述べています(「おほもと」誌「昭和四十七年七月号」)。
これは、自殺によって魂が自殺した瞬間に固定され、成長や進化の機会が奪われることを意味しています。

自殺によって現世での苦しみが解消されるわけではなく、むしろ魂の成長と進化の可能性を奪うことになります。このような教えから、自殺を選ぶのは慎重に考えるべき重大な問題であることがわかります。

大本のみ教え

『ヤア高倉別殿、貴下は尊き神につかふる神司、この場におよんで神より受けし貴重なる生命をみづから捨てむとしたまふは何事ぞ。今のいままで全心全力をつくし、力およばずして後に運命を天にまかさむのみ。これ人を教ふる吾々の採るべき道にあらざるか。しばらく思ひとどまりたまへ。善悪邪正を鏡にかけしごとく明智したまふ誠の神は、いかで吾らを捨てたまはむや。自殺は罪悪中の罪悪なり。貴下はなにゆゑにかかる危急の場合にのぞみて神に祈願せざるや』(『霊界物語』第一二巻 出口王仁三郎著)

『いかなる事がございませうとも、よく耐へ忍び天寿を全うして、能ふかぎりの神業に奉仕しなくてはなりますまい。自殺は罪悪中の罪悪でございまする。あなたの肉体は決して貴女の物ではない。身魂ともに大切な神様の預かり物、左様な気儘なことをなさいますと、末代その罪は赦されませぬぞ。いかなる事がございませうとも、スマートボールが力かぎりお力になりませうほどに、自殺だけは、思ひ止まつて下さい』(『霊界物語』第二五巻 出口王仁三郎著)

『貴女のお言葉も一応もつともながら、あなたが一人残されたのも神界の御都合でせう。あなたが自殺するといふことは罪悪中の罪悪ですよ。やむを得ずして命が終つたなら天国に往けませうが、吾が身勝手に命を捨てたものは天国へは往けませぬ。きつと地獄に往きますから、お考へ直しを願ひます』(『霊界物語』第六五巻 出口王仁三郎著)

私は五六度死んだ事があるが、生きかへつてから後も二週間位はひどく疲労れたものである。元来生の執着は神様より与へられたものであつて、結構な事である。三十才の生命を神様より与へられて居る人が十五才にして自殺したとすると、十五年の間霊は迷うて居るのである。しかのみならず霊界へ行けば総てが定まつて仕舞ふから、人は現界にある内に十分働かして貰はねばならぬ。人生の目的は地上に天国をひらく為であるから、魂を汚がさんやうにすることが一番大切な事である。刀身がゆがむと元のさやに納まらないごとく、魂が汚がれゆがむと元の天国にはをさまらぬ。人間に取つて一番大切な事は何といつても生きて居る中に死後の存在を確めておく事である。死後の世界が分ると五倫五常が自然に行へる。倫常を破ると云ふ事は自分の損になる事がハツキリ分るからである。人間は死後の世界を研究してから仕事をするがよい。私は人生問題になやんで或時は爆弾を抱いて死んでやろうかとさへ思つた事がある。神様の御恵みによつて何も彼も知らして頂いて歓喜に満ちた生活に入る事が出来たのであるが、当時の悩み悶へ、苦しみ、幾度か死を考へた事ほどそれが痛切であつたのである。(『月鏡』 出口王仁三郎著)

いたしかたない場合のほか、いかなる口実があるにせよ、人に迷惑をかけるというは悪しきことなり。多くの自殺などの類は、あまりに自己中心なり。自分さえ死んでしまえば、あとは野となれ山となれでは、この世はもてぬなり。死よりも苦しきを忍びて、他の者の犠牲となるこそ真の人たる道なれ。(『信仰覚書』第一巻 出口日出麿著)

万事が外的なる現界、利己執着のかたまりなる現界より、一時も早くのがれたい。たいていの人は、死ぬることをこの上もなくいやがるが、自分には、それが不思議でかなわぬ。束縛から自由へ、苗床から本床へと出ることが、なぜいやなのだろう。しかし、自殺は神の許したまわぬ罪悪であるから、自分はどんなことがあっても自殺だけはせぬ。しかし、死にたい、死にたいのではない。一時も早く、こんな不自由な、バカバカしい、とんでもない、けしくりからぬ世界からのがれたいのだ。(『信仰覚書』第三巻 出口日出麿著)

生死はまったく神界からのことである。決して人為的のものではない。自殺などは、外見上は人為的のようであるが、真実は決してそうではない。神界から黙許された者は死ぬることができるが、もし神から殺すまいとされた時は、いかに人間が死のうと焦っても死ねるものではない。第一、そんな時には、死のうなどという考えが消えて(実は、消されて)しまうものである。(『信仰覚書』第五巻 出口日出麿著)

毎日の新聞紙上に一人や二人の自殺者の記事のないことはありませんが、大体、自殺者は利己主義であり、卑怯者であるように思えます。というのは、自分さえ死んでしまえば、あとは野となれ山となれ、どうなと勝手にやるがよいというふうに、生きのこった人たちに迷惑をかけることも考えずに、自分ひとりが連帯責任からのがれて、抜け駆け的に極楽浄土へ参ろうなどとは、どう考えても、利己的であります。尽すべき手段をつくさず、自分に負わされている重荷をまで他人につきつけて、自分ひとりが楽になろうとするのは、たしかに卑怯といわねばなりません。なるほど、考えてみれば、この世は苦しい、淋しい、辛い。しかしながら、ほんとうは、苦しいのも淋しいのも辛いのも、みな自分であって、世の中ではないのです。(『信仰覚書』第六巻 出口日出麿著)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太