「再生と前世の記憶」

みろく殿の灯篭

霊的真理

大半の人間は現界だけが人間の住む世界だと考えていますが、人間は何度も繰り返しこの世に生まれ、霊性の向上を目指してさまざまな経験を積んでいます。人間はそれぞれ、長い輪廻転生のなかで魂の成長に差があります。

生まれた時には、霊的存在(精霊)であることの意識は、肉体の重さに遮られて、魂の奥深くに潜んだままになっていますが、精霊(魂)は物質の世界での実生活を通して魂を成長させ、死後に始まる本来の霊の世界における生活のための準備をしています。

霊的真理は単なる知識として記憶しているというだけではほんとうに理解したことにはなりません。実生活の場でいろいろな経験をしてはじめて、霊的真理を理解するための準備が整います。霊的真理を理解するための経験とは辛苦であり、悲しみであり、苦痛であり、暗闇です。自分の力ではどうにもならないような場面に遭遇してはじめて、人知を超えた存在を求める心や認める心が起こります。幼い子がこの世を去ることはとても悲しいことですが、一面、精霊(魂)の成長のために必要な体験で学ぶべき課題がそれぞれに与えられていると、捉えることもできます。

人間は、肉体が自分自身であるかのように錯覚し、容姿、化粧、服装、装身具など外的要素をきわめて重視していますが、人間の知、情、意、五感は、すべて肉体でなく精霊(霊魂・心)がこれを所有しています。つまり精霊こそが人間の本体です。

 

「人間=肉体+精霊(肉体に複数の精霊を宿す)」

現界的空間認識では、ひとつの肉体に何十、何百という精霊が宿ることは不可能に思えます。
しかし、人間の肉体は現界に“籍”を置いていますが、人間の精霊(霊魂・心)は霊界に籍を置いています。
精霊が存在する、霊界には現界的空間はないので、肉体に複数の精霊が入ることは可能です。

また、人間の肉体は精霊(霊魂・心)の容器で、管に例えることができます。その管の中を精霊が流れていたり、溜まっていたりします。

人間(精霊)は常時、善い霊界からも悪い霊界からも、さまざまな霊流を受け言動として現しています。毎日摂り入れる食物によって肉体を保つように、絶えまなく感応して来る霊流によって、人間の精霊(霊魂・心)は養われています。

人間が心を正しくもつときは、善い霊界からの内流を受ける媒介者となりますが、心や行いが悪いと悪い霊界からの媒介者となります。

 

大本のみ教え

その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである。(『霊界物語』第四十八巻 出口王仁三郎著)

人間界からいへば、いはゆる命をとられたのだ。しかしながら、人間は霊界に籍をおいてゐる。肉体はホンの精霊の養成所だ。霊界からいへば、死んだのではない、復活したのだ。(『霊界物語』第四十七巻 出口王仁三郎著)

 

再生と前世の記憶

人間はこの世に誕生する前に、重篤な病気や、想像を越えた悲しみを経験するなど、魂を成長させるために自らすすんで困難や試練を選ぶこともあります。

それらの選択や、前世での記憶を持ったまま現界に誕生した場合、過去のトラウマや、やがて起こる出来事に心を奪われてしまい、人生を全うすることが出来なくなり、現界での目的を達成することができません。

そこで、霊界から現界に誕生するときは、霊界での記憶はなくなります。そして、霊界に帰るとそれらの記憶が甦ってきます。

有名な心霊科学の研究者でもあったメーテルリンクの『青い鳥』には、子供たちが名前を呼ばれるのを待ちながら、みんなが集まっている場面があります。それぞれの子供は袋を持っていて、その袋には、贈物や知識だけでなく、自分が患うことになる百日咳や狸紅熱といった病気も、きちんと包まれて入っています。

人間がこの世に誕生するのは、時を選び、親を選んで、地上で体験すべきこともすべて了解し納得したうえであることを示しています。

 

一人の子:チルチル、こんにちは!
チルチル:あれっ! どうしてぼくの名前、知ってるの?
その子:ぼく、きみたちの弟になるんだもん。ぼくはもう準備ができてるって、母さんに言ってね
チルチル:なんだって?ぼくたちのところへくるつもりかい?
その子:そうだよ。来年の復活祭直前の日曜日にね
チルチル:その袋の中になにが入ってるの?ぼくたちに、なんか持ってきてくれるの?
その子:三つの病気を持っていくんだ。しようこう熱と、百目ぜきと、はしかと・・・・・
チルチル:えーっ! 三つも! じゃ、そのあとはなにするの?
その子:そのあと? 死んでしまうのさ。(『青い鳥』メーテルリンク)

 

大本のみ教え

宇宙間においては一物といへども決して失はるることもなく、また一物も静止してゐるものではない。ゆゑに輪廻転生即ち再生といふことはありうべきものである。しかるに生前の記憶や意志が滅亡した後に、やはり個人といふものが再生して行くとすれば、つまり自分が自分であるといふことを知らずに再生するものならば、再生せないも同じことであると言ふ人がある。実にもつともな言ひ分である。
すべて人間の意志や情動なるものは、どこまでも朽ちないものである以上は、霊魂不滅の上からみても記憶や意志をもつて天国へ行くものである。しかし現界へ再生する時はいつたんその肉体が弱少となるをもつて、容易に記憶を喚起することはできないのである。また記憶してゐても何の益するところなきのみならず、種々の人生上弊害がともなふからである。(『霊界物語』第十八巻 出口王仁三郎著)

そこが神様のありがたいところだ。お前が前の世では、かういふことをして来た、霊界でこんな結構なことがあつたといふことを記憶してをらうものなら、アヽ、こんなつらい戦ひの世の中にゐるよりも、もとの霊界へ早く帰りたい。死んだがましだといふ気になつて、人生の本分をつくすことが出来ない。すべて人間がこの世へ肉体をそなへて来たのは、神様のある使命を果すために来たのである。(『霊界物語』十一巻 出口王仁三郎著)

死ぬのが惜しいといふ心があるのは、つまり、一日でもこの世に長くをつて、一つでも余計に神様の御用を勤めさせるために、死を恐れる精神を与へられてをるのだ。実際のことを言へば、現界よりも霊界の方が、いくら楽しいか面白いか分つたものでない。(『霊界物語』十一巻 出口王仁三郎著)

人は一代名は末代と申すが、人民は一代限りでは無いぞよ。生き代わり死に代わり、何度も此の世へ生まれて来るので在るから、今の内に神の行為いたしたものは、又次の世には、結構な身魂と生まれるので在るから、今度の二度目の世の立直しの神界の御用を勤め上げた人民は、万劫末代の花が咲くぞよ。(『おほもとしんゆ』第五巻)

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太