「認知症の状態をどのように捉えるか」

雪の梅松苑

人間の本体は精霊である

大本の教典『霊界物語』には人間の身体(肉体)について次のように示されています「その精霊は、すなはち人間自身なのである。要するに人間の躯殻は、精霊の居宅に過ぎないのである」(『霊界物語』第48巻)。
端的に言えば人間の本体は精霊で、肉体は精霊(霊魂・心)の衣服です。別の言葉で言い換えると人間の肉体は一つの生きている「管」といえます。その「管」の中を精霊が流れたり溜まったりしています。

自分自身の精霊(霊魂・心)以外にもいろいろな場面で、いろいろな「霊」がその「管」の中を流れたり溜まったりして、いろいろなことを思わせたり、させたりします。日常生活を送る中で、外的要因が何もないにもかかわらず、急に不安になったり、嬉しくなったりするという経験は誰しもがあるのではないでしょうか。物質的に、毎日摂り入れる食物(栄養)によって肉体を保っているように、絶えまなく感応して来る霊流によって、私たちの精霊(霊魂・心)は養われています。

ところが、多くの現代人は、肉体が自分自身の本体であるかのように錯覚し脳こそが自我であると勘違いしています。老齢とともに脳の機能が衰えてくると物忘れがひどくなったり、事実の前後関係が把握できなくなったり、理解力が衰えたりします。脳こそが自我であると勘違いした状態で、こうした老化現象を切り取ってしまうと、人間の末路がとても哀れなものとして捉えられてしまいます。

しかし、人間の五感や感情などは肉体に付随したものではなく、精霊(霊魂・心)がこれを所有しており、つねに浄化、向上が図られています。肉体は現界に“籍”を置いていますが、精霊(霊魂・心)は常に霊界に籍を置いています。

認知症とは、能の機能が衰えた状態で、老化現象や事故で肉体に何かしらの障害を持った状態と同じです。現界で肉体的に何かしら障害をもっていた人間でも、心が正しければ霊界では健全な状態に戻ります、逆に現界で健全な肉体の持ち主であっても、心に欠陥があれば霊界ではすっかり変化してしまいます。

肉体が、現界で認知症という境遇を体験することで、精霊(霊魂・心)自身の浄化、向上は続けられています。また、認知症の人間を介護するという経験を通じて自分自身の精霊(霊魂・心)の向上も同時に図られています。

精霊は人の肉体を機関として現界的に働きます。現界において獲得した体験と知識は、霊界に戻り働くための唯一の資本となります。人生の目的は死の瞬間まで、様々な体験を積み重ね知識を高め、品性を磨き自己の人格形成につとめることとされています。大本では、これを身魂磨きとも言います。

精霊(霊魂・心)は、より高い霊性を獲得するために、介護する、される等、様々な経験を積んでいます。
認知症をはじめ多くの病や悩みは、精霊(霊魂・心)の成長のための磨き砂の役割を果たしています。

 

大本のみ教え

「わが物と思えば軽し傘の雪」で、大きい意味で一切は自分の物だと思えば、どんなものにも好意がもてる。なんとかして、より善くしてやりたいという気になれる。本気で世話ができ、面倒がみてやれる。自分のものという意味は、自分の下に属すると限ったわけではない。自分の上、下、左、右、前、後、いずれにかあって、自分と離るべからざる物という意味である。この意味において、一切親子であり、同胞でありーー自分のものである。(『信仰覚書』第7巻 出口日出麿著)

 

すべて性急に物ごとを作りあげようとすると必ず失敗する。赤児を育てあげるような気持と態度で、慈愛ぶかく忍耐強く、一段一段の成長を楽しまねばならぬ。面倒と犠牲とをおしげなく提供する人でなくてはならぬ。気ながく時期を待つ人でなくてはならぬ。
また、物ごと自体の必然的発展の階段を無視してはならぬ。樹木は樹木として、人間は人間としての、それぞれ独得の発展の階段を持っていて、樹木に人間の理想を強いてはならず、また人間に樹木の理想をもってきては困る。(『信仰覚書』第7巻 出口日出麿著)

 

吾らはあくまでも愛善の本義にもとづいて排外的思想をすて、一切を抱擁し肯定して、これを漸次に美化し善化してゆくのでなくてはならぬ。
赤児に対する気持になれば、どんな者へ対し、どんな面倒なことでも、笑いながらこれを行うことができる。(『信仰覚書』第7巻 出口日出麿著)

 

自分のことだったら、誰でも尻に手をまわしてクソをふいている。途中で下駄の鼻緒が切れた場合は、別に侮辱も感じないで、単に手数を面倒がるのみで、スゲなおしている。それは自分のことだから出来るのである。
また愛児にクソ小便をかけられても、大して汚いとも思わずに、苦笑してあと始末をしている。これがもし、大人の相手からなされたとすれば、どうであろう。人は目に角を立て、チリ毛をさか立てて立腹し、汚がるであろう。
クソそのもの、小便そのものには別に大した変わりはない。相手の無邪気と有邪気とが大変応えるのであり、も一つには、自己の心の広いのと狭いのとによって、どうにでも受け取れるのである。この場合、こちらが極端に大きくかまえて、もし相手が尻をふけといって差し出したら、自分の嬰児のお尻だと思って、一度は丁寧にふいてやったらよい。もし下駄の鼻緒をスゲろと命じたら、これも、わが児のだと思って念入りにスゲてやってみるがよい。(『信仰雑話』出口日出麿著 )

 

東海教区特派宣伝使 前田茂太